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暗闇の灯 (小説) 7

あらすじ

クリスチャンの家庭に育ったものの、信仰を離れて久しいあかりは、みずからを呼ぶ声をかんじながらも、それに抗いつづけている。『あちら側』にいる家族たちのやさしさは、灯にはなまあたたかく、そして息ぐるしい。

神に、そして家族に反抗するため、離婚経験があり、男手ひとつでちいさな娘を育てている田口と、誰にも賛成されない結婚をした灯だったが、神はその田口をも呼んでしまう。神に救われ、キリストの方へひた走る田口と、キリストに背を向け、暗闇に馴染んでいく灯との結婚生活は、始めからわかっていたとおり、容易なものではなかった。逃げだしたはずのクリスチャンホームで、ただひとり神を信じない継母として暮らす灯。神はそんな灯を包囲する手を弛めようとするどころかー。


紙の本でしか読めなかった小説の後半部分を、いまちょっとずつnoteにあげているところです。必要なひとにとどきますように。

*この小説は作り話であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません*


ひとつ前








 すみれは洗礼を受けたいのだそうだ。夕飯の食卓越しに、七つになった娘をまざまざと見つめる。いまさっき田口がそう言った。牧師の許可も下り、洗礼の日取りも決まっているらしい。継母だからか、教会に行かないからか、灯はすべて蚊帳の外に置かれている。

 この色の白い、大人びた少女は、ときどき実の母親について、灯に訊ねる。ほんとうのママのこときいたって、パパにはいわないでね、と慎重に防衛線を張りながら。自らも複雑なものを抱えながら育った灯は、そのことでならせめて、すみれに寄り添うことができる。

 「まだ早くないの?」
 流しのそばで、夫とふたりきりになった瞬間を捉えて、灯は問うてみる。田口はすこし難しい顔つきで言う。
 「早いとは思ったが、あの早熟な子が自分から言い出したのだから、信じてやるべきかと思って」
 ふーんと言って、灯は冷蔵庫から缶ビールを取りだした。それを見て、田口の体はすこしこわばったが、何も言わずに踵をかえすと、食後のアイスを食べているすみれのもとに戻る。
 
 「すみれはどこで洗礼を受けたい?」
 「海がいい」
 やっぱり海がいいよなあ、と田口は呟いて、灯の方を向く。
 「すみれが洗礼を受けるって、八枝さんに連絡したら、真木さんとふたりで来てくれるそうだ」
 「うちに泊まるのかしら」
 灯が相続したものの、この家は八枝にとっても懐かしい、祖父母の家である。田口は、さあ、と答える。

 その日、まぶしい五月の日射しに照らされながら、海へ向かうひとびとであふれる駅で待っていると、にぎやかな十数人の一団がやってきた。真っ先に灯のもとへ来たのは、初老のホセ・リサール牧師だった。もう数十年も、東京の教会の牧師をしているフィリピン人で、灯のことも小さい頃から見ている。

 灯よりも背の低い牧師は、灯の手を両手でつつむと、胸に溢れる感慨を懸命に抑えながら、会えてよかった、と英語で言った。久しぶりに見る牧師は、記憶よりずっと老けていて、なんだか哀しかった。自分の感情に戸惑いながら、灯はできるだけフラットに、何でもないように振る舞おうとした。

 海から吹いてくる風をかきわけながら、狭い道を、ちょうど隣町に入ってすぐの浜へ向かった。内海のおだやかな入江は、観光客にあふれる隣のビーチと違って、あまり人影はない。スタンドアップパドルの一群が、海に漕ぎ出していったあと、浜には、擁壁の影に座って水彩画を描いているひとと、すみれの洗礼式のために集まった教会のひとびとだけが残された。

 浜の隅に、古いペンキの色褪せたボートが重なって並んでいる。にぎやかな一団を離れ、灯はその傍にひとり腰かけて、彼らを眺めた。

 遠くで、淡い卵色の木綿に、紺地に型染めのぱきっとした花模様の帯をしめた八枝が、かるく腰をかがめて、すみれとなにかを話している。いつのまにか信州の教会の副牧師になっていた真木が、その傍らでレディたちに日傘を差し掛ける。十五才年下の妻がいつまでも少女めいているのと対象的に、真木は苦労のせいかすっかり白髪めいてしまって、五十にひとつ足らない実年齢よりも老けてみえる。

 すみれは彼らのことを八枝叔母さん、真木叔父ちゃんと呼んでいて、血の繋がりがないことなどは忘れ去られているようだ。その近くには、灯の伯父夫婦も控えている。すみれは彼らをおじいちゃん、おばあちゃんと呼んでいる。あの子はあちらの世界で、良いひとたちに囲まれている、と灯は安堵した。そのすべてが自分の係累なのは、なんとも皮肉だけれど。

 「こんなとこに隠れてた」
 
という声がして、久米が顔を覗かせた。さわやかな淡いピンクのシャツに、キャメル色のパンツを合わせて、ひかり眩しい砂浜にいかにも好ましげである。この人当たりの良いひとは、一年前こちらに転勤になり、いまは東京の教会に通っている。教会では田口と親しく、ときどき家まで遊びに来るので、灯とももう馴染みになっていた。彼はコンクリートの段差の砂をはらうと、灯のとなりに腰を掛けた。

 「すみれちゃんは、毎週会うたびに成長していきますね。すごく良いお嬢さんになってきた」
 「どうも。田口の育て方が良いのよ。明らかに継母のわたしではない」
 「すみれちゃんが成長するのを、待ってもいいような気が最近している」
 「八枝と真木さんよりも、年が離れてるでしょ。あれ以上離れたら、不自然どころじゃないわ」

 灯は、手を繋いで波打ち際を歩いている真木夫妻を指差した。やはりだめか、と久米は冗談めかして呟いて、それからふたりはしずかにひとびとを眺めていた。時折頭上にトンビが飛び交って、 砂のうえに影がさしてゆく。一年中がこんな陽気だったらいいのに、と思うような、穏やかな五月の日だった。

 水辺から歌がきこえてくる。あの歌はなんだろう。Down at the cross where my Savior died, down where for cleansing from sin I cried...... ひとびとの歌声が集まり、風にのってゆれながら渡ってゆく。無意識のうちに灯も、その古くうつくしい歌を口ずさんでいた。久米はそれに気づかぬふりをしながら、その低く澄んだ歌声に耳を傾けていた。

 歌が終わると、リサール牧師のほそぼそとした声がして、あとはごおおっと耳をつつむ風の音だけが残された。海は穏やかで、その表面を風がゆらしている、といった程度の波しか立っていない。透明な海のなかへ、リサール牧師にみちびかれて、白いワンピースを着たすみれが、腰が浸かる位置まで入っていく。

 水に沈められ、そして引き揚げられた、ちいさな娘を遠くから眺めながら、じぶんが喜んでいることに灯は驚いた。神とは無縁の環境で生まれたあの赤ん坊が、幼いながらにキリストに人生を捧げると言い、こうして神を知るひとびとから祝福されている。砂浜で待っていた父親に、おおきなタオルで包んでもらっているすみれを眺めながら、灯がぼそっと言う。

 「あの子の母親はね、別に田口と付き合っていたわけではなかったの」
 
 なんでこんなこと、このひとに語ろうとしてるのかしら、と思いつつ、灯は何年も前の出来事に思いを馳せる。目線の先には、のたりのたりとした海が広がる。
 
 「可能性があったのは、田口だけじゃなかったらしいのね。でも責任を取ろうとしたのは、彼だけだった。生まれてみれば、 幸いにも彼の子だったんだけど。あんな地獄みたいな状況に生まれた子が、いまこうしているの、わたしすごく嬉しいわ」

 久米の表情は凍りついていた。この話を聞くのははじめてだったらしい。

 「彼女も作品を作るひとだったけれど、破滅型のひとだった。わたしがいうのも可笑しいけれど、 千花さんを見ていると、やっぱりわたしはしっかりした土台のある環境に育ったんだな、って思わされた」

 「どんどん堕ちていくようなひとだった。才能はあるのに、ただまるきし骨も地面もないみたいなひとで、見ていて辛かった」

 「前妻だからかもしれないけど、時々彼女と自分のどこが違うのだろうかと考えるのね。良い大学を出てるとか、母の実家が医者だとか、そういうのは関係ない気がするの。わたしだって散々堕落して、田口を苦しめているけれど、どうしたって彼女ほどには堕ちられない。どうしてかな、って思ったんだけど、それは家族がわたしの為に祈ってくれているからかもしれない。神から逃げているのに、わたし、祈りの力を感じるのよ」

 「キリストの血の境界線があるんでしょうね、これ以上はだめだという」
 
 久米が答える。男盛りに近づいて、久米の整った容貌にはすこしの渋みと、そして清らかなものが加わり、はっとするようにうつくしい。さぞかしもてるのだろうな、と灯はその横顔を見て思う。

 「むかし灯さんに訊きましたね、そちらの世界で答えは見つかりましたかって。いま訊いたら、どうですか?」
 「わたしみたいに汚れた人間、どうしようもないわ」
 頬杖をつきながら呟く灯に、久米が吐き捨てるように言う。
 
 「バカらしい。いま田口さんの凄絶な過去をきいたばかりじゃありませんか。ぼくの過去だって似たり寄ったり、いや、もっと酷いくらいですよ。子供はいませんがね。帰るにはね、キリストの足下にへりくだって、身を投げ出せばいいんです。人目だの、お体裁だのを気にしているうちはダメですね。放蕩息子だって、ぼくを召し使いのひとりにしてください、って言いながら帰ってきたでしょう」

 「……わかってるわ」

 灯はそういうと、立ち上がって砂を払った。彼女の黒いブラウスの裾が風にゆれる。灯はしばらく、遠くに立つあちら側のひとびとを眺めていたが、ふとしゃがみこんで流木を拾い上げると、砂の上になにかを書き始めた。文字は不鮮明で、砂浜をわたっていく風に、書くたびに崩されていくので、久米には何も読めない。だけれど、同じことをしていたひとのことを思い出し、久米は心のなかでキリストに語りかけた。



つづき


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