死人は死者たちに葬らせよ (小説) 下
この小説は作り話であって、実在の団体や
人物とは何の関係もありません。
「生きて帰ってきたね、よかったよかった」
屋敷に戻ると、事務所で働いてたパウロが玄関に出てきて言った。敵意と悪意に囲まれたところから、やっと安全な我が家に帰ってきたのだと、パウロの穏やかな顔に、八枝はすこし湿っぽい安堵を覚えた。
玄関から続く長い廊下は、黒々として暗かった。履きづらい礼装用の靴から解放された足を、冷え冷えした床で伸ばしながら奥に進むと、左手にリビングの硝子戸からじわりと光が溜まっていた。ドアを開けると、三人はキッチンカウンターのまわりに引きよせられるようにして集まった。そこが彼らの定位置だった。
「洗礼を受けてきたみたいだね、八枝ちゃんは?」
「悪魔がシーシー言っているのが、聞こえてくるみたいな場所だったんですもの!」
隣に座る夫の存在も忘れて、八枝は溢れんばかりになっていた感情のふたを開けた。牧師のパウロなら、顔をしかめたりせず、じぶんの話を聞いてくれるだろうと知っていたから。
「日本人だけど、もうすぐ三十になるけれど、日本があんなところだなんて、わたし全然知りませんでしたわ」
もうすぐ三十になるという一言に、四十半ばの真木とパウロがまだ若いな、と含み笑いするのを無視して八枝は言った。
「八枝ちゃんは恵まれているからね。怒らない怒らない。それも神さまからの恵みだから」
「わたしだって真木が亡くなれば、部外者ではいられなくなるんだわ。この恐ろしい村社会の暗部に放り出されることになるんだわ」
「勝手に殺された......」
そう呟く真木をパウロが笑った。
「八枝ちゃんは、アメリカならもっと暮らしやすいと思ってる?」
八枝はすこし考えた。初めて会ったとき、真木はまだアメリカに住んでいて、どこかあちらのひとのような、自由で軽やかなものをまとっていた。その頃の彼と今日の葬式での彼とを思い比べて、八枝はちいさく頷いた。
「じゃあ中国やアフガニスタンなら?」
「あちらの方々は、信仰のために投獄されたり、殺されたりしますもの」
ニュースの片隅で見た彼らの苦難を思い出して、八枝の言葉はかすかに震えた。パウロは青色の褪せて澄んだ目を細めて、やさしく頷く。
「キリストの時代、ユダヤはローマの属州で圧政を敷かれていた......なんて、ヨセフスを読んでいた八枝ちゃんに、わざわざ言う必要もないだろうけど」
「ぜんぶは読んでません。戦記とかローマの政治とかは、わかりづらくて読み飛ばしちゃった」
「そうなんだ? ぼくはあんな長ったらしい本読んでないからわからないけど」
牧師なのに、と驚く八枝に、要約みたいなのなら読んだよとパウロが言い訳する。
「ひとびとが求めていた救い主は、彼らをローマの支配から自由にしてくれる政治的な指導者だった。弟子たちでさえそうだったね」
「ペテロとか?」
「ああ。まだ聖霊を受けていなかった彼らは、イエスの語る王国はこの世のものだと思っていて、イエスが今にもイスラエルをローマから独立させてくれると思っていた。歴史で例えれば、ええっと、誰?」
パウロはふたりの方を見て聞いた。
真木と八枝は、「ウィリアム・テル?」「日本史で言えば天草四郎とか西郷隆盛とか?」「西郷隆盛はないだろう、大塩平八郎?」「元寇を破った北条の執権とか?」「たしか時宗じゃなかったかな...… 独立を失ったことのない日本史にその手の人物はいない気がする」「じゃあGHQと渡り合った白州次郎とか!」「ぜったいに違うだろう......」と、平行線を辿っていたが、GHQの本国から来たパウロに気づいて黙った。
「まあ、なんだっていいけど。もしキリストが政治的なことを語っていたら、もっと多くのひとが彼に従っていただろうって、こないだ誰かの説教で聞いたけどね。いまの世の中でだって、純粋な福音より、世界をどう変えていくかの方が受け入れられるんじゃないかな」
「どう変えていくかって?」
「クリスチャンが政治の世界に進出するとか、メディアやアートを席巻するとか。クリスチャンが仏事の席で迫害に合わないように、啓蒙活動をするとか」
八枝はすこし顔をしかめた。だけれど、あの場所で大切なひとがお寺の国の風習に苦しめられている姿を見て、黙っているほど苦しいことはなかった。なによりも苦しかったのは、じぶんのいない所でずっと夫がそれに耐えていたこと、そしてもうそれに慣れ切ってしまっているらしいことだった。
「これはぼくが思うことなんだけど、キリストの教えはつまるところ、この世を変えることではなくて、聖霊によって自分をいかに変えるか、キリストに似たものに変えていただくかということなんじゃないかな。
ぼくも日本に来て五年くらいになる。ガイジンと呼ばれるのは正直気分が悪いし、いろいろ思うことはあるさ。GHQだのヒロシマやナガサキの話題になるたびに、居心地の悪さを感じるしね。
でもぼくはこの世に属していないんだ。ぼくが語るべきことはキリストであって、日本における外国人の待遇改善ではない。ぼくたちの国籍は天にあるのであって、この世界は日本であれアメリカであれ、仮の宿に過ぎない」
「......あなたがこの世から出た者であったら、この世もあなたを愛しただろう。しかしあなたはこの世のものではない。わたしがあなたをこの世から選び出した。だからこの世はあなたを憎むのである」
パウロのことばを受けて、穏やかな、低く呟くような声で、真木がヨハネの福音書の一節を諳じた。またあの表情をしている、と八枝は思った。苦しくてたまらないのに、喜びが湧き上がってきてならない、といった静謐で、あまりにも透きとおっていすぎて、まるでどこか遠くへ行ってしまいそうな表情を。
「そう。だから八枝ちゃんは、お寺の国のクリスチャンであることよりも、もっと高いところに目を向けなさい。ぼくたちは暗闇の灯で、地の塩で、この世には属していない。この世に憎まれれば憎まれるほど、神さまはもっと近く、近くに引き寄せてくださる」
八枝はそっと目を伏せた。年齢においても、霊的な成熟度においても、じぶんとは掛け離れて大人なこのふたりに、説き伏せられるのはもう慣れっこになっている。時として反発を感じることもあるけれど、葬儀での夫の姿がまだ目蓋の裏に焼き付いていたから、今日の言葉はすうっと染み込んでいった。
「自宅で牧師先生が働いていると、すごい福利厚生があるんですね。休憩時間にひとつお説教されちゃった」
わざと茶化したように言うと、八枝は立ち上がって、今朝から一切手の付けられていない、汚れた皿の積み重なるシンクへと向かった。わたしにはやらないといけないことがある、わたしが洗わなければ誰も洗わないお皿だとか。
「八枝、それは福利厚生という言葉を履き違えている」
その喪服の背を、雇用主の言葉狩りが追いかけた。さあてと仕事に戻るか、とパウロが部屋を出たのをみると、真木も黒いネクタイを片手で外しながら着替えに上がっていった。八枝は祖母から受け継いだ高価な真珠を外すのも忘れて、無心で皿と向き合っていた。
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