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書く人なんて暗くて当然


2024年5月21日(火)朝の6:00になりました。

だいせんじがけだらなよさ、さかさに読むとあの人がおしえてくれた歌になる。

どうも、高倉大希です。




ペンを握って、ひとり黙々と何千字。

画面に向かって、ひとり黙々と何千字。


書くときは、いつだって孤独です。

こんな人間が、暗くないわけがありません。


書かずに済むのなら、それに越したことはないのかもしれない。

毎日書いていると、時々こんな気持ちになります。


きっとおじさんはいま、むずかしいことをいっぱい考えて、ことばにしようとしているんだ。次の質問をするのが、すこしだけ怖く感じられた。「いや......自分に声をかけるって、どうやって?」「書くのさ」おじさんは微笑んだ。「書くってね、自分と対話することなんだよ」

古賀史健(2023)「さみしい夜にはペンを持て」ポプラ社


「書くってね、自分と対話することなんだよ」

まさに、文は人なりです。


読んでもいないくせに、スキを押しやがって。

自分のフォロワーを増やすために、フォローしてきやがって。


note を読み漁っていると、こんな文章をよく見かけます。

鬱屈とした暗さが滲み出ていて、とても素敵だなと思います。


『わたしの日記』やら『うちの赤ちゃんの写真』も含めて、認める立場です。出てしまったものは出してしまえばいいと思います。自己満足が表出することを、ぼくは肯定しています。

糸井重里(2014)「インターネット的」PHP研究所


よーそこの若いの、俺の言うことを聞いてくれ。

俺を含め、誰の言うことも聞くなよ。


竹原ピストルさんの『よー、そこの若いの』という曲の一節です。

書くことはある種、間違いの記録なのかもしれません。


誰の言うことも聞かずに、思い切り間違ってしまえばよいのです。

後になって恥ずかしいと思えたならば、それだけで万々歳です。


30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然だし、50歳、60歳になってもまた変わってくる。同じ自分を維持しながら、昔の過ちを少しずつ正していく。それが老いるということです。老いるとは変化することであり、訂正することなのです。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


その点 note は、とてもあたたかいプラットフォームです。

自分が書いた文章なんて、誰も真剣に読んではいません。


大いに、暗くあればいい。

大いに、間違えてしまえばいい。


書く人なんて、暗くて当然です。

書く人なんて、間違えて当然です。






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