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わたしの軛 (小説) 上

ひとつ前 お寺の国のクリスチャン③

※ この小説は虚構作り話であって、実在の団体や
人物とはなんの関係もありません ※

 1

 「おれは娘を宣教師に嫁がせたつもりでいる。おまえが衣食住にこまらないだけで、おれは満足だ」

 八枝が結婚したとき、彼女の父はそう言った。たしかに八枝の夫は、温かい衣服や食べるものにもこと欠きながら、福音を伝えるような宣教師には程遠かった。彼女の夫は、相当な資産のある旧家の当主だったから。

 まだ寒い三月の日だった。にぶい色をした灰色の空は、いまが昼なのか夕暮れなのかもはっきりとしないで憂鬱である。この寒空のもと、八枝は漆喰塗りの堂々たる数寄屋門の前で、昨日の強風がのこしていった葉だの枝だのを掃きあつめていた。木綿の着物に久留米絣の半纏をきた彼女は、その姑の姑の時代からやってきたかのように時代がかってみえた。とはいえ旧家に嫁いできたものの、夫の両親はもう亡く、事情あって八枝は煩雑なしきたりや親戚付き合いの一切から自由であった。

 いつも屋敷と呼びならわされるこの家は、夫の曾祖父が地元の銀行の頭取をしていたころに建てたという、瓦葺きの屋根が入りくんだ広い日本家屋だった。この家の門には三つの名前がでている。ひとつはこの家の姓である真木、もうひとつは夫の開いている庭園設計事務所のもの、そして最後がこの家で開いているホームチャーチのものだった。教会として使われているので、この家にはいつもひとが出たり入ったりしてひとの気配が絶えなかった。

 乾いた冷たい空気のなかを、かしゃっかしゃっと音を立てて落ち葉を集めながら、八枝はふと綿雲のような不安にかられた。里の父の言うとおりなんにも困っていないのに。八枝はかすかにその憂うつの正体を察していた。けれども宣教師に嫁がせたという父の手前、いまさら泣き言を言うわけにはいかないのだった。

 式台のある格式の高い玄関にはいると、となりの洋間から英語の会話がかすかに聞こえてきた。それは八枝の夫とこの教会の牧師であるパウロの声だった。ひそかに聞き耳をたてると、それはパウロのビザに関しての話であった。会話の行方が気になった八枝は、正攻法で攻めることにし、台所で茶を淹れてきて書斎の戸を叩いた。

 戦前の雰囲気が色濃く残る書斎は、事務所も兼ねていて、十二畳あり、床は久の字に組まれた堅木である。年期の入ったペルシャ絨毯の上に、真木の曾祖父の大きな机が据わっていた。揃いの背もたれのついた回転椅子は、なんども壊れるのを直しては使っている。壁は一面ぎっしりと詰まった本棚で、この書斎の歴代の持ち主たちの本好きが知れた。

 八枝が入ってきたので、ふたりはこちらを振り向いた。夫の真木は四十をふたつ超えた、端正な顔の品の良いひとで、椅子をこちらにひねると、ありがとうと八枝をねぎらった。古い緑のカリモクのソファに腰かけたパウロは温和な青い目をしていた。パウロは真木と同い年で大学のころからの親友である。ルノワールがその親友を描いた絵に、彼そっくりなひとがでてくるのを、八枝は画集のなかに見つけたことがある。レストランゲという不思議な名前のひとだったが、やさしい引き寄せられるような目をしていた。パウロは八枝を招く仕草をした。

「無事ぼくも日本に留まれるようになりました」
 
 パウロは万感の思いをこめて言った。もうすぐ二年の期限をもって日本語学校を卒業しようというパウロのビザ問題は、ずっと彼らの懸念であり祈りの課題であった。語学学校に通いながらパウロは英語を教えるアルバイトをし、そしてこのホームチャーチの牧師をしていた。真木の庭園設計事務所で雇う形で、やっとパウロは三年の就労ビザを手に入れることが出来たのだった。パウロは大学で建築科を出ていて、アメリカでは実家の建設業を手伝っていた。すべての辻褄が合うような形で、パウロは日本に留まる資格を得たのだった。

「ほんとうにおめでとうございます」

 このホームチャーチにかける、パウロと真木の熱意は、いつもそばで見ている八枝が一番よく知っていた。道は作られると信じていた。けれどいまそれが叶えられた祈りの形をとって、目の前に差し出されると、それが必然であったような、奇跡であったような言いがたい思いを伴った。
                                                                                                                                                                                                                                                                  ふたりはこの仕事に、ほんとうにすべてを打ち込んでいるのだった。パウロは国を離れて日本のひとたちにキリストを伝えるために四十になってから、日本語を習得しようとしている。真木も旧家の主が仏壇を捨て、寺との関係を絶つのみか、家でキリスト教の教会なんかを始めたことで、どれだけ親戚や近所のひとたちから批難されているか、八枝は傍にいてよく知っていた。先祖代々の財産も真木は端から神に捧げきるつもりでいるらしかった。

 幕末の志士を思わせるような、キリストに対するふたりの決意の固さを、鋭い刃を見るかのような気持ちで八枝は見ていた。けっしてそれを鈍らせるようなことをしてはならない。邪魔になってはならない。助けにならなくてはならない。身震いするような、気迫に押されるような、そんな気持ちで八枝はふたりと共にいた。

「ぼくも信じてはいましたがね、でももし帰国しなくてはならない羽目に陥ったら、なんとか真木にこの教会を引き継がなくてはならなかったわけでしょう。気が気でありませんでしたよ」

「けれどもこれを機に考え直した方がいい。いまこの教会では、ぼくしか説教する人間がいないでしょう。これでは実際不便ですよ。ぼくが風邪ひとつひかない健康体だからいいものを」

「真木さんが説教をするんですか?」
八枝はまさかという顔をした。
「おれは裏方の人間だから」
人前に立つことを嫌う真木は、断固として言った。

「おまえが逃げているのが俺の説得からだけならいいけれど、神から逃げているのなら覚悟したほうがいいぞ。おまえがどれだけ目立ちたくなかろうと、最終的には魚に呑み込まれてだってニネベに連れてかれるぞ」
 パウロはヨナ記を引用した。八枝はすこし含み笑いをしながら、ふたりを眺めていた。

「まあ、お前も祈って考えてみろよ。俺だって楽をしたいから、人に重責を押し付けようっていうんじゃないんだ。お前なら出来ると感じなければ、こういうことは言わないさ。ちゃんと祈ってみること、これが宿題、では以上!」

 なにか言いたげな真木を封じこめるように、パウロは会話を閉めた。ひと前で語ることはほとんどないものの、真木のなかには語るに値する、さまざまな信仰についての考えや良いものが詰まっているのを八枝は知っていた。でも、これだけ目立つのが嫌いなひとがほんとうに説教なんてするかしらと、八枝は危ぶんだ。


 
 2

 庭の草木はほとんどが枯れていた。いまは庭の休閑期で、春の準備をする時である。あまり手のかからない植物をその育つままに任せる庭だったが、それでも実は緻密な植物の配置や開花期や高さなどのさまざまな計算が隠されていた。冬のあいだたまに積もった雪のせいで枯れた多年草は、刈り込まれて醜いくらいだった。枯れ姿の楽しめる冬よりももっと、早春のいまの庭には見所がなかった。真木はこれが庭の死であって、ここから復活して春が来る姿をひきたたせるのだと言った。庭の春が来るのはまだ先、少なくともあと一月は待たねばならなかった。

「すこし休んでお茶でも飲みません?」
八枝は縁側から引き戸を開けて、庭先で園芸ばさみを使っている真木に声をかけた。淡い生成に格子柄の片貝木綿のきものを着た八枝は畳にひざをつくとすべらすように盆を置いた。
「ああ」
真木はなにか深く考え込んでいて、生返事をした。軍手を外し枯れ草を払って縁側から室内に上がると、真木はぼうっといま自分が刈った草を眺めた。それから自分でも気付かずに、切れ長の目をひそめたり弛めたりしながら、ふと八枝のいれた茶に気づいてなぜここに茶碗があるのだろうというふうに一時逡巡した。

 真木は考え込むと、こちらの世界から乖離してしまう癖があった。そして長いときは数日もまるで八枝などいないかのように自分の殻に籠ってしまうのだった。そういうときに八枝はひとり取り残されたような、拒絶される思いがした。八枝は夫などどうでもいいといって自分ひとりだけ愉快に暮らすだけの思い切りもなかったし、どこか自分が責められているような気がした。真木は一度鬱を患ったことがあるので、それもまた心配になった。

「そんなに説教をするのが嫌ならやめればいいじゃないですか」
八枝はどこか尖ったように言った。内省的で思い詰めがちな夫がこれ以上の負担を背負うのは、彼の精神、ひいては彼女の生活に暗雲を及ぼしかねなかった。こころの平和を脅かされるような気がして、陽ざしのあたたかい縁側とは裏腹な、ひえびえと冴えたものが忍びこんでくるような気がした。
「目立つのは嫌なんでしょう?」
八枝のすこしきりきりした言い方に、はっとしたらしい真木は驚いたように言った。
「そう簡単なはなしじゃない」
「では逃げていらっしゃるの?」
真木はまじまじと八枝を見つめた。どうして妻は不機嫌なのだろうというように。真木は大人だったので、何も考えずそれに呑み込まれてしまいはしなかった。八枝がときおり感情的になることも、若さのせいとして見逃せるだけの余裕はあった。そうでなかったらふたりの関係は、もっと険しいものになっていたことだろう。

「逃げて、いるのかなあ」
真木は空気を緩めるように、ゆっくりと息を吐きながら言った。
「人前に立つのは嫌いだしね。たしかに出来ればやらずに済ませたい」
「説教をするのはそれほど責任が重いのですか? ほかのことならすべてやっているのに」

 八枝は女が教えたり男の上に立つのをわたしは許さない、というテモテの手紙に書かれた使徒パウロの教えに忠実に育てられたので、自分では説教をしようなどと夢にも考えたことがなかった。八枝はそれが封建的だとも、ジェンダー差別だとも感じはしなかった。彼女にとって聖書に従うことは、そういった思想のかなた上を歩むことだった。夫を敬いなさいという聖書のことばを、いつも心に刻んでいる八枝だったが、この地上においての役割が何であろうと、天国で神のまえに立つときは男も女も等しいことを、いつもどこかで感じていた。

「おれが怖いのはたぶん自分の語った言葉によって裁かれることだと思う。パウロはすごいといつも思っている」
「わたしから見れば、おふたりともすごいのに」
「きみが思ってるようにすごくなんかないさ。おれは教えているうちに自分の心が教えることばかりに向いて、自分とキリストの歩みが疎かになるのが怖いんだ。表に立たないうちはそれも隠していられるが、説教をする人間の心が一瞬でもキリストから乖離したなら、それは衆目にさらされてしまう」

 小難しい言葉ではあれど、八枝にはその意味するところがわかった。真木は自分のことを語っていたものの、それは彼女の状態を的確に表している言葉だった。八枝は説教はしないがいつも通訳として人前に立っていたのだ。正直すぎる真実に、八枝は目をそらしたくなって話を真木に戻した。恐ろしいのは真木がそのすべてを見抜いているだろうことだった。

「でも、神さまはなんておっしゃってるんですか?」
そう言葉を発してから八枝は自分の偽善に消えてしまいたい思いがした。真木は顔に表れている八枝の煩悶を読んではいたものの、それ以上追及することはなかった。
「ずっといつかは、とひそかに言われてはいたんだがね。まあ、安心してくれ。おれはヨナにはならないよ。タルシシュ行きの船に乗るほどのことはないさ。きみまで一緒に沈没させるわけにはいかないからね」

 真木は口では自分のことを軽く笑ったけれど、目では八枝を心配していた。子ども扱いされている気がして、八枝はすこし反抗したい思いで目を外の庭にむけた。まるで死んでいるかのようにすべてが枯れきった庭は、はじめ見たときには、これが庭かというように見てはならないものを見せられた気がした。けれどいまは波立つこころに食い込んでくるように、その整わない荒々しさがしっくりとした。



 
 3


 東京では桜が咲いたらしいが、青いアルプスに囲まれた山国の春は底つくように冷えびえとして、凍てつく風が吹いた。八枝はパウロのお供で街に出てきて、先に用を済ませてしまったので川沿いの賑やかな通りの柳の下のベンチに腰かけて待っていた。

 八枝が近ごろふだん着にきものを着るようになったのは、蔵のなかから真木家代々の女性たちの嫁入り箪笥を、いくつも見つけたのがきっかけだった。彼女自身はクリスチャンらしい簡素な式で、嫁入り道具などとは無縁に嫁いできたのである。東京で封建的なものとは無縁に育ったのに、なぜか古いものにばかり心惹かれる八枝は、近くに住む祖母に相談すると、あっというまに着付けを習ってきて、蔵から出してきたきもので暮らすようになった。夫や周囲の評判もよかったし、祖母も八枝がきものに興味を示したのを喜んで、いろいろ買ってくれたり譲ってくれたりしたから、これは八枝にとってそこまでお金のかからない装い方でもあった。
 
 いつも家ではじぶんで洗える単衣の木綿を好んで着ているが、きょうは街に出るというので、会ったことのない夫の母の紬を着ていた。衣装持ちのくせに、八枝の選びだす着物の趣味はかなり地味だった。もっと華やかな柔らかものも着れば良いのに勿体ないと、よく祖母には苦言される。あまりきらびやかな着物を着て人目を浴びるのは八枝にとって心地悪かった。そうでなくとも江戸時代の風情が残る城下町の街並みに、はでな観光用ではない普段から着なれたきもの姿の八枝は、さっきからちらちらと人目を浴びていたのだから。

「あの、すみません」
「はい?」
声をかけられて見上げると、まあ同年代くらいであろう垢抜けた男が立っていた。なかなかのイケメンだなと、八枝は冷静に観察した。

 男は顔を上げた八枝をまじまじと見て、やっぱりと言うと、心の距離を一歩とばしに、たたみかけるなような笑顔を見せた。
「もしかして蔵カフェで働いてたひとじゃないですか?」
 結婚する前に、祖母の知り合いが経営する蔵カフェで、ほんの短いあいだだったが働いていたことがあった。

「ぼく、ずっと常連だったんですが覚えてくれていないかなあ。いつもモンブランを頼んでいたんだけど」
「ごめんなさい、ほんの少しうっすらとだけしかわかりません..」
八枝は申し訳なさげに言った。ひとの顔を覚えるのは苦手だった。
「ぼくはあなたを覚えてましたよ。いつの間にかいなくなってしまったから不思議に思ってたんです」
「あのあと忙しくなったり引っ越したりで辞めちゃったんです」

 男は八枝の膝にあった小さな古い聖書に目を留めると、ここいいですか?と断れないような愛嬌で聞いて、八枝の隣に腰かけた。
「やっぱりあなたはクリスチャンだったんですね」
「どうして?」
八枝はまるでわからないと言ったふうに聞き返した。
「ぼくこれでも色んなひとを見てきていて何か違うものを持っているひとはわかるんですよ。あなたは他の女の子と違うでしょ。いつも長いスカートを履いていたしお化粧もしないし髪も長いし、どこか違うなと思っていた」

 すこし近いなと不安に思いながらも、なんだかこの男を振りきれなかった。しかも話が彼女の信仰にさしかかったので、八枝はええいままよと腰を据えかかってしまった。
「あなたは、神様を信じるんですか?」
男はすこし真剣なまなざしになった。
「信じたいと思うことがあります。信じなければ虚しさに溺れてしまうようなときが。信じられるひとが羨ましいとおもうときがあります」
男は聖書を指して言った。
「ぼくもこのあいだホテルの引出しから貰ってきて、最近読んでいるんです。なにか答えがあるかもしれないって。でもなかなか自分一人ではわかりませんね。教会に行ってみようかとも思うけど敷居が高くって」

 あらと八枝は微笑んだ。目立つのが嫌いな彼女は、街頭に立ってトラクトを配るような宣教は、神に直接命じられでもしないかぎり出来るだけ避けたいと思っていたが、街中でこんなふうに、魚が自分から飛び込んでくるようにして、教会にひとを誘えるなんてと思ったのだ。

「古民家はお好きですか?」
男はとつぜんのことに面食らった様子だった。
「...ええ、蔵カフェに通うくらいですから、まあ」
「うちは古民家チャーチなんですの。ぜひいらしてくださいな」
「古民家なんですか?だからあなたは着物なんですか?」
男は調子を狂わされたように、とんちんかんなことを口走った。

 こちらに近づいてくるパウロの方をさして、八枝は言った。
「あれがうちの牧師さんなんです。パウロさん、この方聖書を読まれてるんですって」
紺色のダウンを着て、四角い顔に黄金色の髭をたくわえたパウロは、温和な目をすこし鋭くして男の方を見ていた。
「ハジメマシテ、アナタは?」
いつもより片言な日本語には、まるで脅すかのようなすこしきつい響きがあった。

男は立ち上がって久米と名乗ると、躊躇わずにパウロの大きな手をとって両手で包んだ。
「ぼく教会を探しているんです!神が何なのかを知りたいんです」
久米の目はまっすぐで光を湛えていた。それに毒気を抜かれたのか、パウロはもうすこし流暢な日本語で話し始めた。

「うちの教会はカトリックでもニッキでもない。どこにも属していない、だから自由に聖書のままにおしえられる小さなホームチャーチです。キリストを求めているならあなたはウェルカムです」
「ぜひ!」
そう言って久米はちらと八枝を見た。
「それからこのひとはぼくの親友の奥さんです」
それを制するかのようなパウロのあからさまな言い方に、八枝は顔を赤らめた。パウロは懐をさぐって財布から名刺を取り出すと、ここにぼくの連絡先と教会の住所と礼拝の時間が書いてあります、と言って渡した。

 久米と別れてある程度の距離を稼ぐと、パウロは英語で言った。
「八枝ちゃん、あなたはほんとうに危ない」「でも悪いひとではなかったでしょう?」
石畳を早足でゆくパウロを、きものの裾を気にしながら、ちいさな歩幅で必死についていこうとして息を切らした八枝が反論した。

「日本語で何て言うのか知りませんがね、あの男は ladies' man ですよ。つまりあなたはナンパされてたんですよ」
「でも教会に来たいって言ってたじゃありませんか!」
「それが甘い!」
いつも穏やかなパウロの剣幕に八枝がひるんだのを見てとると、パウロはすこし語調を和らげて言った、
「八枝ちゃん、あなたは魚でも釣ったような気でいるかもしれませんが、あの久米くんから見れば、あなたの方が釣られた魚ですよ。エリーもそうでした。教会育ちだから感覚がずれてるんですよ。エリーもよくぼくや真木に叱られたものです」

 亡き妻の話になると、まだ彼女が生きているかのようにいきいきした口調になるパウロのくせは変わっていなかった。八枝はエリーに会ったことはなかったが、いつも彼女を傍に感じていた。真木とパウロという一枚岩のようなふたりのなかに、気後れしがちな八枝が自分の居場所を見つけられるのも、彼女より以前にそこにいたエリーのお陰だった。時として八枝の与えられる位地は、自分に宛書きされたものではないように感じたけれど。
 
 八枝は立場こそ違え、自分はエリーの後釜なのではないかと思った。それはきれいに結末のついた物語に納得するような、自分があやふやになって、なにか自分以上のものを求められているような、矛盾した思いを八枝に抱かせた。


 4

 冬と春が入り乱れる日々だった。三寒四温の温の方とともに日曜日が来た。このあいだ会った久米が来ることを、八枝が心待ちにしているのは明らかだった。それが自分の撒いた種の成果を見たいからなのか、それとも自分の態度への非難を覆してみたいからなのかはパウロにも図りかねた。八枝に約束させられたので、この件で真木は完全な埒外にいた。それが正しいことなのか疑問に思ったけれど、亡きエリーを思い出させられてパウロは、今のところはという一語をつけてつい負けてしまった。

 礼拝が始まる前のこの時間は、入ってきたひとたちの挨拶やおしゃべりで、屋敷は玄関から座敷にかけていつも賑やかだった。礼拝の始まる前は静かに祈ったり聖書を読んだりして心を整えるように、と習慣として教わってきたパウロは、この騒々しさにすこし落ち着かなかった。けれどもここに集うのは多国籍で自由な人たちばかりだったので、牧師の権限をもってそれを縛ろうとはパウロも思わなかった。八枝はいつも率先してひとびとをもてなす役を買っていた。ただ今日はすこしその声が上ずっているような違和感があった。

 結局時間になっても久米は来なかった。八枝は明らかに落胆していた。きっと自分の頭に描いた計画が、その通りにならなかったのだろう。するべきことをしたらあとは神の時が来るのを待つというのは、若い八枝にはまだすこし難しいのかもしれなかった。

 図らずして今日パウロが用意していた説教は、コヘレト3:11の「神のなされることはみな時にかなって美しい。神は永遠を思う心をひとに授けられた」というところであった。それをメモを片手に訳している八枝は、いつもより冷静さを欠いているように感じられた。

 八枝は海外に住んだことはないのだが、バイリンガルの教会に育ち、大学で英文学を専攻して院まで行かせてもらったので、語学力は自分で謙遜するほど、アメリカに住んでいた真木に劣るわけではなかった。大学生の頃から教会での通訳は経験しており、その腕を買われてこちらに引き抜かれたのだ。こういった教会での通訳というのは、語学力や通訳の技能があればできるというものではない。聖書の知識、神学や教えの理解、独特なキリスト教用語に精通していなくてはならない。教会育ちで、サイマルの通訳コースも取ったという八枝は、やる気と向上心もあるし理想的な通訳だった。けれども彼女の弱点をあげるなら、それは通訳に自分を移入しすぎるきらいがあるところだった。

 彼女に通訳をしてもらって、もう一年半ほどになるパウロに言わせれば、八枝のようにことばを一旦内面化するやり方は、嵌まりさえすればとてもやり易く、相乗効果で油を注がれるようにして、説教も滑らかに進んでいくのだが、嵌まらなかったときには砂を噛むように歯がゆいものがあった。それは八枝が英文学専攻であって、英語学をやったわけではないこと、彼女がどこまでも文学少女であって、理数系では決してないのも原因かもしれなかった。文学少女は語彙や言い換えに長けていたが、時としてことばのうつくしさを気にしすぎ、説教の本質を曖昧にしかねない一面があった。

 今日は嵌まらなかった方だと、パウロは思った。そしてそれを八枝自身感じているのが痛いほどに伝わった。ぴったり嵌まらなかった一語一語のために、彼女が自分を内心鞭打って、それがまた次の言葉に悪い方向に作用していくのが、手に取るように感じられた。途中でパウロは八枝が泣き出すのではないかと心配になったほどだった。真木は明らかにそわそわしていたが、きっと交代すべきかを迷っていたのだろう。迷うくらいならさっさと代わればいいのにと、パウロは思いもしたが、八枝が自分から言いだすまではと、彼女の気持ちに配慮していたのだろう。真木はそういうところで気を使いすぎる人間だった。

 これ以上崩れられはしないというところまで行ったとき、八枝は観念したように後ろをふりむいて、真木にごめんなさいと言うとしずかに通訳の席を下がった。真木は軽くうなずくと、説教に穴を明けぬようパウロの方をみて、いまの一節を繰り返してくれるよう頼んだ。真木はすこしぎこちなさはあれどつつがなく代役を勤めた。八枝が冷静な判断を下せたことに安心して、終わったときにパウロは自分がなにを説教したのかさえあやふやに思った。

「ごめんなさい」
礼拝のあとに、八枝はパウロのもとに来て謝った。
「ほかのことに足をすくわれちゃったみたいだね」
パウロは正直に言ってしまった。
「わたしが未熟なせいです。もっと精進します」
近ごろの八枝は、すこし思い詰める癖があったからパウロは心配になった。
「八枝、具合悪いの?」
八枝と仲良しなフィリピン人のマリアンが、そっと寄ってきて八枝の肩に手を廻した。
「ごめんね、ちょっと休むことにする」 
八枝は昼食もとらずに、二階の寝室にひとりで上がってしまった。屋敷で教会を開いているときに、彼女が客を残していってしまうようなことは初めてで、よほど通訳の失敗が堪えているようだった。

 真木はその様子を始終見ていたが、二階に上がっていった妻のあとを追うことはしなかった。それも彼の日本人らしい羞恥心や客を残していく非礼を嫌う故であろうと、パウロには察せられたが、みなのあいだにどことなくそらぞらしい空気が漂った。



続き わたしの軛 中

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