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逃れの町  (小説)


※ この小説は虚構作り話であって、実在の団体や
人物とはなんの関係もありません ※

 1
 
 飛行機がおりた瞬間から白い窓のそとにひろがる青い空、ジェットのような乾ききったクーラーの風に吹き付けられながらもなぜか感じる外の暑さに、帰ってきたなと真木はそう思った。

「当機はアトランタ国際空港に到着いたしました。」

 空港のなかは新しいのにほの暗い穴ぐらのような色をしている。荷物になったようにぐねぐねとAからBに、そしてCにと矢印に誘導される。靴を脱がされベルトを外させられ、まぬけな思いになる。隣の中東系の風貌の男はきつくチェックを受けている。ポケットに硬貨が入ったままだったらしくなおさら余計に。

 スーツケースたちをひっつかみ、最終チェックを受けると、ようやく解放された。きしんでまっすぐ進まないカートを押しながら、出迎えロビーは眩しいように白く、光にあふれていて、まばたきをした。welcomeと書いたカードボードを持つひとたちもいる。あれをされたら、恥ずかしいだろうな、といつまでも彼は日本人気質がぬけきらない。ここは、サザンホスピタリティの国なのだ。

 だれもがだれかを探しているのに、彼が探しているひとは見当たらなかった。すこし孤児になったような気分であちこちを見回していると、ポップなチェック柄の半袖シャツを着た白人の中年男がスタバのカップを手に、こちらに背をむけて座っていた。ほお、スタバはあそこにあるのか、俺も買おうかなあ。

 コーヒーを啜りながら、パウロは聖書を開いていた。重いカートの音に気づくと、やあ、と顔をあげた。

「こんなところで聖書を読んでると、いろんなひとに話しかけられたぞ」
パウロはおもむろに言い出した。

「へえ」
見ず知らずの他人に話しかけることが稀な国から帰ってきたばかりの真木は、実に意外な、という顔をした。 

「クイーンズイングリッシュの紳士は、英国国教会の聖職者だっていってた。あとは、アフガニスタン帰りのベテラン、さっきまでそこで自分の人生を振り返ってくれたよ」

「そんなに待たせたかい?」

「イースタンタイムとセントラルタイムを間違えた。でもそのかわり、ベテランにキリストのはなしが出来たぞ」

 一ヶ月の帰郷のあとで、真木はうまく思った通りに英語が出てこないジレンマを喉元に感じながら、すこしゆっくりと言葉を口にした、
「すごいなあ、俺は一ヶ月も一緒にいて、母になにも言えなかった」

 パウロが立ち上がって、ふたりはカートからおろしたスーツケースを引きずりながら、駐車場にゆっくりと向かった。パーキングをけちったから遠いぞ、と言ってから、

「エリーが見たら、またマキが暗くなったって言って騒ぐぞ」

とパウロ。妻のエリーをたびたび引き合いにするのは彼の口癖である。

 夏の長い午後に、空港を出た車は、次第に郊外へと、アトランタ攻防戦の戦地の名前を看板にみながら、ずっととおく、赤い土と松林のあいだを、やがて紫とピンクの宵闇につつまれながら、アラバマの片田舎に向かった。
 車は、暗い松林のなかに暖色の光が点る、パウロとエリーの家についた。コンクリブロックの基礎のうえに立っていて、淡いベージュの外壁はペンキの色も新しい、ダブルと呼ばれる比較的広いトレーラーハウスである。赤い玄関の扉がひらくと、あたたかな光と家庭料理の香気とそしてそのすべての女王であるエリーがいっきに飛びだしてきた。

「マキ、おかえりなさい!」
エリーは手をさしのべた。

「やっぱりなんか暗い顔して帰ってきたわね!飛行機のせいかもしれないけど」

 エリーは明るかった。そのブロンドの髪のせいだけでなく、ただとにかくエリーにはまるで陰というものがないかのようで、どんな試練も苦労も、エリーの光を消すことはできなかった。それでいて、エリーはだれよりも強かった。体格は小柄だったが、なによりもエリーのこころの強さと信仰のために、みななにかあればエリーのもとにやってくるのだった。

 食卓は三人分に備えられていた。真木は常連で、彼の席も決まっていた。それぞれに腰をおろすと、パウロが食前の祈りをした。

「主よ、あなたが無事に真木を帰らせてくださってほんとうに感謝します。どうか、彼の置かれている状況に、あなたが介入して、みこころをなしてくださいますように。どうぞあなたが彼を用い、祝福してくださいますように。この食事を作ってくれたエリーを祝福してください。これがわれわれの体の栄養となりますように。愛する主イエスキリストの御名によってお祈りします、アーメン」

「それで、お母さんは?」
エリーが、マッシュポテトにグレービーをかけながら聞いた。

「そう長くはないかもしれない」
真木は、眉間に皺をよせながら答えた。

「まあ、そうだったの...」
「帰ってきてよかったのか?」
これはパウロ。

「そう今日明日のはなしではないし、仕事があるから、帰らないわけにも...」
「そうねえ...、お母さんはなにかおっしゃった?」

「いつものとおり。どうして本家の跡取りが、家を捨ててアメリカになんか行ってしまったのか、どうしていい年になって結婚もしないのか、キリスト教になんかなってしまってわたしが死んでも供養もしてくれないつもりか、と」

「真ん中の質問はわたしも不思議だとおもうけど」

まあまあ、とパウロが割って入った。
「神様が相手を用意してくださるまで、真木だって勝手に結婚するわけにもいかないんだから」

「それか、あなたがパウロなんじゃない?」「神のみぞ知る、ですよ。」

 真木とパウロのふたりは、大学時代からの親友だった。日本の地方の旧家の一人息子として生まれた真木が、重圧に耐えかねるようにして、アメリカの大学に留学したのも、もう二十年弱の昔である。語学のために日本人のいないところを、といって探し当てたのは、深南部のほんとうに日本人など他にいない、小さな町の大学だった。アメリカ南部はキリスト教の信仰が根深いところである。すぐに彼はキリストを知った。それには親友のポールも一役買っていた。彼は若い頃から教会でときどき説教をするような、熱心で油そそがれた青年だった。

 それ以来、信州人の真木と南部人のポールは、同じ教会に通い、近くに住み、ポールが結婚してもその友情は変わらなかった。真木はどちらかといえば真面目な、文学や芸術を好むたちで、彼がパウロと呼んでいるポールは、狩猟や野球を好む典型的な南部人だったけれど、エリーもふくめ、彼らの共通点は、神だった。

「日本にも教会はあるんでしょう?」
立ち上がって皿を流しに運びにいった真木の背に、エリーが問うた。

「うちは、地方だからね。あるにはあるけれど、聖霊のせの字も感じられないところに今さら耐えられるとも思わないし、どんな教えをしていようが構わないっていうんじゃないしね...」

「でもトーキョーにはあるんだろう?ここに近いような教会も?」

「行ってきたよ。面白かった。日本なのに日本人があんまりいないんだ」
アラバマの教会で、唯一の日本人をしている真木はすこし嬉しげだった。

「日本人があんまりいないってどういうこと?」

「牧師はフィリピン人だったしね、中国人とか、インド人とか。だから通訳がいて、説教を和訳しているんだ。英語がわかるとすこしまだるっこしい感もあったけど」

「何人くらいの教会なの?」
「さあ、三十人くらいかな。日本人は十人いたかくらいで、あとはみな外国人だった」

「それは、日本が無宗教の国だから?」
「そうかもしれないね。でも、ディーコンをしているひとの家族は、先祖代々のクリスチャンだっていってて、そんなひともいるのかと思ったよ」

「すてきなひとはいた?」
エリーは、しつこくその話題を振る。

「どうでしょうねえ」

「これだけ探してアメリカでだれも気に入らないんだから、マキが気に入ったひとがいたとしたら、ほんとに見物よ」
縁結びを趣味とするエリーが、お手上げといったふうに首を振った。

「中国人?インド人?」

「なんども言ったとおり、ぼくは真珠湾攻撃の話題で険悪にならずにすむひとが好みだから」

「あーあ。マキがそう偏屈でさえなかったら、もう十年もまえにはとっくに結婚出来てただろうにねえ」
 エリーが首をふると、さらさらと音をたててその腰につくような長い金糸のような髪が、光をうけて揺れた。

 外にでてみると、一面の星空だった。星の光を霞ませるような町の光源は、どこを見渡してもなかった。ただ田舎の夜の静寂だけがあたりを支配していた。真木はいつもの通り歩いて、数百メートル先にある自宅へ帰っていった。パウロが車で先回りして、スーツケースを真木の住む教会所有のちいさなトレーラーの玄関に、おろしていった。百エーカーある教会の敷地に、みながじぶんのトレーラーハウスを、建てて住んでいた。ぜんぶで十軒はあるだろうか。舗装もされていない砂利道にそって、肩をよせるでもなく、ぽつんぽつんと住み着いているのだった。



 2
 
 休暇を寄せ集めて目一杯にとった一ヶ月の休みだったので、時差ボケしていてもすぐに仕事に戻らなくてはならなかった。大学時代専攻を決めるときに、歴史や文学を選んでもこの近くでの職が見つからないことは自明であったので、実家の広い庭で土をいじるのが好きだった彼は、園芸科を選んだ。仕事が少ないアラバマでも、日本庭園の知識もある真木は、なんとかランドスケープアーキテクトの事務所に雇ってもらうことができた。建築の分野から入るひとは多くとも、植物の知識に特化したひとは少なかったので、案外重宝されたのである。そういうことでかれこれ十五年ほど、彼は南部の赤い土をいじったり、植物を選んだり、木を植えたりしている。

 いま、南部の景色をいろどっているのは、町のいたるところに植わっている鮮やかなピンクの百日紅。庭には金色のランタナや、バタフライツリーと呼ばれ蝶を引き寄せるブッドレア、房のような花を頻繁に剪定してやらなくてはならない。昼間は暑すぎるので、真木はいつも早朝に来て、事務所の庭をいじる。建築畑の出身でないからかもしれないが、CADで図面を引くよりも、こうして庭に出ているほうが彼は好きだった。けれども、この仕事も、もう辞めないといけないな、彼はグローブをした手ににぎったスコップを見下ろしながら、ぼんやり考えた。十五年来のボスであるスコットも、彼の抱えている事情は理解してくれていた。日本で独立すると思えばいいじゃないか、と家を継ぐために早々帰国を余儀なくされる運命にため息をつく彼を、すこし勘違いしたふうに励ましてくれた。

 アメリカはサラダボウル、と日本の学校で学んだ記憶があったが、彼はいつも馴染むような馴染まないような思いをしていた。それは腰かけのようにここにいるからでもあり、彼のなかの古い日本の血があまりにも強いからでもあった。アメリカにいればいるほど、真木のなかの日本的なものが呼び起こされた。仕事はとても性に合っていた。南部はどこか日本にも通じる、奥ゆかしさと礼儀正しさのある土地だった。そして決して離れたくないような、すばらしい教会の家族がいた。けれどもいつも、ここはじぶんの根をおろす土地ではないという感覚があった。アメリカにおいて、彼は傍観者であって、じぶんの劇を演じているのではなかった。それには、周りの友人がみな結婚して家庭を築いていくなかで、ひとりだけぽつんと残ってしまったことも大きく影響していたかもしれない。スピンスターの男性系はなんていうのかな、ぽつねんと考えていると、ちいさなヒアリの大群が足の下を行進しているのに気づいて、慌ててとびすさった。



 3
 
 逃れの町、というのを真木がはじめて聞いたのは、牧師の説教だった。聖書を読んでいて、目にしたことはあったが、説教の文脈のなかで語られるまで、頭のなかで形をもって絵がくことはできていなかった。

 それはモーゼがイスラエルの民をエジプトから導きだして、約束の地に連れ戻すときに、神が定めた掟だった。故意でなく、誤ってひとを殺してしまったひとが、逃れの町に定められている六つの町のひとつに逃げこめば、彼は敵討ちの手から救われる。町の境界を出てはならない。町の外で敵討ちにあっても、それは正当なことである。彼は大祭司が死ぬまで、そこに留まらなくてはならない。大祭司が死んだ後はじめて、殺人を犯した彼は自分の所有地に帰ることができる。

 そうか、俺は逃れの町にいるのか、と真木は啓示を受けたような思いがした。人を殺したことはなかった。けれども生まれたときから、彼は仏壇を守ること、寺の忠実な檀家として勤めること、仏事を行うこと、集落の祭りを担うこと、すべて古い本家の当主としての役目が定められていた。じぶんで選んだことはひとつもなかった。定められた道は、キリストに従う道に反していた。キリストを知るまえから、彼は重い闇のようなものを感じてただ逃げたいと思っていた。キリストを知ったとき、彼ははじめて光を、じぶんを救いだしてくれるものを見いだした。本家の当主になることと、キリストに従うことは、自らを引き裂くかのように相反したもので、彼はただ、こころの語るままに従って、もう二十年近くも、この逃れの町に留まっていたのだった。

 大祭司は、家族のなかでさいごに残っている老いた母だった。母が、彼の背負わなくてはならない荷を、いまは背負ってくれている。母が死ねば、真木は否応なしに選択を迫られることになるのだ。キリストを選ぶか、世間の期待に応えるか。答えはもう決まっていた。けれども逃れの町のそとに一歩踏み出すのは、ただただ恐ろしいことだった。



 4
 
 土曜日は教会のピクニックだった。晴天に恵まれて、暑すぎもせず、緑と木漏れ日のなか、子どもたちはかけまわり、教会のひとたちはほぼ一堂に会していた。会堂の外の木陰に、長机と折り畳み椅子がしつらえられ、車寄せの屋根のもとに、めいめいが調理してきた鍋が並ぶ、ポットラック式のピクニックである。真木が帰ってきて、教会の家族の前に出るのはこれがはじめてだったので、ひとびとは途切れもせずに彼のもとに来ては、日本はどうだったか、ときいたり、愛情のこもった握手を交わしたりした。

 真木は紙皿に、マッシュポテトとグレービー、フライドチキンに緑豆の典型的な南部料理をとった。食べ終わると、パウロの姪にあたる、生後三ヶ月のリリーをうけとって、腕に抱いてしずかに座っていた。リリーは、ふわふわとしたガーゼのおくるみに包まれ、さかしげなまみは赤子のものとも思えぬような長い睫毛にとじられていた。しろく、あたたかく、やわらかい、まだこの世のものとも思えぬ小さなリリーを、真木は慣れた手つきで抱いていた。バレーボールをする人数を求めに、真木のところにやってきたティーンエイジャーたちも、眠れる赤子をみてしずかに去っていった。

 ふと横に、日差しを浴びてエリーが立っていた。

「わたしたちが、じぶんのこどもを腕にする日はいつ来るのかしらねえ」

 エリーがこのようなことを言うのは、とても珍しかった。エリーはいつも、アンティ・エリーと教会中の子どもに慕われて、結婚して十数年経つにもかかわらず、じぶんの子どもが出来ないことに、なんの引け目も感じていないように見えたから。

真木はすこしうろたえて、わざと茶化した。
「パウロに殺されたくはないなあ」

「ねえ、わたしのこと、お節介だと思ってるでしょ?」
隣の席に腰をおろして、エリーは言った。

「わたしはね、マキのことをからかって遊んでるだけじゃないのよ。...そうなの、たしかに遊んでるけどね。ずっと祈ってるんだから。マキには、助け手が必要だって、ずっと神さまに訴えているんだから」

エリーは細くしろい手で、日に照らされて光っている赤いプラスチックカップを撫でた。

「マキがいなくなっちゃうでしょ、そしたらポールはほんとに寂しくなると思うわ。きっとポールは、日本に宣教に行くっていいだすでしょうね。でも、ポールにはあなたのその複雑な日本の文化はわからないわ。あなたはこんなに長く合衆国にいるのに、芯から日本人なんだもの。神さまはね、あなたにぴったりのひとを日本に用意していてくださるの。これは、神さまがわたしに教えてくださったことなの」

 一気にいいきると、エリーはひまわりのように笑った。

「わたしも、マキがいなくなると寂しいなあ。どうして、こっちの世界ではこうやってお別れしないといけないのかしらね。あっちではね、お別れなんてないの。みんな大切なひとたちはずっと一緒にいられるの。年をとればとるほど、あちらがどんどん輝いて、手でふれられるように近く、現実に感じるのよ。生きることはキリストであり、死は利益なのです、って」

 そのとき真木のこころを、ひそやかな風のようになにかの予感が過ぎていった。けれども彼は、それを感じないように殺した。真木とパウロより五つ若いエリーは、いつだっていまが一番美しいというふうだった。成熟して、匂うような、光を放つエリー。真木には彼女が、妹のようにいとおしかった。

「エリーもいっしょに日本においで。赤くない土と、雪をかぶる青い山を、見せてあげるよ」
せつなさに胸をしめられながら、真木はせいっぱい明るく言った。

「ヴァージニアみたい?」
「ヴァージニアとは違うなあ。うちは盆地だから土地はもっと平らなんだ。でも同じくらいきれいな山国だよ」

「きっとわたしも行くわ。ポールが行くんだもの。わたしだって行くわ」

 白いテーブルの表面に木漏れ日がちらちらと揺れているのを、真木は黙って見つめていた。あまりに完全で、うつくしいので、泣きたくなるような昼下がりだった。小さなこどもたちが、真木の膝によじのぼった。真木を母のように、父のように、祖父母のように、弟のように、家族のように愛してくれたひとたちが、みなまわりにいた。真木は、この家族の一部だった。肌のいろも、国籍も、なにも関係なく、ただこのイエスの霊を宿すひとたちと、ひとつの家族だった。そして二十年の重みは、あまりに離れがたかった。真木はくりかえしくりかえし、エリーの語ったあちら側についてのことばを、なぞるように思い返していた。



 5
 
 日曜の礼拝の終わりに、牧師は真木を前に呼び寄せた。

「ブラザー イズゥミィ!」

 真木を下の名前で呼ぶのは、ほとんどこの体格のよい牧師だけだった。大昔に、真木はじぶんの名前が日本ではどういう人と関連づけられるかを、ランチの席で牧師に話したことがあった。真木和泉、尊王攘夷を唱えて道半ばに自害した幕末の志士。だから真木と名字で呼ばれるほうが好きなんです、と言ったつもりなのに、この厳めしいように見えて茶目っ気の隠せない牧師は、素晴らしい名前じゃないか!といって、インナージョークのようにもう十何年も、ときどき彼のことを下の名前で呼んでいる。ほかのひとには、マキのほうが浸透しているし、呼びやすいようなのだが。

「さあ、兄弟たちは前に来て、マキに手を置きなさい。祈ろう!」
あるひとは異言で、あるひとは英語で、みなが真木のまわりに集まって祈った。

しばらくの祈りの後に、牧師が言った、
「逃れの町のはなしは知っているね」
真木は頷く。

「きみは、ふしぎな経緯をたどってここに来た。そしてここでイエスに出会って、新しいひとになった。きみはここにいる限り、故郷できみを待っている封建的な縛りから逃れられる。ここはきみの逃れの町だった」

「けれども、主は言われる。わたしこそがあなたの逃れの町である、と。わたしには国境も海もない。わたしはどこであれ、あなたとともにいる。わたしはあなたを、あなたがもといた場所に呼ぶ。わたしこそが大祭司である。わたしの血があなたを自由にした」

「恐れるな、雄々しくあれ。イズミ、きみはもう独り立ちできる。きみはここで神の言葉をたくさん吸い込み、完全な身の丈に成長してきた。だから大丈夫。ぼくたちはいつも祈りでささえているから。寂しくなったら帰っておいで。イズミに会えなくなって、ぼくたちが寂しくて会いにいくのと、どっちが早いか競争だ。」

 真木が父のように慕っている牧師は、やさしく彼を抱きしめた。



 6
 
 まるで夏の終わりを告げるかのような、ひとすじの目に見えない風が渡っていった。教会のキャンプグラウンドは、手付かずの森と、開拓された土地とがせめぎあい、松の木々はこの地をいまにも昔の姿に戻してやろうと、つねに旺盛にちいさな苗が境界を越えよう越えようと伸びてきていた。ひかりが、透き通っていた。むかし見たエグルストンのカラー写真のように。白河以北一山百文といわれた日本の東北に通じるような、ここ南部には敗者の優しさと繊細さが漂っている。

 ゆるやかな丘陵のうえに教会は建っていた。じぶんの住むトレーラーハウスから、教会のある丘の上まで、真夏の酷暑でもないかぎり、真木は六分ほど歩いて通うのを好んだ。アメリカ人はみな、どんな短い距離でも車で移動するのだけれど。

 丘のうえに立ったとき、ズボンのポケットが震えた。予感がした。べつにどんな他のメールであってもおかしくないのに。案の定、叔父からのメールだった。彼と家との最後の防波堤だった母は、死んだ。

 むなしい諦念と、さいごまで反りの合わなかった母を悼む思いと、そしてこれから直近でじぶんのしなくてはならない幾百の些事に、地に足のつかない思いになりながら、真木が訪ねたのは、牧師のいるオフィスだった。

「母が、死にました」

 ノックして、開けた扉にむかってそういうと、牧師と、その手伝いをしていたらしいパウロが、唖然とした顔で固まった。

 オフィスは、壁が一面本棚で埋められていた。マホガニーの机のうえには、鷲が剣を加えている置物がある。イスラエルの彫刻家が、牧師にくれたものだった。真木も、牧師につれられてもう何度もイスラエルを訪れていた。パウロが動かしていたパソコンから出力される印刷物が、プリンターから流れ出していく、その音だけがひびいた。

 ドアのもとにいた牧師が、真木の肩に大きな手をのせた。パウロが、すこしうろたえたようにして言う、

「空港まで車を出そうか?」

 現実に引き戻されたように、真木の頭は動きだした。ひとが死んだとき、なにもすることがないよりも、忙しすぎるほうが助かるものだ。

「来なくていいんですって。叔父が葬式をしきってくれるって。母の葬儀は無論仏式ですから、しきたりの一部になれない跡継ぎはいない方がいいんです」

 牧師が呆れた顔をした。

「お母さんのひとり息子なのに、葬式にも出させてもらえないのか?」

「ひとり息子がいたら、どうして喪主をしないのか、喪主をしたらどうしてしきたりに従わないのか、と世間体の悪い問題だらけですからね。それくらいなら、アメリカにいるからアイツは間に合わないんです、というほうが聞こえがいいのですよ」

「まったく恐ろしい国だな...。でもとにかくイズミはこれで仏式の葬儀から守られたのか」 

 そうだ、僻まずにそう考えないと、と真木は思った。けれど、これからじぶんは、そこに帰ろうとしているのだ。

「これから一ヶ月くらい掛けて、仕事の引き継ぎをしたり、引っ越しの準備をしたり、ここでの生活を畳もうと思います。帰ってくるように、というだけで、今日明日というはなしではないんです」

 いつのまにか、パウロは男泣きに泣いていた。牧師がティッシュを差し出す。

「さあ、祈ろう」
牧師が言って、三人は輪になって肩を抱き合った。

「おお、主よ。ここに、わたしたちの大切なひとりの兄弟がいます。あなたは彼を、わたしたちの心と別ちがたいほどにひとつにされたので、いま、二十年の後に彼を、あなたが呼ばれる地に送りださなくてはならないことに、非常な苦痛を覚えています...」

 ここまで祈って、牧師の声は震えた。それを引き継ぐように、パウロが声にだして祈りだした。

「主よ、ぼくたちはあなたを信じます。あなたが真木と共にいてくださることを。彼に道を備えてくださることを。彼を待ち受ける、異教のしきたりと偶像から、あなたは必ず彼を守ってくださいます。あなたはその血をもって、彼を解き放ってくださいました。主よ、ですから真木は自由なのです。あなたの血が、真木を古い家制度の奴隷から、買い戻してくださったのです」

 真木の心に、ことばが浮かんできた。それは、キリストが十字架につけられるまえに、ゲッセマネで祈ったときのことばだった。ちいさなききとれないような声で、真木は聖霊のささやくそのことばを、となえた。

「...できることなら、この杯を、わたしから遠ざけてください。しかしわたしの思いでなく、あなたのみこころを...」

 その瞬間、解放がきた。神の霊が、真木から重荷を、恐れを、取り去った。風のように、三人は聖霊が満ちるのを感じた。三人は、ひとつになって叫んだ。叫ばなければ、ことばにできないあまりの喜びに、はらわたが引き裂けてしまいそうだった。神はそこにいた。シャドラク、メシャク、アベドネゴとともに、燃えさかる炉のなかを歩いた四人目として。むかしも今も変わらない神が、三人とともに、そこにいた。

「これこそリバイバルだ!」
と牧師が叫んだ。


 
 7
 
 出立の日は、来た。カロンの渡し守は、またもパウロだった。荷物は先に送ってあったので、彼はほとんど身軽に、まるでバックパッカーでもあるかのように、かろやかに旅立とうとしていた。逃れの町からの出立は、まるで戦闘地に向かうかのような思いだった。なつかしい、毎日触れていた血のような赤い土は、もう故郷の黒い土よりも、じぶんの一部に成り果てていた。彼がそれでも帰るのは、ただ神に呼ばれているからでしかなかった。けれどもそれは、目には見えなくともあらがえぬ強さをもった力だった。

 神は、かれを愛するものを、いつも表面的な平穏へ、安楽へと導くわけではないのだ、と真木は思った。彼は苦しみに、迫害に、そして孤独へと呼ばれ、導かれていた。神の祭壇に、自らを横たえ、屠られようとするひとは、ただ神から祝福だけを求めるひとよりも、どれだけ神を信頼していることだろうか、どれだけ神と親しいことであろうか。無論真木は、あの旧家に帰り、本家分家の文脈のなかで、神に完全に従うことが、なにをもたらすであろうか、すべて手に取るようにわかっていた。真木のなかに、蛮勇のようなものはなかった。おろかな軽々しいスポーツ的な勇気のようなものを持つには、彼は慎重で、そして物事を知りすぎていた。

 ただ、屠られる子羊の思いで、彼は故郷に帰るのだった。いつも焦がれていた、あの青い山々に霧のかかる故郷に。彼はそこで、おなじ歴史を背負い、似たような肌や目の色をした群衆のひとりとなるのだ。そこでは彼に文脈がふたたび与えられて、ひとびとは彼のなかに、その先祖に、屋敷に、故郷の名に、ひとすじの繋がりのある物語を読むようになるのだ。二十年間異郷で、白紙の紙束として過ごした彼にとって、じぶんと繋がった文脈のなかに戻ることは、我を取り戻すような魅力があった。
 
 空港までの二時間の旅は、ほとんど無言で過ぎていった。真木はこれが最後ではない、と言い聞かせながらも、見慣れた木々や丘、町とそこに建つ家々を目に焼きつけていた。それは感傷かもしれなかった。パウロはただひたすらに、前を見つめて運転をしていた。海に隔たれ、そして完全に逆方向にあって道など繋がっていないにもかかわらず、まるで進んでいけばその先に、親友がひとりで発とうとしている日本があるかのように。

 空港が近づくにつれて景色は落ち着かなくなっていった。新しく普請されたばかりの道路が、何もない土地をぶったぎるようにして、そこかしこを通っていた。赤い大地はまるで血を流すかのように、痛々しげに、人間のつくった巨大なだけのコンクリートの塊をのせていた。まだ重機のみえるところもある。道路だけがぴかぴかと新しく、そして立派だった。パウロがまたも空港から遠い、して安い駐車場に、彼の赤いキーアを停める。なにもいわず、真木はひょいと車を降りたった。

「ほんとうに荷物がこれだけなんだもんなあ」
パウロは、真木が背負ったバックパックを眺めて言った。
「ほんの一ヶ月前は、あんなに大荷物だったのに」

真木は、背中の大きな荷物のほかに、空気で膨らます枕とパスポートだの本だのが入ったちいさな機内持ち込み用のバッグしか持っていなかった。

「日本にはお土産を渡すようなひともいないから」

「そのトーキョーで会ったお嬢さんになにか買っていけばいいのに」

「十五も年下なんだぞ。まさかこんなおじさんを相手にもしてくれまい」
パウロは真木を軽くこづいた。

 国際線の発着ロビーについた。デルタ航空の成田行きという文字を探す。成田、ほんの一ヶ月まえにも通ったが、なつかしく、血なまぐさい名前だ。こんな遠くでその名前に出会うのは、なんとも不思議である。真木が事前に発券してあったチケットを見せ、荷物を預けると、パウロは、ついに来たか、という顔をした。

「まあ、待ってろよ。ぜったいに日本に行くからな」

 パウロの人懐こい、黒目がちな深い青の目を、まっすぐに見つめた。その濃いブロンドの頭髪と髭に、すこし白いものがでているのに、いまさながら気づいて、真木は苦笑した。きっとじぶんも同じなのだろうなあ。

「エリーも連れてこいよ。お前の面倒なんか俺ひとりで見切れんからな」

 そういって、じゃあ、と言い放つと、真木はくるりと踵を返して、身体検査の列に並んだ。長い列を待つあいだに、いちどだけ振り返った。パウロはそこにいた。いつのまにか買ったらしいコーヒーを手にして。パウロはにやりと笑った。それからスマホを取り出して、何やらを打っていた。真木の手元にメッセージが届いた。「四十近くのおっさんなんだから泣くなよ、恥ずかしい」 このやろうと思って、それからはもう振り返りもしなかった。

 チキンもビーフも機内食は大して旨くないこと、そして緊張している胃には受けつけがたいだろうことがわかっていたので、ただ新しく明るいだけのはでなフードコートで、無駄に高いカリフォルニアロールとミネラルウォーターを買い込んだ。胃酸が逆流するような感覚に、えずきたくなるのをおさえていると、ゾーン3の搭乗が開始され、長い列に並んでやっと、真木は機上のひととなった。

 

続き 砕かれる

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