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幼年時代に。その3

   大きなくるみの木


 幼いわたしが住んでいた出張所の庭には、大きなくるみの木があった。それはとても大きくて、葉がいっぱいに繁る夏は、お庭の半分が日影になってしまうくらいだった。そこから毛虫が落ちて来ることもあった。

「毛虫だー。」

 さすがに虫好きのわたしでも、毛虫はこわい。避難するしかない。

 それでも、秋になって来ると、くるみの実が生っているのが見えてきて、期待がふくらむ。もう食べ頃になったくるみの実は、棒で突くと、簡単に落ちてくるのだ。

 そうなると、出張所の職員さんたちが、交代で、お昼休みに、くるみの実を落としてくれる。そして、三時のお茶の時間になるのを待って、みんなで食べるのだ。

 くるみの殻はとても硬いので、子供のわたしには絶対に割ることが出来ない。職員さんのなかでも、力のありそうな、若手のお兄さんが、率先して割ってくれるのだった。

 かごいっぱいに採れたくるみの殻を、ひとつひとつ割ってくれて、

 「どうぞ。」
と、わたしに渡してくれる。

 「ありがとう。」

 さぁ、食べよう。

 毎年、一番最初に食べるときはドキドキした。くるみの実は、苦くて甘くて、食べはじめると不思議においしいのだけれど、一番最初に食べるときは、複雑なくるみの味を忘れてしまっていて、大丈夫かなぁ、と心配になるからなのだ。

 くるみの実の季節は、わたしの誕生月でもあったので、毎年、くるみの木さんから、プレゼントがもらえているような気がしたものだ。

 職員さんたちが、毎日くるみの木から実を突付いて採ってくれるので、わたしのおやつは毎日くるみの実だった。出張所のお庭にゴザを敷いて、三時になると職員さんたちも集まって来て円陣になって座り、みんなで食べた。

 平和なひとときだったなぁ。と、今さらながらなつかしく思い出される。高級なお菓子などが買えない時代に、くるみの実はとてもぜいたくなおやつだったと思う。

 その頃のわたしの大切なお友だち、「犬のチャコ」も、ゴザの上にちょこんと座っていた。チャコは、私よりニ才年下の女の子で、わたしの家族が出張所に間借りを始めた頃に、母の弟がどこかから連れて来た赤ちゃん犬だった。

 全体に黒っぽい印象なのだけれど、耳のなかがとてもきれいな明るい茶色なので、「チャコ」とわたしが名付けたのだ。

 チャコは、ゴザの上に座って、わたしがくるみの実を食べるところをいつもじっと見ていた。

 「それはおいしいの?」とでも聞いて来そうだった。

 あぁ、チャコ。あなたとの想い出はたくさんあり過ぎる。くるみの木の下の、ゴザの上のあなたは、幼いわたしにたくさんのことを教えてくれた。

 大きなくるみの木のことを思い出すとき、わたしは、自然にチャコのことも思い出すのだ。チャコとの想い出は、くるみの実のように、苦くて甘い味がする。


 冷たい朝とお豆腐のお味噌汁ご飯


 わたしが幼い頃は、家の戸や窓はみな木枠で出来ていて、風が吹けばガタガタと音がして、すきま風が通った。台風の夜などには部屋の中まで暴風が吹いて来たし、冬の朝はひときわ冷たい空気が部屋に押し寄せたものだ。

 そんな寒い朝には、起き上がるとすぐ、わたしは、廊下でつながった隣の出張所に行った。母が、出張所の薪のストーブに火を入れて、部屋全体を暖めているからだ。

 「おはよう。」
と、 あまり元気が無い感じで、母にあいさつする。寒いし眠いし、ぼんやりしているわたしに、母は、

 「顔を洗っておいで。」
と、言う。

 ストーブで少し暖まってから、わたしは寒い台所に戻って、水道の蛇口を開き、冷たい水で顔を洗う。信じられないほど冷たい。水道の蛇口からは、お湯なんて出ないから、半分凍ってるような水で顔を洗うのだ。そしてすっかり目が覚める。

 また、出張所にいる母のところに戻ると、もう、部屋全体が暖かくなっているのだった。全く火の気のない、だだっ広い出張所に、朝一番に起きて行く母は、どれだけ寒かったことだろう。管理人の仕事をする代わりに家賃がタダだったので、母は頑張っていた。

 「あったかいね。」  

 そう言って、わたしと母は、顔を見合わせてにっこりして、ストーブに手をかざす。薪のストーブは良く燃えていて、特別に暖かい気がした。ストーブの上に置かれたやかんも、もう湯気を出している。それがまた暖かいのだった。

 「お豆腐買ってきてくれる?」

 四才のわたしは、お豆腐当番なのだ。お豆腐屋さんは、出張所の前の道路を右側にまっすぐ行って、大通りに出たすぐのところにあった。ちょうど、わたしが行く床屋さんとは反対側で、同じくらいの遠さだった。

 寒い朝、わたしは、綿入れを着て、毛糸の帽子を被り、マフラーまで巻いて、小さなアルミのボウルを持ってお豆腐屋さんまで出かけた。そうして出来立てのお豆腐を買って来るのだった。

 お豆腐屋のおばさんは、元気のいい人で、朝からとても大きな声が出た。

 「いらっしゃい!」

 「お豆腐一丁下さい。」

 「はいよ!」

 たったこれだけのやりとりを、どれだけ交わしたことだろう。お豆腐屋さんへの支払いは、母があとでまとめてしていたので、わたしはただお豆腐をもらってくるだけだった。

 お豆腐は、落としたらおしまいなので、もらったら走ったりはしない。そろそろと、落とさないように、斜めにならないように、注意深く持ち帰って、台所の母に渡す。

 母はもう煮干しのだしを取っていて、お豆腐とネギとわかめを入れて、味噌を入れると出来上がりだ。冷たい冷たい朝は、出来立てのお味噌汁に、炊きたてのご飯を入れて、おじやにして食べるのがわたしのお決まりだった。おかずはいらない。

 わたしは、同じものを、外で待っているチャコにも作ってあげる。

 「ほら、チャコ、ご飯だよ!」

 チャコは大喜びで、熱いのもおかまいなしに食べる。外は寒いので、お味噌汁ご飯もすぐに冷めるのだった。

 卵焼きや塩さけを焼いている母は、

「犬と同じものを食べてるなんて。」と、あきれているけれど、わたしは十分にしあわせだった。

 冷たい冷たい朝、出来立てのお豆腐の味噌汁ご飯は、からだが温まって、本当においしかった。

 そして、元気になったわたしは、チャコに、バイバイと言って、好きでもない幼稚園に出かけるのだった。帰ってからチャコと遊ぶことだけを楽しみにして。


   お誕生日とケーキ


 わたしの家の前の道路を、まっすぐ右にしばらく行って、大通りに出ると、道路をはさんで、お豆腐屋さんのちょうど向かい側に、小さなケーキ屋さんがあった。

 ケーキ屋さんには、いつ見ても、色とりどりのきれいなケーキがたくさん並んでいた。わたしは幼稚園に通う毎日の道すがら、並んだケーキを見ては憧れていた。

 きれいなケーキたちのなかでも、一番すてきなのは、まんまるのお誕生日ケーキだった。真っ白のまんまるの土台に、生クリームで作られた、ピンクのきれいなバラの花がたくさん乗っていて、そのうえには、銀色のつぶつぶがふりかけてある。それが、光のかげんで、キラキラしているようにも見えるのだった。

「なんてきれい。なんてすてきなの。」

 食べてみたいというよりも、お部屋に飾ってみたいな、とわたしは願ったのだけれど。

 「あのまんまるのケーキって、とってもきれいだよね。」

 あるときわたしは、思いきって母に言ってみた。

 「あれはね、お誕生日のケーキなんだよ。ふだんは食べられないの。お誕生日に、年の数のろうそくを立てて、いっぺんにフーって消せると、一年のあいだ良いことがあるんだって。」

 母は、そう教えてくれた。

 「お誕生日に食べてもいいの?」

おそるおそる聞くわたしに、母は、なんと、

 「お誕生日に、お誕生会を開いて、みんなで食べようか?」と言ってくれたのだ。

 わたしはうれしくておどりあがった。あのまんまるのケーキがうちに来るのだ!

 今から思うと、何にも食べようとしないわたしが、自分から食べたいものを言ったのだから、母はうれしかったのかもしれない。

 それからのわたしは、お誕生日を指折り数えた。夏も過ぎ、秋になり、くるみの実の季節になる頃、わたしのお誕生日は来た。

 お誕生日の日、三時のお茶の時間に、出張所の親しい職員さんたちが、狭い間借りの六畳一間のわたしたち家族の部屋に、集まってくれた。

 みんなに、口々に、「おめでとう!」と言われて、わたしは大喜びだった。お祝いに、大きなチョコレートを持って来てくれた職員さんもいた。

 そうして、ついに、バラの花がいっぱいに飾られた、まんまるのお誕生日ケーキが、箱から出されたのだ!あの、銀色のつぶつぶもちゃんとかけられていた。

 「きれいだねー。」
と、みんな言った。

 ろうそくが立てられた。四本だ。母が火をつけた。ケーキはキラキラして、ますますきれいに見えた。

 「さぁ、吹いて吹いて!」

わたしは大きく息を吸って、フーッと吹いた。でも、わたしは小さすぎるので一度に一本しか消せない。何度も何度もフーッとして、みんなに「頑張れ頑張れ」と言われながら、やっと消しおおせた。

 いっぺんに消せなかったから、良いことは起きないかもしれないけれど、楽しかったし、きれいだったし、わたしは満足だった。

 まんまるの大きいケーキを、母が切り分けて、みんなで分けた。わたしには、真ん中に、ちゃんとバラの花がひとつ、きれいに飾られているものが来た。銀色のつぶつぶもついている。

 「いただきまーす。」

 そう言って、みんなでいっせいに食べ始める。わたしも、ピンクのバラの花をちょっぴりフォークにとって、舐めてみた。

 なんだか、思っていた味とはちがっていた。もっと甘いのかと思っていたのだけれど、あんまり甘くはなくて、油っぽい味がした。

 でも、春からこの日を指折り数えていたのだし、みんな集まってくれているのに、「あんまりおいしくないな。」とは、とうてい言い出せなかった。

 「すごく、おいしい!」と、わたしは無理をして言った。そしてニコニコしながら、分けられたケーキを全部食べたのだ。

 そのうえ、職員さんが持って来てくれたチョコレートまで食べた。お寿司もあったし、煮物もあった。お正月みたいに、母が頑張って作ってくれたのだ。

 出張所のお茶の時間を利用した、わたしのお誕生会は、そうやって、みんなの笑顔のうちに終了した。

 とても楽しかったのだけれど、さて、そのあと、どうなったか。。。

 食べ過ぎたわたしは、その晩から消化不良になって熱を出し、それから三日間、寝込んでしまった。「うんうん」とうなって苦しんだ。特に、ケーキの生クリームを、わたしのからだは、消化することが出来なかったのだ。

 そうして、お誕生日のケーキは、その後、わたしの前に現われることはなかった。ケーキは、わたしの苦手な食べ物になってしまったのだった。

 わたしが幼かった頃のケーキの生クリームは、今のそれとは、材料が違っていたらしい。あの日食べた生クリームは、今の生クリームより、ずっと固かったし、油っぽかったし、甘くなかったし、口のなかで溶けたりなぞしなかったのだ。

 「憧れのケーキは、憧れたままにしておけば良かった」と、わたしは、ずいぶん大きくなるまで、思っていたものだ。

 でも、あの日、お祝いしてくれたみんなの笑顔は決して忘れないし、尊い思い出として、今でもわたしの胸をキュンとさせる。

 まだまだケーキが、庶民からみたら高嶺の花で、非日常だった頃の、大切な思い出なのである。

   
    わたしと病気


 「生まれたときはまるまると太っていてとても元気だったのにねぇ。」

 母は、わたしが、おなかをこわしたり、熱を出したりするたびにそう言ってため息をついた。

 四才になっても、ニ才くらいの背格好でちっとも大きくならず、ビスケットとおにぎりばかり食べているわたしは、すぐに風邪をひくし、おなかをこわすし、幼稚園に通うよりも、病院に通っている日のほうが多いのではないか、と思われるほどだった。

 「お給料日前になると、必ず具合わるくなるよねぇ。」

 母は、困った困ったという顔をしながら、わたしの手を引いて、病院へと連れて行くのだった。

 でも、わたしは平気だった。だって、幼稚園はちっともおもしろくなかったからだ。幼稚園はなぜ行かないといけないのかも、わたしにはわからなかった。

 わたしは、おにぎりだけでおかずがいらないように、チャコさえいてくれたら、お友だちもいらなかった。なにせお友だちはみんな、わたしよりとても大きくて、手も足も長いので、いっしよに遊ぶなんて難し過ぎたのだ。わたしには、チャコの大きさが、一緒に遊ぶのに一番ピッタリだった。

 病気になると、「ご飯を食べなさい。」と言われることもなくなるし、幼稚園も行かなくていいし、わたしはとびきり自由になった。

 「なんでも食べたいものを言ってごらん。」と言われるので、

 「バナナが食べたい。」とか、「フルーツヨーグルトが食べたい。」とか言って、ぜいたくも出来た。お給料日前なのに、なんと迷惑な子どもだったろうか。

 病気になると連れて行かれる病院も、わたしは実は大好きだった。

 一番近い病院は、評判の良い病院で、いつも病気の子どもたちで一杯だったのだけれど、わたしはその病院が大嫌いで、絶対に病院のなかに入らないので、母は根負けして、あまり近所の子どもたちが行かない、遠い病院にわたしを連れて行った。

 近い病院は、木造で、古めかしい建物だった。中は薄暗くて、重い扉を押して入る。すると、たくさんの知らない子どもたちが待っているので、とたんにわたしはいやーな気持ちがするのだった。

 そこの先生も、口のところに、変なとがったヒゲを生やしていて、威張っているように見えるので、なんだか嫌いだったのだ。

 「いやーよ!」

と言って、わたしは絶対に入らなかった。そして大泣きした。

 少し遠い病院は、建物が、真新しい白いビルだった。そのうえ、扉は透明の自動ドアだ。とてもカッコいい。病院の入り口には花壇もあって、四季折々のお花が楽しめた。

 看護師さんたちは若いおねえさんたちで、わたしはたちまち仲良しになった。待合い室が知らない子どもたちで一杯、とかでもなかった。先生も、変なとがったヒゲは生やしていないし、にこやかで、丁寧な話しかたをしてくれたので、好きになれたのだった。

 そんなわけで、病気になっても、わたしには、いやなことはひとつもなかった。注射も平気だったし、おくすりもオブラートでするりと飲み込めた。病気になると、わたしはいつもより自由で、好きなものが食べられて、好きな人たちに会えるのだった。

 だから、幼かった頃のわたしにとって、病気は、「楽しかった思い出」になっている。


    チャコとわたし


 あるとき、出張所の職員さんが、わたしに絵本をプレゼントしてくれた。お誕生日プレゼントだったのかもしれない。わたしが四才くらいの頃のことだ。

 絵本の表紙には、「まりーちゃんとひつじ」と書かれていた。とてもきれいな色とりどりの本だ。

 わたしは絵本が大好きだったので、おれいを言ってすぐに読みはじめた。まりーちゃんと、まりーちゃんとなかよしの、ひつじのぱたぽんのおはなしだった。

 「あれ、これって、わたしとチャコみたいだ!」

 わたしはそう思った。まりーちゃんの一番のなかよしはひつじのぱたぽんだけど、わたしの一番のなかよしはチャコだもの。

 まりーちゃんは外国の女の子みたいだけど、外国にも、わたしのような子っているんだな、と思った。そしたらなんだかうれしかった。

 「わたしとチャコ」は、まるで「まりーちゃんとぱたぽん」のように、許されるかぎりいつも一緒だった。

 一番楽しかったのは、チャコとのおままごとだ。おもちゃ屋さんで買ってもらった、安物のおままごとセットは、わたしの宝物だった。ピンク色の、プラスチックで作られている小さな包丁とまな板を使って、わたしは、摘んで来たお庭の雑草を、野菜に見立ててきざむ。

 あらかじめ敷いてあるゴザの端っこには、チャコがちょこんと座ってわたしを眺めていた。 

 「今おいしいのを作ってるから待っててね、チャコ。」

 砂をご飯に見立てて、ピンク色のご飯茶わんに入れて、きざんだ葉っぱをふりかける。外の水道でお水を汲んだ、ピンク色のお鍋にも、きざんだ葉っぱを入れる。

 「ほら、お味噌汁も出来たよ。」

 チャコはちょこんと待っている。ピンク色のお味噌汁椀にお水の味噌汁をピンク色のお玉で入れる。

 ピンク色のお皿には、雑草のお花を飾る。お花が、きれいな野菜に見えるように。雑草はいろいろあったので、毎日違うお花を使うことが出来た。

 「さぁ。出来たよー。食べよう。食べよう。」

 わたしたちは、出張所の前の、土のお庭にいるのだけれど、「まりーちゃんとひつじ」みたいに、わたしの前には「みどりの原っぱ」が広がっているように思えていた。

 「みどりの原っぱ」では、チャコが、おままごとのご飯を食べるわたしを、じっと見ていた。

「おいしいの?それ。」とでも言ってるように、首をかしげていた。向かい側にチャコが座っていて、わたしを見てくれているだけで、わたしは満足だった。

 わたしとチャコは、ほぼ毎日、おんなじピンクのプラスチックのおままごとセットで、きざんだ葉っぱの砂のご飯の暮らしを続けた。  

 それが、本当のご飯よりも、わたしにはとびきり楽しかったのだ。「みどりの原っぱ」で、「おひさまがいっぱい」のなか、わたしとチャコは、「まりーちゃんとぱたぽん」のように暮らしていた。

 「ねぇ。チャコ。」とわたしはいいました。

「わたしたち、ずっと一緒にいようね。」

「はい。わたしたちはずっといっしよです。」
と、チャコはいいました。

 そうだったら良かったのに、と今でも思う。チャコとわたしは、その数年後にはわかれわかれになってしまったのだった。

 ーーチャコ、ごめんね。ずっといっしよにいようねって言ったのに。

 ーーチャコは今もきっと、どこかでわたしを待っていてくれている。会えたら、頰ずりして、抱きしめて、ちゃんとちゃんとあやまろう。

幼かった頃のわたしは、まだ、わたしのこころのなかにいる。そうして、いつかチャコに謝れる日を待っている。




























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