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与えてもらうことに慣れている


2023年11月12日(日)朝の6:00になりました。

贈与に気づくことのできた主体だけが、再び未来へ向かって贈与を差し出す。

どうも、高倉大希です。




子どもたちは、与えてもらうことに慣れています。

誰かが与えてくれるのを、いまかいまかと待っています。


なぜなら、できないことがあまりにもたくさんあるからです。

誰かが与えてくれるのを、待つことしかできません。


ごはんを食べさせてもらう、服を着させてもらう、勉強を教えてもらう。

子どもたちが、与えてもらうことに慣れるのは、必然的なことなのです。


人間が子供を育てるには、仲間が力を合わせなければならないのだ。したがって、進化は強い社会的絆を結べる者を優遇した。

ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)「サピエンス全史(上)」河出書房新社


与えてもらうことが当たり前になると、徐々に審査員になってしまいます。

要するに、与えてもらったものをジャッジするようになるわけです。


「あの先生の授業がわかりづらいせいで、勉強が嫌いになった」

「お母さんが起こしてくれなかったせいで、約束の時間に遅刻した」


よく耳にする言葉です。

与えてもらったものの良し悪しで、人生が決まると本気で信じてしまうのです。


倫理と知性はどちらが先かと問われれば、それは知性です。つまり、受取人のポジションです。なぜなら、過去の中に埋もれた贈与を受け取ることのできた主体だけが、つまり、贈与に気づくことのできた主体だけが再び未来へ向かって贈与を差し出すことができるからです。

近内悠太(2020)「世界は贈与でできている」NewsPicksパブリッシング


良いものを与えられたら、ラッキー。

悪いものを与えられたら、アンラッキー。


これだと、すべてが運任せになってしまいます。

ここ数年で流行った親ガチャという言葉にも、このマインドが染み込んでいます。


そして、ついにはこんなことを言いはじめます。

「ああ、なにかおもしろいことが起こらないかな」


僕らが話をするのを聞いて、どうしてそんなおもしろい経験ばかりしているのだろうと、一般の人は思うかもしれない。けれど、それは違う。僕らだって、普通の人と同じように平凡な普通の毎日を生きている。その日常の中から、素材を見つけ出し、料理しているだけなのだ。

島田紳助、松本人志(2003)「哲学」幻冬舎


外部要因が、人に大きな影響を及ぼすことは事実です。

ただし、当人として外部要因にすべてを委ねてしまうのはまた別の話です。


誰かが与えてくれるのを待っていれば、たしかに楽なのかもしれません。

審査員でいつづけられたら、たしかに楽なのかもしれません。


子どもたちは、与えてもらうことに慣れています。

誰かが与えてくれるのを、いまかいまかと待っています。






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