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白い猫と妻の失踪23、エピローグ 果穂とジュリエット2042

 ノルマンディーのグランヴィルに来たのは、前夫が亡くなった年に旅行に来て以来だ。自分が80代になったなんて、全く信じられなかった。もしかすると自分はまだ30代なのではないかと錯覚することがあるほどで、自分が若い頃に抱いていた人生の後半を生きる人々のイメージと自分が体験していることのギャップに驚いている。人生は思ったよりすごいスピードで進んでしまう。

 自分の人生で、一番の転機は、大学生の時に夫に出会ったこと。そして夫を亡くした年に、フランス旅行をして自分の意識が大きく変化したことだ。なにしろあの頃、てっきり老後を一緒に過ごすと思っていた夫との生活があっという間に消えて無くなってしまったので、私は完全に途方に暮れていた。

 事が起こるまで60代で未亡人を経験するとは、想像したことは一度もなかった。どうやってその時期を乗り越えたのか、あまりよく覚えていない。それでも、フランス旅行がとても楽しかったことは、まるで昨日のことのようによく覚えている。私はてっきり何年も落ち込んで過ごすと思っていたので、あの時一人きりで長い海外旅行に行く勇気を持った自分に、賞賛を送りたい。そしてその後も、信じられないようなことが次々と起きた。気が付いたら再婚までしていた。実際にはお互いに多忙なため、彼が日本に来られるのは年に数ヶ月だけだし、私が彼のいる国に行かれるのも年に数回だけなので、一緒に暮らしているのは全部で6ヶ月にも満たない。でもそれが丁度いいリズムになっている。

 20年前に鎌倉で知り合ったエリックさんが数ヶ月前に亡くなり、地元の美術館が彼の作品を300点程集めた展示会を急遽企画し、そのヴェルニサージュパーティーに招かれた。当然、この企画を実現したのは奥様の力が大きかったと聞いいている。世界中に散らばっている彼の作品を集めるのは大変な仕事だろう。所有者への貸し出しの正式なお願いは美術館とギャラリーが動くとしても、奥様から一言直接連絡があれば、当然所有者の心は大きく動くものだ。

 美術館は、大勢の人たちでいっぱいだった。テーブルには、シャンパンやワイン、美しい料理が並んでいる。テーブルの周りで談笑している人たちは、みんなとても楽しそうだ。夫は現在ニューヨークで仕事をしているので、今回、ノルマンディーには一人でやってきた。懐かしい気持ちで、グランヴィルの駅に降り立った。駅に着いた途端に、海の新鮮な空気を感じる。この場所の一番素晴らしいところは、この空気の綺麗さだ。

 会場に入り、私はとにかく絵を見るために、ゆったりとした動きで一枚一枚対話するように、絵を見始めた。素晴らしい絵がたくさんあった。ある絵の前で私は足を止めた。私の姿を描いた絵だった。

 例の着物を着ているので、私だとわかる。舞台は灯台だ。足元にはあの白い猫がいる。他の人には見えないはずの猫も、絵に描けば、すべての人に見える。彼の絵を見ていると、絵画というのは、ある一定の人にしか見えない事柄を、全ての人に見せることができる素晴らしい発明だということを改めて理解する。1枚には灯台の外観が描かれている。その隣には、灯台の内部が描かれた絵が掛けられている。

 私はこの絵に引き込まれた。この絵を見ていると、海の匂いとひんやりとした温度や空間が感じられた。海に浮かんで青い空と雲を眺めているような穏やかな気持ちになれた。
すべてがリアルに迫ってきた。自分の魂が、その絵の中に入り込んで、その瞬間を体験しているような感覚に襲われた。

 そして、私は静かに微笑んだ。私の隣には、前夫が描かれているのだ。夫は着物姿の私を支えるように、私の腰に手を添えて微笑んで立っている。エリックさんが描いた夫の姿は、私しか知らない、家で過ごしている時の彼の表情だった。しかも、死後に私が会話をしていた時にいつも着ていた、大島紬の姿だった。この着物は今でも家にあるけれど、ほとんど誰にも見せたことがない。家の茶室で好んで着ていた着物だ。この着物姿の彼の写真が外に出ることはありえなかった。

 エリックさんとは鎌倉で一度だけ会ったきり、その後はメールのやりとりしかしていない。私は、誰にも夫が死後に私と会話できた時期があったことを、話をしたことはない。心配されたり病院に行くように勧められるのは面倒だったし、それに「人生には少しくらい秘密があった方がいい。」と、夫がよく言っていたからだ。

 そしてさらによく見ると、私の着物の柄の色が、反対に描かれていることに気づいた。微細な描き方なので、一見しただけでは、その違いはあまり良くわからない。私とエリックさん以外にはわからない、暗号のようなものが、たくさんこの絵の中に散りばめられていた。私は、とても楽しい気持ちになった。そうか、きっとエリックさんは今こっそり、この会場に来ていて、私にこの絵を見せるのをとても面白がっていることだろう。私は、今日ここに一人で来られて、本当によかった!と、内心とても興奮していた。

 灯台猫は、黒猫だった。黒猫の尻尾の先が白くなっている。夫と私、そして灯台猫が一緒に灯台から海を眺めている。一見すると分からないけれど、よく観察すると空と海が逆になっている。最初は水面に雲が映っているのだと思っていた。でも長い時間眺めていると、だんだん空と海が逆なことがわかる。

 着物の合わせも反対だ。なるほど、きっと、この絵は、あちらの世界の風景なのだ。夫の『逆さ水』を読んで、あちらの世界では夜と昼も、天と地もすべてが逆だいう説を絵にしたのだろう。心のこもった温かい絵だった。きっと私達があちらの世界に行けば、こんな風にまた大切な人と一緒に過ごすことができる。というメッセージだ。希望の持てる、楽しい絵だった。

 私と柚木は本当に、夫婦と呼ぶのにぴったりの存在で、まるで一心同体のような関係だった。今でも彼が私の中に生きていると言っても、いいかもしれない。それほど近い存在だ。

 現在の夫は、どちらかといえば兄弟姉妹のような理解者といったほうがぴったりくる。物理的にも長く一緒に暮らしているわけではない。せいぜい1ヶ月くらい一緒に暮らすと、またどこかに行ってしまう。彼は常に世界中を動いてビジネスをすることを楽しでいる。パートナーと呼んだ方が、しっくりくるのかもしれない。彼にとっては、呼び方も、国籍も、セクシャリティーも年齢も何もかも超えたところで、私という存在を面白がっているという感じだ。彼は柚木のことをとても尊敬してくれている。私も彼の亡くなった奥様のことは、心から大切に思っている。

 ある意味で私たちの関係は友情に近いかもしれない。愛というものには、ある意味の執着や重さが入りやすい。私たちの関係はもう少し軽快だ。だったら、わざわざ結婚しなくてもいいのではと思われるかもしれないけれど。結婚という概念に拘らずに生きてきた彼にとって、ある意味で外人との結婚というものを体験してみる絶好のチャンスだったらしい。結婚しないことにこだわってきたから、今度は一周回って、結婚というものをしてみたら、どんな気持ちになるのだろう。という実験をしている。そんな感じだった。

 私は、特に周りの人に公表もせず、黙っていつの間にか再婚してしまったので、周りの人たちは今でも私を未亡人と思っている人がいる。別に、誰にどう思われるか、知ったことではない。それはそれで、私たちは、この状況をちょっと面白がっている節があった。

 私がエリックさんと実際に会ってお話をしたのは、鎌倉のでたった1度きりのことだ。エリックさんは奥様を必死に探している最中だった。そして、彼がフランスに戻ってみると、3年間行方不明だった彼女が戻ってきていた!というビッグニュースが飛び込んできた。なんと、人生は驚きに満ちていることだろう。

 その後も、英語でメールをしあう関係はずっと続いた。人のつながりというのは、会う回数や、過ごした時間の長さではないなと、つくづく思う。彼は私の人生や気持ちを何度も思い返しながら、この絵を描いてくれたのだ。彼の優しさが溢れている絵だ。

 美しい金髪の女性が、じっと絵に見入っている私に近づいてきて
「素晴らしい絵でしょう。あなたは果穂さんよね。ジュリエットです。初めまして。」と声をかけてきた。

 「まあ、ジュリエットさん。初めまして!いつもメールをありがとうございます。お会いできて嬉しいわ。素敵な展覧会おめでとうございます。そして、お悔やみ申し上げます。まだ旦那様が亡くなって数ヶ月よね。ここまでの個展を実現できるなんて、本当にすごいわ!」

「動いていた方が、元気になれるタイプなのよ、私。泳ぎ続けていないと死んじゃう魚みたいにね。」

「この灯台の絵、きっと私のことを描いているのよね。しかも普段着の夫が横にいるわ!どうやって、エリックさんはこの絵を描いたのかしら。すごく嬉しいわ。」
「さあ、どうやって絵の構想を立てるのかしらね。それこそ、本人にもあまり良く分からないのかもしれないわ。突然、ある映像を思いついて、描いたりするみたい。この灯台は、ある日彼が一人で車で出かけて見てきた、ブルターニュにある灯台です。」

「本当に美しい所ですね。」
「彼はよく、灯台は特別な場所だと言っていました。ここを訪れてから、シリーズで灯台を描くことが多くなったの。あそこに鎌倉の灯台の絵もあるわよ。まるで灯台に取り憑かれたみたいに、一時期灯台ばかり描いていたわ!」と、はじけるような笑顔で話を続けた。

 悲しげな表情で展示会に来た人たちは、そんな彼女の様子を見て、誰もがとても優しい笑顔になり、会場はまるでエリックさんがその場にいるかのように、明るく楽しい雰囲気に包まれた。

 「私は、泣いて暗い顔をして、みんなでお葬式をするなんて、まっぴらだったの。私がやりたかったのは、こんな風に彼の絵を眺めながら、みんなで楽しくパーティーをすること!その方が、ずっといいじゃない!ほら、音楽を聴きながら、シャンパンで乾杯しましょう。」そう言って、彼女はクープランのソナタを会場に流した。二人ともシャンパングラスを持って乾杯した。

 「本当はこのお菓子は結婚式で食べるものなの。でも、私たちにとっては、結婚式の時にみんなで食べた思い出のお菓子!特別に美味しいお店のものなのよ。だから、みんなで食べたら、きっと夫も喜ぶわ。まあ、僕は食べられないじゃないかっ!て怒っているかもしれないけどね。」と、ウインクしながら、シュークリームのタワーを指差した。ピエス・モンテというお菓子だそうだ。二人の結婚式の時の写真が美しい額に入れられてテーブルの上に飾られている。きっと、いつも暖炉の上に乗っている写真だろう。若く美しいジュリエットとハンサムで弾ける笑顔のエリックさんだ。こんな風にお別れパーティーをするなんて、なんてお洒落なんだろう。

 「それにしても、幸せな旦那様ね。こんなに美しく楽しい女性が、生涯ずっと一緒に暮らして、愛してくれているなんて。そして、こんな風にご本人が天国に行ってからも、さらに彼の仕事を受け継いで進化させてくれる。そんな奥様、ちょっと見たことないわ。」と、私は思ったことを正直に言った。

「そういうあなたこそ、徹の作品も管理されて、ご自分の小説が、どんどんベストセラーになっているじゃない!翻訳された本は全部読んでいるわ。本当に素晴らしい人生だわ。いつも憧れているのよ。夫が突然亡くなった後、今まで以上にどんどん仕事をしようって思えたのは、あなたの小説のおかげかもしれない。この展示会のインスピレーションとエネルギーを持てたのも、あなたをここに招待しよう!って決めたからなのよ。」

「そう言ってもらえると、嬉しいわ。ありがとう。」
「後で、ゆっくりおしゃべりしましょう。会えるのをとても楽しみにしていたの!今日と明日はこの街でゆっくりできるんでしょう?」
「ええ、もちろんよ。」

 二人で絵の前でしばらく話しをした。お互いに幸せな人生を送った者同士の共感が、そこにはあった。周りには彼女と話したがっている人がたくさんいたので、彼女はまた別の人に挨拶するために歩いて行った。

 私は、じっとまた絵を見つめて、猫に視線を合わせた。
絵の中でポンポンは、少し動いたように見えた。

 明らかに、他の人にわからないように、絵の中で数歩前にそっと歩いて見せた。ポンポンは、どこにいても自由だ。私はおかしくなって、クスッと笑った。
ジュリエットを呼びに行ったものかどうか迷ったけれど、これは私だけに見ることが許された奇跡だとわかっていたので、呼びに行かずにその瞬間を楽しんだ。

 日常に奇跡はたくさん起きている。こんな風に、何か嬉しいことが起こったら、思いっきりそれを味わい楽しんだほうがいい。私たちはきっとそのために、この世界に生きているのだから。

 ピエス・モンテを崩して、シュークリームが配られた。私はその甘いお菓子を食べながら、人生とはなんと短く幸せで楽しいものだろうと、感慨深い思いで周りの人たちを眺めた。

— 完 —

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