歴史 邪馬台国、熊本じゃね?

 こんにちは、fleuretです。普段はAOE2に関する記事を投稿しています。

 吉野ケ里遺跡から新たに石棺墓が発見されましたが、個人的には「素直に読めば邪馬台国は熊本じゃね?」って思っているので、素人ながらその意見を書きたいと思います。正確に検証したわけではないのでご了承ください。


短里

 まず距離の問題について。魏志倭人伝では距離を里で表していますが、定説の1里≒430mでは距離が長くなってしまい、邪馬台国が南の海上に位置してしまいます。そこで1里≒75mとすると、魏志倭人伝に書かれている距離はほぼ完璧に朝鮮半島や九州地方と一致します(短里と呼ばれる考え方です)。魏志倭人伝上では1里≒75mで間違いないでしょう。
 秦の時代に1里=360歩と定められ、当時は1歩1.3mぐらいだろうとのことで1里≒430mと言われているようですが、今でさえ1歩1.3mは無理があります。当時は身長も小さかったでしょうし、1歩20cm(75/360)の方が納得がいきます。

 この短里の考え方で行けば、

狗邪韓国:朝鮮半島南岸
対馬国:対馬
一支国:壱岐
末盧国:佐賀県西唐津
伊都国:福岡県糸島(九州大学伊都キャンパス辺り)
奴国:福岡県姪浜
不弥国:福岡県博多
投馬国:福岡県久留米辺り
邪馬台国:熊本県菊陽町辺り

となります。末盧国→伊都国が東南ではないですが、「西唐津から海岸沿いに東南に向かっていたところ、気づかぬうちに東に向かっていた」ということじゃないかと思います。その方が地名とも合いますし、行先の決め方も自然(わざわざ山越えしない)ですし。
 不弥国からは里ではなく日数が書かれていますが、これは「距離がこれまでよりずっと長くなった」ということでしょう。川を10,20日かけて南に下るという意味です。江戸時代には1日に40kmも歩いたと言われていますが、私自身は正直15kmが限界な気がします。船での移動も徒歩と同じ速度と考えると、大体上記の通りになるのかなって感じです。


邪馬台国・卑弥呼の由来

 最後邪馬台国を熊本県菊陽町としたのは、名前をヒントにしたからです。当時日本には文字が無かったので「邪馬台国」は中国人による当て字のはずです。当時の中国語での読み方は「やまと国」と言われていますが、これはどういう意味合いなのでしょうか。

 私はこう考えました。「山戸国」山の戸口の国。
 菊陽町を地図で見てください。ちょうど阿蘇カルデラの入り口にあたる位置です。まさに山の玄関口と言えるでしょう。広い平原もあり、繁栄するにはもってこいの土地です。九州全土に邪馬台国の同盟国があった(影響力が及んでいた)とすれば、距離的にも一番統治しやすい場所ではないでしょうか。

 以上から、邪馬台国は熊本県菊陽町にあったと私は考えています。

 ちなみに東の海を1000里渡った場所には別の日本人の国があるそうで、これはおそらく四国にあった国でしょう。南には侏儒(こびと)国という身長1mぐらいの人々の国があり、これは種子島か屋久島な気がします。その東南の海を1年かけて移動すると裸国・黒歯国があるようですが、これは沖縄・奄美かあるいはグアム・北マリアナ諸島かもしれません。
 たびたび女王国という記載が見られますが、おそらく「邪馬台国=菊陽町にあった国」「女王国=卑弥呼が治めていた国々(九州全土)」という意味合いじゃないかと思います。そのぐらい大きくないとわざわざ魏志には書かないでしょう。


 続いて卑弥呼の由来ですが、これは「火の巫女」ではないでしょうか。熊本県は火の国とも呼ばれており、阿蘇山という火山の巫女という意味合いで「火巫女」と呼んでいたのでは、ということです。天皇のことを帝と呼んでいたように、帝王自身の名前を呼ばない文化が邪馬台国にもあったとすれば、その帝王の呼び名が「火巫女」なのではないでしょうか。
 卑弥呼の次の男王は卑弥弓呼らしいですが、これも「火御神子」みたいな意味合いで、男王の場合の読み方なのではと思います。(もしかしたらもう少しいい漢字があるかも)
 その次の女王壱与はたぶん本名でしょう。当時あまり詳しく説明しなかったがために「卑弥呼」「卑弥弓呼」が人名と捉えられたのではないでしょうか。

(ちなみに火の君という豪族が熊本県八代市竜北町にいたようですが、そこが邪馬台国だとすると陸行1月よりも海岸沿いに船で南下したほうが楽そうなので、邪馬台国はもっと内陸の菊陽町だったのかなと思っています)


邪馬台国≠大和朝廷(中国側の認識は?)

 大和朝廷との関わりですが、私は邪馬台国と大和朝廷は別物だと思います。主な理由は『旧唐書』です。

 ここでは「日本」は「倭」とは別の国と書かれています。「日本」の特徴として

・太陽に近い国だから日本と名付けた。
・倭は雅じゃないから日本にした。
・倭は小国で、日本が併合した国である。
・国土は数千里(これは日本の1里4kmでの計算かな)
・南と西の国境は海に面している
・北と東の国境は山に面している。その向こうは毛人の国。

 この日本は私たちのよく知る日本(大和朝廷)で合ってそうですね。北東の山は東北の山のことを指していたのでしょう。では倭とは一体?


 私は「倭=邪馬台国(九州の国々)」だと思っています。さらに言うならば「当時中国の人は長らく倭を九州の連合国家と認識していて、既に日本が倭を併合していたと聞いて混乱した」のではないでしょうか。

 前方後円墳の分布やワカタケル大王の鉄剣などを踏まえると、3~4世紀頃(遅くとも5世紀頃まで)には大和朝廷は九州から関東までの連合国家を形成していたはずです。倭の五王も大和朝廷の天皇のことを指しているのでしょう。

 ただ中国側は朝貢に来た倭が関西を中心とした国家であるとは認識していなかったのではないでしょうか。魏志倭人伝や南斉書などには「海中の島に倭人がいる」という書き方がされてます。その認識を唐の頃まで歴代王朝間で共有していたのであれば、(倭=日本とした場合)旧唐書にある日本の地理の説明にはならないはずです。旧唐書では日本は島ではなく北東に山があると書いている、つまり日本は島国ではないという認識なのですから。

 外交を行う際などには過去の中国正史を参考にしたはずです。そのため倭(朝貢しにくる東の海の島から来た人達)は九州に住んでいるという認識になるでしょう。当時の大和朝廷も「彼らは自分たちのことを倭と呼んでいるのか。なら倭と名乗り続けよう」ぐらいの認識で交流を続けたのではないでしょうか。特に説明もせずに日本と中国の間で倭国の認識がずれていったのです。
 倭の五王の話がある宋書倭国伝の文章も「倭は東に55国、西に66国、《海を渡って》北に95国平定した」という書き方からして、九州に110国、朝鮮半島に95国あるという捉え方をしていたように考えることができます。実際は関西から東に55国、西に66国、北の朝鮮半島に95国と言いたかったのでしょう。
 なお倭が朝鮮半島に領土を持っていたというのは、倭の五王が宋の皇帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍」という称号を得ていること、好太王碑文に倭との戦争について書かれていることからも推測できます。


 話を旧唐書に戻しましょう。当時唐の人々は「倭は九州の国」と考えていました。そこに遣唐使が「倭はこれから日本という名前にするぞ」と言ってきました。唐側が「ああ、あの小さな島は日本という名前になるのね」と返すと「いや、それ九州のこと言ってる?確かに昔そこに小さな国々があったけど、既に平定して日本の一部になってるよ」と返答が来ます。続けて遣唐使は「日本は大体4000kmぐらいの領土があって、北東には山があるんだ」などと説明しましたが、唐側はいまいち理解できない(信じがたい)ためとりあえず聞いたことを旧唐書に書きました。

 こんな感じでしょうか。もしかしたら大和(やまと)という名前も、邪馬台国(やまと国)が中国経由で大和朝廷に伝わったのが由来なのかもしれません。古事記・日本書紀の編纂もこの時日本の歴史を疑われたことから始めたのかもしれません。


邪馬台国はいつ消えたの?

 5世紀までには大和朝廷の影響力が九州から関東まで広がっていたと考えると、その時期までには邪馬台国は消えているはずです。九州説には大きく東遷説と統合説がありますが、私が有力に感じた説がひとつあります。若井 敏明という教授の説で「日本書紀に邪馬台国滅亡のことが書かれてある」というものです。

 仲哀8年、14代仲哀天皇と神功皇后が伊都国から天下平定を懇願され、熊襲と戦ったとのこと。仲哀天皇は崩御されるが神功皇后が平定を成し遂げ、さらに朝鮮半島に行って三韓征伐を行った。この時に邪馬台国が無くなったというわけです。
 ただここでは邪馬台国の位置を福岡県山門郡(やまと郡)としており、私の説とは異なります。距離的には菊陽町が邪馬台国だと思うので、邪馬台国の力が弱まってから反乱がおきて、伊都国が懇願しに行った、という流れですかね?

 古代人にしては長寿すぎるという理由で信憑性を疑われる古事記・日本書紀ですが、「農耕に合わせて1年=180日にしてたんじゃね?」という説があり、それを使ってざっくり計算すると、大和朝廷成立(神武天皇即位)が1世紀頃、邪馬台国連合(九州)平定が4世紀末になるでしょうか。
 1世紀頃は九州で火山噴火の跡などが地層から出てくるようなので、「火山噴火→神武東征→大和朝廷成立」という流れがありそうです。好太王碑文や宋書倭国伝を考慮すると、「邪馬台国連合(九州)平定→三韓討伐(好太王碑文)→宋書倭国伝(倭の五王)」になるでしょうか。



菊陽町説まとめ

・邪馬台国は熊本県菊陽町にあった(短里採用)
・邪馬台国は九州全土の国々を治めていた。
・邪馬台国は「山戸国」
・卑弥呼、卑弥弓子は王の名称で「火の巫女」
・邪馬台国≠大和朝廷
・中国王朝は遣唐使が来るまで「倭=九州の国」と考えていた。
・大和の由来は中国が大和朝廷を邪馬台国と勘違いしたから?
・古事記、日本書紀編纂の理由は唐に日本の歴史を疑われたから?
・大和朝廷成立は1世紀頃、邪馬台国連合(九州)平定は4世紀末。

 以上となります。正確に検証したわけではない、個人の推測なのであしからず。

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