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本の虫12ヶ月 7月




↓6月のぶん



「海からの贈り物」
アン・モロウ・リンドバーグ

アメリカにはこういう種類の言葉がある。
エリザベス・エリオットの本に、
どこか似ているきがした。
こういう、知恵ある女性のことば。
わたしのメンターをしてくれていた
アラバマのおばあちゃんみたいに、 
家庭で、手を動かしていることから
聡明になっていくみたいな、
そんなgood old religionみたいな
そういう種類のことば。
なつかしい。

しずかであること、
わたしのなかの泉が立てる
こぽこぽとした音に、
耳を澄ませていること。

内的な音楽。

「回転している車の軸が不動であるのと同様に
精神と肉体の活動のうちに不動である魂の静寂」

流れの先にある声は、
みんなどこかで繋がっている。


「どこにいても、誰といても」
藤本和子

「やった!」とおもった。
図書館の検索機に、ふじもとかずこ、と入力して
三十年前のこの本を見つけたとき。
ブルースだってただの唄、も未読だけれど、
あれは本屋さんで買って読むつもり。

さいきん、藤本和子、と唱えていた。
いろんな女のひとを読んでいて、
こっちに寄り、あっちに寄りで、
だれかひとりに傾倒したくはないけれど、
でもそれぞれにわたしの傾きを直してもらいながら、
わたしの呼ばれている方向に、進んでいる。
この本を読み終えて、
そうね、次に移ってもいいかしらね、
とも感じたけれど、それは星としてのこと。
アメリカの鱒釣りもよんでる。
このひとのことば、自由で好きだなあ。
わたしは、このひとの鷹揚な、あかるさが好き。
悲劇的な「じぶん」みたいなものに、
飽き飽きしているからかもしれない。


「山川健次郎の生涯」
星亮一

会津観光史学的なものは、
あんまり読まないようにしてるんだけど、
この本はけっこうよかった。
ある程度の中立性がある。
このひとも会津御用作家の
ひとりだという認識だったんだけど。
そういえば、中公新書の「斗南藩」も
持っているけれど、同じ作者だった。
(じぶんだってものすごく会津節になって
しまうくせに、ひとにこういうことを
いうのはとてもひどいこった。)

あのひとたちがどういうふうに明治を過ごしたか
ちょっと興味がでてきた。柴五郎の、
ある明治人の記録も読もうかなあ。


「ブルースだってただの唄」
藤本和子

このひとは、けっして裁かないから、
いろんなひとの話をきけるのかな。
ひとを、にんげんとして見ているからかな。
裏街道のはなしを、
淡々ときいていく。
ゴシップ記事で読むような世界のはなしを、
にんげんのはなしとして、
きいていく。

牢屋で、神さまにふれられて、
麻薬をしたいという欲求が
 奇跡みたいに消えたおんなのひとのはなし。
神さまがそこにあらわれて、
つながるような感覚がする。
ひかりが、ページの角から見つかるみたいに。

どうやったら、いろんなひとを
愛せるようになるのかしら。
いろんな境遇のひとたちを。

「ブルースなんてただの唄。
かわいそうなあたし、みじめなあたし。
いつまで、そう歌っていたら、気がすむ?
こんな目にあわされたあたし、
おいてきぼりのあたし。ちがう。
わたしたちはわたしたち自身のもので、
ちがう唄だってうたえる。
ちがう唄うたって、よみがえる」


ホハレ峠
ダムに沈んだ徳山村百年の軌跡
大西暢夫

わあ、こんなすごい本。
徳山村といったら、増山たづ子さん、
だったけれど、この本も、すごい。
岐阜県徳山村のおばあさんの一生を、
執拗に取材していく。
少女のころに働きにいった製糸工場、
嫁ぎにいった北海道の開拓地、
そして夫婦養子となって帰ってきた徳山村、
そしてダムに沈んだ。
おばあさんのやるせなさ、
がなにから来るのかを、
丹念に追っていく。
ことばにならないものを。
すごいなあ、ほんとにすごい本だ。
著者、母校の先輩だった。
あの学校の精神みたいなのを、
水脈のようにかんじた。


「暮らしのファシズム」
大塚英志

コロナの頃の同調圧力を、
先の戦争のメディア戦略について語りながら、
うたがう本。

ああいう同調圧力の時代に出会ったのは、
あれがほとんどはじめてだった。
もちろん311だとかを経験してはいるけれど、
あそこまでの規模では。
わたしはまだ、芯がしっかりしていなかった。
揺らいでしまうくらいには、弱かった。
生きていきながら、
じぶんに大切な芯をみつけていく、
そういう期間だった。

書くことが利用されることなら、
わたしはただ芯の芯にある、
キリストにだけ利用されて書きたい。
そこだけぶれなければ。

生きていることを、書け。


「ある家族の会話」
ナタリア・ギンズブルグ

二度目の通読。
マンゾーニ家のひとびとはいつまで経っても
読み終われないのに。
ああ、小さな徳をもういちど読みたい、
とおもった。かのじょの流刑時代にかんじた
胸をつかまれるような感覚、あれを
もういちど読みたい。
小さな徳、あの本は、
いつまでも傍に置いておきたい本。
この本も、手放したくない。
この口語のことばのかんじ、
ちょっとアメリカの鱒釣りにも
つうじるみたいな。
なんていったらいいのかわからないけど。
アメリカの鱒釣りちんちくりん、
と言って、息子とわらいあってる。


 This is Japan
 ブレイディみかこ

わたしより先にこの本を読んだ母が、
「彼女はね、アクティビストなのよ。
深く考えるひととは違うかもしれない。
でも草の根のひとたちを繋ぐ役割のひとだわ」
と言っていた。
わたしは、天の瞳を思いだした。
灰谷健次郎を思いだした、といっていいかな?
さいごの自主保育の世界は、天の瞳の
リンエイ保育園の地続きだった。
かのじょは、この世界を変えようとするひとだ。
それはすばらしいことだ。
とてもちからづよいことだ。
この目線は、忘れてはならない目線で、
いつも覚えていなくてはいけない目線だとおもう。
そう、灰谷さんみたいだわ。
なんでかのじょはこんなに、
伊藤野枝が好きなのかしら、
と前の本で思ったけど、
それもこれで半分わかったようなきもした。
わたしは、伊藤野枝は……ちょっと……
でもわたしは、灰谷健次郎と住井すゑを愛読する
小学生時代を過ごしたので、
ああ、このことばだ、とわかった。
そしてそれをじぶんが忘れておらず、
じぶんの一部になっていることが、
うれしかった。
でもわたしの見ている場所とは違った。
神の国は目には見えない、
というのが、わたしが見ている方角。


「砂漠の教室」
藤本和子

こんなにすごい本を、
一ヶ月に何冊も読んでいていいのかしら。
こんなことしていて、
いつか読書を卒業してしまわないか。
いつか、ある一冊の本に満足したい、
とずっと頭に描いている。
いつか、 
その本と向き合うことになるのだと。
ずっと知ってた。
その本の名前は、
わざわざ言う必要もないでしょう。
こんなにすごい本を立て続けに読んでいると
その日も近いのかなというきがしてくる。


「朝のひかり」
石垣りん

ふと手にとってみた。
詩人のエッセイ集。
かのじょの本籍地、伊豆の光景が、
わたしに海のあこがれを
のこしていった、そんな読後感。
海は、そこにあるんだけど、
あまりにたくさんのひとに
愛でられすぎていて、
表面がつるつるとしてしまっている。
伊豆には、到達しにくさ、
みたいな、ちょっと原始のような、
ノスタルジーがある。
たぶん、下田に車で旅行したときに、
なんて遠いところだろう、
でもなんてうつくしい、
鄙びたところだろう、
と、それ以来あこがれているからかも。
伊豆半島は、真鶴と下田が好き。
下田の先には、どんな風景が
拡がっているんだろう。


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