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教会通訳の告白



 まだはたちにもならぬころ、必要にかられて、見様見真似ではじめた通訳。さいしょは顔を覆いたくなるような、惨憺たる出来だった。だれかに教えてもらったこともなく、ただ米原万里の本を先生に、手さぐりでやってきた、そろそろ「魔女の1ダース」

 じぶんが信じている聖書の教えを、日本語に訳しだすという、とっても特殊で、ちいさな世界しか知らない、しろうと教会通訳の、とっても狭い経験のはなし。

 

 

 通訳をしていると、どうしても暗記しなくてはいけない聖句というのがあって、使徒行伝2:38の「悔い改めなさい、そしてイエス・キリストの名によって洗礼を受けなさい。そうすれば賜物として、聖霊を与えられる」だとかが、それに当たる。

 有名なヨハネの福音書の、「実に神はその独り子をお与えになるほどに、この世を愛された」だとかは、早口でも言えるように、じつはちょっぴり練習もした。

 そういう聖句は、発言者もそらで暗記しているから、こちらもそらで訳さないといけない。暗唱していなかったとしても、その場ですらすらっと訳しださないと、流れを止めてしまうことになる。わたしは、発言者が気持ちよく説教できるように、テンポを崩さずに訳しだそう、というのを目指しているから、そこで聖霊の流れをよどませるわけにはいかない。

 でもまあ、相手も人間なので、ものすごく難しい聖句をそらで覚えてることも、あまりない。あまりない、というのは、わたしが普段訳しているふたりの説教師に限ってのこと。ときどきやってくるゲストが、ものすごく記憶力の良いひとで、とつぜんなんの文脈もなしに、聖書のとてもマイナーな部分を話しはじめるので、頭を総回転させた、なんてこともある。

 「そういえば、オルナンの麦打ち場で……」

 オルナン…… オルナン…… ユダの息子のオナンのことじゃないわ。ええっと、あ! ダビデが捧げ物をするために、麦畑を買い取ったひとのこと!? ほんとに!? 

 みたいな作業を、二秒以下の一瞬で、頭のなかに繰り広げるのである。ほんとに、生きた心地がしない。

 あとわたしは、どうしても Elijah と Elisha の区別がつかない。なんども頭が混乱する。どちらが初代で、二代目だっけ、エリヤとエリシャ、どっち、どっち、となってしまう。ja なんて音は、ヘブライ語にもないし、日本語にもないのだ。あと新約聖書の James が、日本語ではヤコブであるのも、頭を掻き乱される。

  通訳にはいろいろなタイプがいるけれど、わたしは発言の意味を把握し、絵のように思いえがいて、それを日本語に移し替えようとするタイプである。逐語訳をするひともいる。対してわたしは、意訳派ということになるだろう。だから、知らないひとの通訳をするのは、なにを言いだすかわからなくて億劫である。発言者の文化や、歴史を知らないと、訳せないような言葉もあるから。

 このあいだナイジェリア人のKさんが、「箴言のかに、こんなのがあったよ。ただの庭師として戦争に駆り出されるよりは、ふだんから武器の扱いを習っていたほうがいいって」と説教のなかで言いだした。

 そんなのあったっけ、と思いつつ、Proverbと言われたから、そのまま箴言と訳した。家に帰ってから、箴言を最初から最後まで調べたけど、ぜんぜん見つからなかった。次はコヘレトの書を調べるか、と思ったが、そのまえにいちおう彼に確かめてみた。その返答。

 「ああ、あれ! あれは聖書の箴言じゃなくて、アフリカの長老の箴言だよ!」

 そんなん分かるか、とわたしは思わず吹き出してしまった。彼らの背景を理解しようと、中公新書の「物語 ナイジェリアの歴史」も、「物語 フィリピンの歴史」も読んだし、機会があればいろいろ聞きだそうとはしているけど、教会で Proverb っていったら、ふつうはソロモンの箴言のことだもん!

 でも、まあ、わたしは面白がりながらやっている。だんだん速く訳せるようになってきたので、Kさんなんかはときどき、わたしを同時通訳と勘違いしているようなスピードをぶちかます。こないだの日曜なんて、ひどかったのよ!  

 「あんまり長くなっても困るから、みんなが速く聞いてくれたら、ぼくも速く喋るね」

 とKさんは、聴衆に釘を刺してからはじめた。その意味するところは、つまり、通訳に猛スピードで訳せ、ということだ。そういうとき、説教師と通訳は、刺すか刺されるかみたいな、死闘を繰り広げることになる。いつもはちゃんと、それに備えてエナジードリンクのちゅーちゅー (ゼリー飲料のこと。水分補給になるが、トイレは近くならないので、通訳時に愛用している) を持ってくるのだが、その日は忘れてしまい、マグカップに入ったただの水で、アフリカンパワーと対峙することになってしまった。

 よく説教の終わりごろに、説教師が「もうそろそろ終わりにするから」と言い訳をする。すると聴衆から、「もっと説教していいんだぞ!」と声がかかる。そんなときにわたしは、「これ以上やって、わたしを殺すつもりですか」という表情を浮かべることがある。通訳っていうのは、まったく愉しいもんだね!

 ただの水で、アフリカの大地と決闘した日のこと。「いやあ、疲れたでしょ。大変ね」とあとで教会のひとに労ってもらった。ほんとうに、体力と気力のすべてを出しきってしまったので、説教が終わり、祈りの時間が終わったあと、ふらふらっと会堂を出て、食堂でうずくまっていた。そこに牧師のちいさな娘がやってきて、わたしたちはふたり、猛暑のせいで草抜きができず、草原になってしまった教会の庭を眺めていた。

 「こりゃ酷いわねえ。でもKさんの通訳をしてきたとこだから、もう草抜きなんて出来ない。来週やることにする」
 「ワタシもおてつだいしたいけど、Iがいっしょじゃなきゃダメなの。Iはあっちの部屋にいるから」
 「暑すぎるから、あなたはやんないほうがいいわよ。それにしても、いつまで暑いのかねえ。秋なんかすっ飛ばして、そのうち雪が降るんでしょうねえ」
 「雪がふる! そしたら、このボーボーの庭も、雪でまっしろになるね!」
 「ハハ! そしたら雪で草が枯れて、草抜きもしなくていいってわけだ!」

 わたしたちがそんな会話をしているあいだも、礼拝はまだ続いていたらしい。スピーカーから、かのじょのお父さん、牧師の声が聞こえてくる。

 「あら、たいへん! あなたのお父さん、通訳なしで祈ってるわよ!」
 「ほんとだ、ダディが祈ってる」
 「あとから日本語で言い直したりしないかなあ、いや、してないな。自力通訳は無理かあ」
 「ほかの通訳のひとに、ダディの訳して、っていってこよっか?」
 「ううーん、でももうすぐ終わりそうよ。もう手遅れかも」

 スピーカーから聞こえてくる牧師の祈りは、まもなく終わった。わたしたちは草原のような庭を、なおもぼんやり眺めていた。ペットにバッタを飼っている、虫愛ずる姫君が、蝶と称する蛾を捕まえようとするので、わたしはのけぞって逃げだした。 
 
 



 ↓「イエスさま、わたしを引き寄せて」という題の、こないだの木曜のバイブルスタディの録音。めずらしくケルヴィンさんがゆっくり喋ってくれました。この記事の下書きを、確認のために読んでもらったからかも?
  


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