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わたしの軛 (小説) 中

前 わたしの軛 上

※ この小説は虚構作り話であって、実在の団体や
人物とはなんの関係もありません ※

 5

 嫌なことが続いた。次の日曜日が見えてきた頃のこと、風邪ひとつ引かないのが自慢だったパウロが八度五分を出して寝込んでしまった。アパートにひとりで寝かしておくわけに行かないといって、真木と八枝が引きずるようにして屋敷の奥にある六畳間に寝かした。風邪の症状があるわけでもなくただなにかが切れてしまったように熱だけが出た。知恵熱かもしれない、と真木は言った。

 エリーが突然亡くなったのはちょうど三年前のこの時期だった。そういえばあの日パウロの弟からのメッセージを開いたのも、その頃寝起きしていたこの一階の奥の間だった、と真木は思った。その時はアメリカから帰国してまだ半年ほどだったが、とるものとりあえず再びアメリカに向かったのだった。真木でさえ、まだその衝撃は癒えきっていなかった。

 その命日が近づき、パウロはふとしたときによく左手の指輪を、くるっくるっと意味もなくまわしていた。それはすこしロザリオやマニ車を思い出させるような、ちょっと強迫的なものがあった。もとから人の内的生活に突っ込みはしない性格の真木は、親友であっても、パウロの生々しい傷に触れられはしなかった。真木はただ祈りながら待っていた。パウロの姿は、傷をたくさん背負いながらも剣を取り続ける闘士を思わせた。パウロは生きているエリーのはなしばかりして、ほとんどその死について語らなかったので、彼がどれだけ傷ついているかを知るひとはあまりいなかった。けれどそんなパウロを傍で見ている真木は、悲壮な気持ちと、そして自分もキリストに向かう覚悟を改めさせられるような気持ちとを抱いた。 

 ともあれパウロが説教できないことは自明であった。
「いい機会じゃないか。神を愛する者のためにはすべてのことが益となるように働く、とはまさにこの事だな」
よこたわったままパウロは弱々しく笑った。
「たとえば説教はなしで賛美と祈りだけにするとかではだめですか、牧師先生」
観念しきれない真木が抵抗した。
「八枝ちゃん、きみのご主人は往生際が悪い」
八枝は口を挟まずに、苦笑いしながら一歩下がって見まもっていたけれど、
「どうしよう」
と狼狽える真木のへたれ具合が可笑しくなって、ついに声をだして笑った。
「八枝、きみは笑っているがね、俺は清水寺から飛んでみろと言われている気分だよ」
そう言いながら、真木も自分の情けなさに笑いだした。

 八枝が下がったあとに、休めと制する真木を無視して、パウロは言いだした。
「これはお願いなんだけれど、看病だと言って八枝ちゃんがひとりで俺の病室に来ようとするなら、それは止めてくれないか?」
「お前を信用していないわけではないけど、でもわかった、伝えておく」
「俺も別に自分のことは信用してるよ。でもなにがまずいのかを、八枝ちゃんはわかった方がいいと思う」
「なにかあったのか?」
真木はすこし眉間に皺をよせた。
「うーん、彼女みたいな温室育ちのお嬢ちゃんには、よくあることだ。ちなみに俺とは関わりのないことです。妙な疑いをかけて安静を命じられた病人を煩わせないでください」
すたすたと掃くように言うと、パウロは布団を被って、会話を終わらせた。

 寝る間も惜しんで聖書を読んだり祈ったりしていた真木は、いつも早く起きて庭仕事をするはずなのに、翌朝寝過ごしてしまった。目を覚ますと八枝はとっくに起きて、下で昼食のカレーを仕込んでいた。
「おはようございます。まだパウロさんのご飯は持っていってないんですけど..」
紺地に薄い赤の入った、会津木綿の着物をたすき掛けにし、質朴とした武士の娘のような風情で八枝は困った顔をしていた。

「ごめん、俺がいま持っていく..」
ふらつく頭を上げて真木が時計を見ると、教会が十時に始まるまで、あと一時間しかない。慌てて部屋着姿の自分を見下ろし、左手でヒゲの伸びた顎を撫でた。ともかくパウロの部屋に膳を届けながら、べつに配膳するくらいのこと、八枝もパウロもそこまでこだわる必要はあったのだろうかと疑問に思った。浴室でヒゲを剃っていると、急いでいたからか緊張しているからか思い切り血を出してしまった。その止まるのを待つ暇も惜しくて、そのまま二階に着替えに急いだ。

 血のついたティッシュで顎を押さえながらキッチンに降りてきた真木の姿を見て、八枝の顔は笑いでゆがんだ。ふたりのあいだには時として堅苦しく、他人の目を気にして仰々しい雰囲気が流れたが、八枝がこういうふうに彼に隔たりを感じずにいてくれるとき、真木は嬉しかった。

「八枝、お願いがあるんだ」
カウンターで朝食を食べながら、真木は八枝の手に手を重ねた。
「たぶん頼むまでもないだろうけれど、祈っていてほしい。それから俺がしゃべっているあいだ目を見ていてくれないか。きみに話しているつもりでやれば、すこしは平常心を保てるんじゃないかと思うんだ」
八枝は目にすこし見開いて、真木の目を見つめた。
「こういうかんじに?」
すこしとぼけた八枝がかわいくて、真木はそのまま唇を塞いでしまおうかと一瞬迷ったが、玄関に人が入ってくる気配を感じて止めた。こういうところがどうしてもおれは日本人なのだなあ、と真木はため息をついた。アメリカ人だったら、人前で愛情表現をすることになんの躊躇もなかっただろうに。

 本格的に人が入ってくるようになって、ふたりの時間はそのままお開きになった。八枝は座敷で、高田さんや彼女の祖母に、パウロが寝こんだ事情を説明していた。真木がそろそろもう誰も来ないかと玄関を覗きにいくと、見慣れない若い男が名刺を片手に、庭で戸惑っていた。
「教会にいらしたんですか」
こんにちはと声をかけてから、真木はやさしく聞いた。
「はい、このあいだこれを貰ったので来てみようと思って」
男はにかっと笑って、名刺をちいさく振ってみせた。
 
 愛嬌のある、ジャニーズにでもいそうな感じの男だった。年は八枝やマリアンと同じくらいか。パウロの名刺を持っているからにはパウロに誘われたのに違いない。あいつの人脈も不思議だなあと思いながら、真木が彼を家に招きいれようとしたとき、八枝がひょっこりと玄関から顔を出した。
「あ!」
と言ったのはふたり同時だったが、久米さん!と相手の名前を呼んだのは、八枝ひとりだった。久米というらしいこの男は、八枝の名前を知らないらしく、呼ぶ名がないことに困惑していた。

 わざわざ下駄を履いて庭に出てきた八枝は、この男が来たことに傍目から見ても明らかなほど興奮していた。それが久米にも伝わって、ふたりはまるで数年振りに再会した友人同士のようだったが、でもそれならどうしてこの男は八枝の名前を知らないんだ、と真木はいぶかしんだ。

「真木さん、この方はね、わたしが働いていた蔵カフェの常連さんだったんです。先々週だったかな、町でお会いしてわかったのだけど、聖書を読んでらして、教会を探してらしたんですって!それで教会に誘ってみたら、今日来てくださったんです!」
 ともかく八枝が嬉しそうでよかった、と年寄りのような感想で己をふさぎながら、真木はようやくパウロの言っていたことに気づいた。そうか、この男のことか。明らかに彼女に気のありそうな久米が、男であることにも気づいていなさそうな八枝に、ため息をつきたいのを堪えて、真木は隣の妻を指さしながら言った、
「初めまして、八枝の夫の真木です」


 

 6

 いつもパウロの立っていた、座敷の奥の位置に立つと、真木は軽く息を整えて心のなかで短く祈った。主よ、どうかみこころを成してください。

 いまは教会として使っている、十二畳が二間つづく広々した座敷には、むかしまだ父が生きていた頃、盆だ正月だと言ってよく親戚が集まったものだった。きっと父の死後もそういうことはあったのだろうが、真木はアメリカに逃げていたのでよくわからない。親戚が集うたび、いつかはお前がこのすべてを引き継ぐのだぞという圧力に、空気になって消えてしまいたいと感じたものだった。彼の注目されるのを嫌う性格は、その頃に由来するのかもしれなかった。

 前に立つと、あまり多いとはいえぬが、色とりどりな教会の面々の顔が迫るように写った。けれども朝食のときに言ったように、真木はすこし後ろの方に座っていた妻の姿を捉えると、そこに視線を定め日本語でしゃべりだした。教会のひとたちはほとんど日本語がわかったから今日は通訳はなしだった。

「みなさんもうご存知かもしれませんが、牧師のパウロさんは熱を出してしまって、いまこの奥の部屋で寝ています。知恵熱ですから感染するものではないので、ご安心を」
八枝がすこし笑った。
「そういうわけで、ぼくが引きずり出されてきました。説教なんて大それたことをするのは、生まれて初めてです。どうかお手柔らかに」

 真木が語りだしたのは、神のくびきについてだった。くびきとは二頭の家畜を繋いで、共に働かせるための横板である。農耕に使ったからか、聖書にはよくこのくびきが出てくる。それはだいたいにおいて、ひとを束縛するもの、奴隷としての身分を象徴している。

「ぼくはキリストに出会う前、特殊なくびきを負っていました。ぼくは生まれたときから、この古い家の跡継ぎとして、家の奴隷となることを定められていたのです。ぼくは小さいころから、盆や法事のたびに父の膝にのせられて、寺でお経をきかされたり、仏事の作法を仕込まれたり、本家の当主になるための振る舞いを教えこまれてきました。ぼくはずっと死が怖かった。父はよく小さなぼくを葬式に連れていきました。棺のなかで黄色くなったひとに、草鞋だの杖だの六文銭だのを持たせるのをみて、ぼくはいつも恐ろしかった。お寺に払ったお金の大小で戒名の位が変わるのも、ただの人間でしかないお坊さんのお経で死後の魂を救おうとするのも、どうしても納得がいかなかった。
 
 そんなぼくは、神であるキリストがぼくのために十字架にかかり、ぼくに滅びることのない霊の命を与えてくださったと知ったとき、死を恐れるというくびきを肩から下ろしました。キリストは言いました、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたの魂に休みが与えられるであろう、と。ひとつひとつ、ぼくはこの世が負わせたくびきを下ろし、神のくびきと換えていきました。この世のくびきを負っていた頃、ぼくは罪に繋がれて、虚しさとその先にある死の方へと引きずられていました。イエスが十字架で死なれたのは、死の恐怖のために一生涯奴隷となっていた者たちを解き放つためである、とヘブル書に書いてありますが、それはまさに自分のことでした。

 この家に帰ってくるとき、ぼくに課せられた運命のくびきの最も重いものを、キリストはぼくから下ろしてくださいました。ぼくは二十年ものあいだ、跡継ぎとなることから逃げまわっていたのです。もはや逃げようもなくなったときに、キリストはぼくに道を与えてくださいました。ぼくは家に帰ってきたものの、キリストに仕え続け、あまつさえこの屋敷を教会にしました。それも、神のくびきでした。神はぼくを封建的な家制度の奴隷から解放してくださり、神ご自身と共に歩むものとしてくださったのです。キリストのくびきがいかにこの世のくびきより軽いか、ぼくは証言することができます。力強い神がともに背負ってくださる荷ですから、ぼくはほとんど手を添えるだけでよいのです」

 それこそいまも、真木は自分の力でしゃべっていないことに気づいた。神の霊にゆだねて身を明け渡せば、自分の力には及ばぬことでも神が責任をもって果たしてくださる。真木は緊張していなかったし、自分でなにかをやっている感覚もなかった。ただきれいさっぱりキリストに自分を明け渡せたという喜びが残った。
 
 八枝はずっと目を潤ませて、口の端をすこし上げながら、こちらを見つめていてくれた。そして時々ちいさくアーメンと言ってくれた。ほかのひとたちの反応を気に出来るほどの余裕はなかった。真木はしずかに説教を祈りで閉じた。


 
 
 7

 次の週は、ずっと普段どおりの日々が過ぎていくかのように見えた。真木はひとつなにかに打ち克ったという感覚と、主のためになにかを為したときに感じる充足感の余韻をひきずっていて、霧が晴れたような表情をしていた。

 久米は金曜日夕食も終わった頃、ふいにやって来た。仕事帰りらしく紺のスーツを着ていて、すこし別人のような雰囲気だった。
「すみません、突然来ちゃって」
 久米にはどこか、拒めないちいさな動物みたいなところがあった。それが計算されたものなのか、彼本来のものなのかよくわからなかったが、多分どちらともなのだろうと真木は思った。

「どうぞ。ちょうどパウロも来ていますから、こちらに」
真木は久米をキッチンに案内した。この部屋は最近手をいれた部屋である。それまでは北西を向いた寒々しい台所とダイニングと茶の間が、細切れなせせこましい空間だったのが、床暖房をいれ、漆喰を塗って古材の床を貼りひとつの大きな部屋となって、いまではこの家で一番暖かく快適な部屋だった。

 アイランドキッチンのカウンターに肘をついて、こちらとあちらに別れ、パウロと八枝はコーヒーを啜っていた。久米が来たことは聞こえていたらしく、ふたりは好奇の目を向けた。
「やあ、どうしたんだい?」
パウロが聞いた。八枝は立ち上がって訊かれぬ前からマグカップを用意しにいった。
「すみません、おくつろぎのところをお邪魔しちゃって」
久米が繰り返した。
「久米さんは夜にコーヒーを飲んでも大丈夫な方ですか?」
八枝が聞いた。
「ええ、大丈夫ですけど、珍しいですね、夜にコーヒーですか」
八枝がサイフォンとまだコーヒーの残るガラスの容器を指さした。
「パウロさんの趣味なんです。だから便乗して、金曜の夜においしいコーヒーとデザートをいただく会をするのが、ブームなんですよ」
「じゃあぼくもいいですか?」
「もちろん!残念ながらモンブランはないんです。チョコレート味のジェラートか、苺のアイスのどちらかですね」
「ははは、古民家カフェみたいだなあ」

「それで、久米さんはなにかご用があったんじゃありませんか?」
真木がそっと話を戻した。
「そうなんです!この間の日曜日からずっと、いろいろ考えていて、我慢できなくなって来ちゃったんです」
コーヒーを受け取り、久米はまっすぐな目をして言った、
「ぼくは会社では営業をしてますし、学生時代から友達も多かったし、人間なら年の割に数を見てきた自信があるんです。でも、このあいだ教会で見たひとたちは、ぼくの知っているどのカテゴリーにもおさまらないひとたちでした。このひとたちは、なにかぼくの持っていないものを持っているな、ってすごく感じて、もっと知りたくなったんです」

「聖書はどのくらい読んだんだい?」
「福音書って書いてある本が、なんでか四つもあるじゃないですか。しかも大体同じことが書いてある。さいしょは、キリストって四回死んだのかな、って思ったんですけど。それから使徒行伝っていうのも、きのう読みました」
ほう、これは最近珍しいぶれない良い青年だと真木は考えた。女たらしみたいなとも最初思ったが、久米という青年は女が好きというより人間が好きなのではないかという気がした。その結果女たらしになっているのではないかとも思うが。

「きみは自分に罪の意識はありますか?」
パウロが聞いた。
「なにが罪かによりますけど、一時停止無視とか以外で法を犯したことはないですね」
八枝が笑うと、久米も嬉しそうな顔をした。

「そうだね、質問が悪かったね。キリストがなんで十字架で死んだのか、それはきみを罪から自由にして、あたらしい命を与えるためだったんだけど、それを受けとるにはまず、きみに罪についてかんがえたことがあるか聞いたほうがいいかと思って」
すこしたどたどしくも、パウロの日本語はかなり上達していた。いつも語るテーマだったこともあるだろうが。
「ぼくも自分が正しい人間だなんて思いません。いまの時代、なにが善でなにが悪なのかさえ曖昧になっているような気もするけど。ぼくのことを最低の下司呼ばわりして去っていった彼女もいましたし」
 
 真木はどことなくこの会話の行きつく先が案じられて、八枝に席を外させようとその方便を探した。そして隣に座っている彼女にだけ聞こえるような小声でささやいた。
「八枝、長くなりそうだから、きみは先にお風呂に入って寝ていてくれないか。きょうはあんまり具合がよくないだろう」
八枝はすこし目をぱちくりさせたが、自分に席を外させたいのだろうなという意図だけは機敏に察した。
「ごめんなさい、先に休ませていただきますけれど、どうぞごゆっくり」
八枝はすっと部屋を出ていった。
「ありがとう、真木」
やはり同じことを思っていたらしいパウロに感謝された。

「聖書にこういう言葉があってね、」
パウロが言葉を続けた、
「...Whosoever looketh on a woman to lust after her hath committed adultery.... えっと、これはなんて言うんだい、真木」
「誰でも情欲を抱いて女を見るものは、すでに心のなかで彼女と姦淫を犯したのである」
「正直読んでも理解できなかったです。どういうことですか、そんなことって可能ですか」
「人間には無理だね」
パウロはきっぱり言った。

「守ることすらできない法律を、神は押し付けるんですか?」
「人間には出来ないことでも、神にはお出来になるのだよ」
「ぜんぜんわからない。つまりその場合の女って誰のことですか。奥さんとか彼女とかにそういう欲を抱いても罪なんですか」
「神はそういったことを、夫婦のあいだにのみ許されたんです。つまり、奥さんは良くとも彼女は罪でしょうね」
話が込み入ってきて、パウロの日本語を危ぶんだ真木が代わるようにして答えた。

「じゃあぼくは罪人ですか」
正直でよろしい、と心のなかで真木。
「そんなことはじめてききました。だって世の中では当たり前じゃないですか」
「教会にきて、世の中とは違う、と思ったんだろう?」
「そうだけど、でもどうしてみんなそんなことを守れているんですか。人間には無理なのに? それはつまり見たりするのでもいけないんですか?」

 話がだんだん露骨になっていきかねないのを、咳払いでとどめたパウロが、真木に英語で無茶振りをした。
「ぼくは妻の思い出にかけて、エリーを冒涜するようなことは言いたくないからね、ここは四十年間独身を貫かれた、偉大なる真木先生にお話していただきましょう」
はてなを浮かべている久米を傍目に、真木はすこし頭をかかえた。

「...正直に簡単なことではありません。特に若い頃はね。いま、見るのもと久米くんが言ったけれど、それはそうだと思います。
 ぼくは独身でいた時間が長かったので、自分自身のこととしてこの問題と闘ってきました。それでぼくが言えるのは自分の内側にキリストを宿して、そのキリストに常に目を向けていないと、ひとは罪を犯すということですね」

「真木先生が語ると、ほんとうに説得力がおありになる」
 茶化すパウロを睨むと、真木はまた言葉を選びながら続けた。
「いつも思い起こしていた聖書の言葉があって、それは、キリストに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのだ、という言葉なんです。キリストがぼくのために十字架にかかってくださったように、ぼくも自分の欲望を十字架につけるのだ、と。なにか秘訣があるとしたら、それじゃないですかね」

「どうしてそこまでして神に従おうとするんですか? 真木さんもパウロさんも、目に見えないしいるかもわからない神に、どうしてそこまで人生を捧げられるんですか?」

 真木とパウロはすぐに答えようとしなかった。暖かい光が灯された天井の高い部屋を、ほんのひととき夜のしじまが支配した。久米の質問はほんとうに良い質問だった。

「いるかもわからない、目にも見えない聖書の神はいまぼくにはすぐそばにいるように、近く感じられるんですよ」
真木は冷めたコーヒーを啜った。ふしぎな感覚に満たされて、実際それ以上上手く説明できる気がしなかった。

「O taste and see that the Lord is good というのは日本語でなんて言うんだい?」
「味わって、見よ。主は良い方である」
「Act 2:38は? お前が説明してくれよ。だいたいなにを言おうとしてるかわかるだろ」
「...八枝を通訳に使うときに比べて、あまりにも雑すぎないか」

「...いまパウロが言わんとしていることは多分こういうことだと思うんですがね。使徒行伝の二章三十八節に有名なことばがあって、それはペトロの説教に心をうたれたひとたちが、では自分たちはなにをしたらいいのか、と訊ねたときにペトロが答えたことばなんです。
 『自分の罪を悔い改めなさい。そしてイエスキリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』
 賜物として受ける聖霊、というのは、神の霊ですね。いまぼくやパウロが、目には見えなくとも神を自分の内側に感じているのも、欲望を十字架につけられるのも、すべてぼくらが聖霊を受けているとはっきり言えるからなんです。
 もしぼくたちだの八枝だの教会のひとたちが、世間のひとたちと違うように見えたとしたら、それはそこに聖霊を受けているひとがいるからです」

「O taste and see の伏線もちゃんと回収しろ」
「うるさい。つまり、パウロはいろいろ考えたり疑ったりするよりも、ほんとうに神はいるのか、神はほんとうに良い方なのかを、久米くんが自分で味わって、確かめてみればいい、と言っているんだと思いますよ」

 真木とパウロのやり取りに、にやにや笑いながらも、久米はまっすぐに飛びこむようにしてパウロの目を見つめ、ちいさく叫ぶようにして言った、
「じゃあ、ぼくにその洗礼をしてください!」
パウロは目を細めるような顔をしたが、ことばでは久米を押し留めた。

「きみはまっすぐなのはいいけどね、それが今だけのものにならないためにも、もうすこし深くキリストを知ってからにしたほうがいい。まあ、明後日も教会に来るんだな。もうすこし待ってみてごらん」

 久米とパウロがそれぞれの家に帰ると、真木はカップを集めて食洗機を回した。教会で大量の洗い物が出るので、大概が八枝に降りかかってくるその負担を減らすために入れさせた大型のものだった。真木もずっとアメリカで食洗機に慣れていたので、日本式に一枚一枚洗うのがまだるっこしいと思っていたのだった。

 それでもいろんなひとの集う教会のなかで経済的に恵まれている彼らは、なにをするにも出来るだけひとに嫌みにならないように、と慎むようにしていて、それは感じやすい八枝にとかく顕著だった。実家も同じように恵まれた境遇の八枝は、なんの苦労も知らぬお嬢ちゃんと呼ばれるのが、それが事実であったとしても苦であったように、いまも旧家の若奥さまというふうに座布団をしかれるのが辛いようだった。

 実際真木は、八枝の東京の父に悪いような気がしていた。何代も遡るクリスチャンの家庭で、なににも縛られず自由に育ったはずの八枝だったが、いまは亡霊のような旧家の重さや、伝道所と化している家でのさまざまな心遣いに縛られていた。そしてパウロの妻が亡くなっており、真木が家主であるせいで、まるで牧師の妻がするような仕事がすべて八枝にふりかかっている現状が、まだ若い彼女にとって負担になっているのは、真木にもわかっていた。

 二階に上がると八枝はパジャマに着替えてはいたものの、まだ起きて布団のなかで本を読んでいた。それが「行人」だったので真木はすこしどきりとした。
「皆さんお帰りになったんですね」
八枝はすこし暗かった。漱石ではなくて誰かあまり思いつめない、胃に穴を開けないような文豪を読んでいてくれないだろうか、そんなひとがいるかと真木は頭を回転させた。八枝が結婚前によく読んでいたジェーンオースティンを思い出して、もうずっとオースティンを読んでいればいいのにと思ったとき、それがあまりに極論なのに真木は苦笑した。八枝は結婚式の前日に、主人公の雪子が嫁ぐ前に下痢をしていた細雪なんかを読んでいたりと、なんだか縁起が悪いのである。

 結婚する前は、貴婦人な女傑である彼女の祖母に似ていた八枝だったのに、いつのまにか自分に似てきている、と真木はまた義父に気の毒になった。
「どんなお話をされてたんですか」
あまり突っ込んで聞くことのしない八枝には珍しいことだった。
「...レディのいるところでは話しづらいようなことを」
八枝にはあまりぴんと来なかったようだった。
「わたしが男で、そしてもっと年がいっていたら、もっと皆さんの役に立てただろうなあ、って最近よく思うんです」
「それはつまり、きみがおじさんだったらよかったってことかい? とんでもない。おじさんがこれ以上増えたら、おれは数減らしのために逐電するね」
八枝がふふふと笑ったので、真木は安心して眠りについた。


8

 里では桜が見頃だったが、木曽の深山にはまだ春も来ていないようだった。眠れる山と裸の木々を車窓に見ながら、愉しげな声で八枝がかるく口ずさんだ、
「木曽の谷には、真木しげり」

 運転をしている真木が、途端に苦い顔をした、
「きみは、おれの名前に関するコンプレックスをすべて刺激する気かね? 」
 わざとやったらしい八枝はすこしおどけた笑みを浮かべた。
「信濃の国はわかりますけど、そんなにみんな久留米の神官なんて知りませんって」
 その同姓同名の幕末の志士のせいで、妻にさえも真木は自分の下の名前を呼ばせようとはしないのである。
「時々きみみたいなのがいるから油断ならんのだ」

 久米が来た翌日の土曜日だった。重森三玲の枯山水を見に行ってきたその足をすこし伸ばして、木曽路でもいちばん大きい奈良井宿を見てから帰るつもりだった。

 真木に連れまわされて、八枝もこの一年でわからぬなりに庭を数見てきた。今日の目当てだった看雲庭は、真木がむかしよく父に連れられて見にきた庭だったらしい。八枝には石の配置の意味だのは説明されてもあまりわからないのだが、ただ波々が北欧模様みたいでかわいいなと思った。ばかにされたくないので口はつぐんでいたけれど。

 奈良井の宿は冬の短い日を直角に浴びて、軒並みが黒い影を落としていた。路の向こうに見える山は茶色だし、それになにより寒かった。夏に来るべきなのかもしれない、でもこう観光客の少ないのも、こう寂しさが漂う風情もなかなか悪くないかもしれないと、ふたりは凍えながら強がった。

 寒さから逃れようと、街道沿いに一軒のカフェを見つけた。町屋らしいほの暗い席に着いてコーヒーとパフェを頼むと、真木が突然言いだした。
「明日の通訳は、おれが代わろうか」
通訳はあの場所において、彼女の存在意義のようになっていたから、その提案は少なからぬ驚きをもたらした。
「わたしが、こないだへまをしたからですか?  パウロさんに言われたんですか?」 
「いや、パウロは関係ない。ただの自分の考えです」
「どうして? わたしにはそのくらいしか出来ないのに」
八枝はすこし涙目になっていた。
「ごめん、泣かせるつもりはなかったんだ。こないだの失敗を盾にとって、おれの方がまだましに出来ると主張するつもりも俄然無い。きみは専門教育まで受けてるんだから、おれはまったく張り合うつもりなんか無いよ」
「でも真木さんの方が、リスニングが上手いじゃありませんか」
「それは住んでいたし、あの特殊な南部訛りに耳が慣れているだけだ」

 ともかく、と真木が仕切り直した。
「おれが言いたいのは、八枝はあまりにも長く矢面に立ちすぎている、ということなんだ。ちょっと安全な場所に戻してあげたい、と勝手に思っただけだよ」
やってきたパフェをつつきながら、八枝はそのことばを消化しようとした。
「矢面に立ちすぎた、ってどういうことですか?」
「人目につきやすい、視線も批判も浴びやすい最前線を、きみはずっと突っ走ってきた。なんだか最近疲れているのは、そのせいなんじゃないか」
「疲れてるんでしょうか」
「こころがね」
 言い当てられてしまって、八枝はまた涙が上がってくるのを感じた。

「でもみなさん頑張ってるじゃありませんか。あなたも、パウロさんも、みんな」
「おれだって二十代の頃には、いまほど安定して奉仕は出来なかったんじゃないかな。年を取ると、こころを守る術も持久戦を戦うすべも、なんとなく身に付いてくるものでね」
八枝がすこしふくれたのを見て、真木がことばを継いだ、
「昨日の、おじさんになりたいだとか、何だとか、きみが自分でないものになろうとするのは止めてくれないか。どうしてそんなに年を気にするのかな、こちらからしたら羨ましいばかりなのに」

「でもときどき、自分に求められている役割が、自分より十は年を取っているような気になるんです」
「それはエリーのこと?」
「ええ、たぶん」
真木はすこしうつむいた。

「たしかにきみたちは立ち位置が重なるし、
背格好も似ているし、ときおり混ざってしまっているときがあるのかもしれない。特にパウロはなあ、まだエリーが死んだことさえ受け止めきれていなそうだからなあ」
「わたしもそれが嫌だってわけじゃないんです」
「でも、エリーはパウロの奥さんで、きみはおれのだっていうのは、違うよ。しかもきみの方がずっと若いしね。勝ったね」
「エリーさんの方が美人なのに」
そんなこともないさ、と真木がはぐらかした。

「エリーは、若いころからいつも強いひとで、主の喜びがわたしの強さ、という聖句を見るたびに思い出すような、透きとおったひとでした。ああいうひとはあまり長くこちらに留まれないんじゃないかと思う。だからきみはそれで結構。たくさん泣いて、たくさん傷ついて、ゆっくり成長していけばいいよ」

 それを侮辱ととるべきか、素直に受けとるべきか考えあぐねている八枝に、真木が言った、
「まだおじさんの忠告を聞いてくれるかい?  おれが本当にきみにいいたかったことなんだがね。
 きみはいつも通訳をしていたり、もてなし役を宛がわれたりで、どうしても人の必要を満たす方ばかりに目が向いてしまうだろう。いつのまにか、自分の内側が空っぽになっていたりはしないかい?
 誰にだって、人の面倒ばかり見てないで、自分とキリストとの関係を最優先にしないといけない時がある。すこし離れてみたほうが見えてくるものがあるんじゃないだろうか」

 格子の向こうを色鮮やかな観光客たちが過ぎていくのが、うつむいた目の端に写った。うす暗いなかに顔をあげると、真木の目はとてもまっすぐに八枝を見つめていた。八枝はこころのなかで、大きな白布に太い筆で一息に降参と書いた。


続き わたしの軛 下

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