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Ⅱ.大学合格、故郷からの脱出;そこから始まる本物の地獄。

前回Ⅰ幼少期~学童期;貧乏、暴力、カルト。底辺でファンタジアかまして優等生に成り上がる直前まで。では、特殊な家庭環境の中でまもとな感覚を育まれないまま、
そこから抜け出すために猛勉強の末、中2でやっと全校から注目されるほどの成績を修めるところまで書きました。

「学校の成績が良い」と「頭が良い」は
必ずしも一致しないと、私は経験から実感しています。


私自身、おかしな家から抜け出したいあまり
中2から大学受験までずっとAランクを維持しましたが、
人生における数々の選択ミス、判断ミスを思い返すに
等身大の自分は相当なおバカだと自覚しています。

プロフにも書いたように、
私なにか障害でもあるのかな??
と思ったほど、です。

もちろん、学業と本質的な頭の良さ両方を兼ね備えている人もたくさんいます。その人たちは、本当に幸福なんだろうなと思います。

羨むのは愚かなことですが、
私がもっとも羨ましいのは、そういう、本当に頭の良い人たちですね。

ともあれ、高校受験で地元で一番の公立進学校に難なくパスした私は
その進学校でもトップの成績を維持し、
先生方からは首都圏の大学受験を勧められましたが
家にそんな経済力はなく、
また、いつも生活費を支援してくれていた従姉に
そこまでバックアップしてもらうなんて申し訳なくて
頼めるわけもなく、
また、彼女も私の両親と同じカルトにはまってしまっていたわけで、
いろいろな意味で頼りにくくなってしまい、
とりあえず家から脱出できればなんでもよかった私は

実家から車で6時間ほどの
ほどよく離れたまあまあ有名な大学への進学を決め、それも難なく合格しました。

東京方面に行くだけの資金は見込めないけど、これくらい離れたところなら
死ぬ気でバイトして、とりあえず実家との関係を希薄にすることは可能だろう、という算段ですね。

もともと、私の母は
なぜかダメ親父が大好きらしくて、
というかダメな男に依存されている状況が大好きらしくて、
おまけに当時カルトにはまっていて、傍から見ればちっともカリスマ性を感じないブ○イクな教祖様が大好きで、
また、いわゆるエディプスコンプレックスというやつなのか
弟のことも特別扱いにしていて、
私には関心が薄かったのですが、

成績が上がり始めたころから手のひらを返したように
「自慢の娘」みたいに外では私のことを話すようになり、
残念ながらきっとあの人の母性っていうのはそんなもんだろうなと
今でも思ってはいます。

が、

実家から都会の一人暮らしに向かう日、

私の乗ったJRを泣きながら追いかけてきた母の姿が、
少しだけ意外でした。


きっと、彼女の中でもいろいろな事象が混乱していたのだと思います。

健全な母性。

ダメ夫への思慕。

そんな頑張ってる自分への陶酔。

もともとあんなに優秀だった自分の、こんな、想定外の現在地。

あらゆる困難を乗り越えて、教祖様の絶対的な教えを堅持するという決意。

私は涙も出ませんでした。
ただ、両親と比較的協調できていた弟が
ずっと田舎で一緒に暮らすような気配だったので、
それが本当に彼にとって良いことなのか
それは少し心配でした。

また、ホームで小さくなっていく母の姿を見つめながら思い出したのは、

なぜかクリスマスのチキンの匂い、
従姉が買ってきてくれた豪華なケーキ、
部屋に流れる『ホワイト・クリスマス』。
そしてタンスの隅っこでぐちゃぐちゃに絡まっていた、母のロザリオ。

うちの家族の何が間違っていたのかさえ当時の私にはわからなくて、
親の涙を見ても覚め切っていた自分の
冷たい顔が車窓に映っているのを見つめながら、
きっとこれから始まる生活はいままでよりずっとマシなはずだ、と確信していたのでした。

実家から離れた大学生活は、それまでと比較すればとても自由で幸福でした。全国から集まってくる学生らはみんな同じ立場なので、
お互いを尊重しながら楽しい学生生活を送れていたと思います。

ただ、一風変わった環境で生きてきた当時の私にとっては、
新しく吸収しなければならない「普通」のデータ容量が大きすぎて、
充実していたけど
急成長しなければならないというのはなかなかきつい一面がありました。
経済的にも、お風呂もないような古いアパート暮らし。
月35,000円くらいの奨学金だけで足りるはずもありません。
他の子のように親からの仕送りが期待できない境遇である以上、
アルバイトと学生生活の両立という高いハードルを乗り越えなければなりませんでした。

郵便局、
スーパーの品出し、
家庭教師、
塾講師の補助業務、
工場での軽作業、
いろいろなアルバイトを経験しましたが、
とてもじゃないけど食べていくには。。
そして授業についていくのに必要な体力を温存するためには、

きわめて効率の良い仕事を探さなければいけないことに気が付き、
最初は少し郊外にあるプチ繁華街みたいなエリアに、
やがて市で一番の大きな繁華街に足が向くまでに、それほど時間はかかりませんでした。


もちろん、都会の繁華街に知り合いなどいません。

ただ、いま思えば、

単身そんな街に乗り込んで、

徐々にトップに近づいていった自分の中には、
遊郭で名を馳せて、水揚げされた叔母とおんなじ遺伝子が
知らないうちに組み込まれていたのかもしれません。

ここから、ソフトな地獄→ハードな地獄と長い時間をかけて生き抜くことになります。

ただ、こんな愚かな私でもただ一つ自慢できることは、

そんなとんでもない状況の中でも
単位は落としたことがなく、
国家試験にも無事にパスするのです。

とにもかくにも、私の取り柄といえばそれだけだったので。

つづく。


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