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「愛し合うこと」と「人生の行方」

#エッセイ

 「愛し合おう」って、よく言うけど、「愛し合う」ってどういうことなんだろうか。。

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 わたしも、それなりに、いくつかの恋愛はした。

 失恋して、眼の前が真っ暗になって、もう生きてなんかいけないってくらい絶望したことも、かつては、あった。

 でも、こんなことで死んだら悔しい、と思って、どうにかして乗り越えた。

 そのうちに、次の恋はやって来た。

  恋愛するたびに、何かを学び、少しずつ、自分の許容範囲が広がり、経験値が上がって、人間も複雑化して行ったようにも思う。

 やがて、「最後の人」だと思った人とめぐり逢い、結婚した。そうして、今も「その人」と暮らしている。

 もう四十六年も暮らしている。

 これまでの人生の大半を、「その人」と暮らしている。。

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 「愛し合う」ということは、どんなことなんだろうか。。

 「愛し合える」のは、出逢った二人が「惹かれ合う」からだ。きっかけは、「惹かれ合う」ところから始まる。

 やがて、二人は、いつでも一緒に居たくなって、一緒に暮らし始める。子どもが生まれたりもする。生まれなかったとしても、やがて、「生活」が、二人を支配しはじめる。

 「生活」は、雑多な仕事の「ルーティン」の寄せ集まりだ。その雑多な仕事を、二人は、分担したり、しなかったりしながらこなし続けなければならない。

 「愛し合って」いたはずの二人は、「生活」のなかで、変貌してゆく。「特別な関係」だったはずなのに、「生活」が二人を支配し、やがて二人の「人間関係」を「ルーティン化」してゆくのだ。

 この、「人間関係のルーティン化」が、「二人の愛」に、様々に作用してゆく。

 現実的な、生活重視派の人たちには、この「人間関係のルーティン化」は、逆に良い効果をもたらすのかもしれない。二人の結束は、現実的に強固なものとなり、生活は「充実」へと向かってゆくのかもしれない。

 片方が生活重視派で、もう片方が夢想派だったとしたら、二人の生活の「理想」はかけ離れてゆくかもしれない。

 反対に、もしも二人とも夢想派だったとしたら、極端な場合、生活は「破綻」してしまうかもしれない。

 二人が、ほどほどに生活重視をして、ほどほどに夢想をして、そのバランスがとれるならば、生活は、ほどほどに充実して、二人はそれぞれに「幸せ」を感じられるはずだ。

 「生活」と「夢想」と「愛し合うこと」とのバランスは、その、「さじ加減」が難しい。

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 一方、人生は、まるで、シミュレーションゲームのように進んでゆく。

 問題は、次々と投げかけられて来る。謎解きもある。トラップもある。

 二人は、「生活」し、「夢想」し、「愛し合い」、さらには、「問題を解決し続けながら」、共に歩んでゆくことになるのだ。

 こんなにも大変な人生を渡って行くために、大切で必要なことってなんだろうか。

 それは、「想像力」と「知恵」と「自己肯定力」なのではないかな、とわたしは、自分の経験から考えている。

 この三種の「アイテム」は、「愛し合うこと」にも、「人生」にも、効果的なように、わたしには思える。たとえ、「お一人様」で「人生」を過ごすとしても、この三種の「アイテム」は有効だと思うのだ。

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 わたしは、「常識的な人」に見える外見とは裏腹に、結構な「突拍子の無さ」を抱えた人間だと、自分では思っている。

 「感性」が少し不思議なので、どうにも「世間様」とはズレているようだ。

 そんなわたしが考えることなので、あまり、共感は得られないかもしれない。

 でも、敢えて語りたい。

 わたしが考える「愛し合うこと」や「人生」について。。

 「生きる」ために、わたしが、絶対的に譲れないもの、それは、「こころの自由」だ。

 「こころの自由」が無くなったら、多分、わたしは、自然に、死んでしまうだろう。

 だから、わたしは、自分が生存し続けるために、半ば本能的に、わたしの「こころの自由」を尊重してくれる、「最後の人」を選んだのだと思っている。

 また、わたしにとっての心地良さは、「孤独を感じること」だったりする。それも、たった独りで存在して「孤独を感じたい」のではなく、贅沢にも、「一緒に居るのに、孤独を感じていたい」のだ。

 普通なら、そんな設定は、「虚しい」に繋がってゆくと思うのだけれど、わたしは違っている。

 「一緒にいるのに、わたしは独り」という、距離感が欲しいのだ。

 ちゃんと見守り合っている二人なのだけれど、「独りでこの世に在ることを感じられて、こころの自由を保てる距離感で居られる」ことが、わたしのこころを「愛」に向かわせる。

 この在り方は、かなり「矛盾」している。でも、この在り方が、わたしが生きていられるための必須条件なのだ。

 自分が愛して止まないものは、今までも、ずうっと、「矛盾しているもの」であった、ということに、わたしは、人生の終盤に来て、ようやくはっきりと気づいて来た。

 このことを、はっきり自覚するためにも、わたしは、「大病」でも死なずに、「生かされて来た」のかもしれないと思うくらいだ。

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  「愛し合うこと」は、わたしにとっては、「一緒に居ても孤独を感じられる距離感」を保てるところに生まれ、そうして続けることが出来る。

 あまり、一般的ではないかもしれないけれど、わたしにとっては、どうにも、譲れないのだから仕方がない。

 では、「人生の行方」にとって、大切な「アイテム」はなんだろうか。。

 それは、「後悔しないこと」だ。

 この在り方も、本当は矛盾している。何故なら、人は、「後悔する」生き物だからだ。

 だから、「後悔しないこと」は、難しい。

 でも、だからこそ、敢えて、「人生の行方」にとっては、「後悔しないこと」への、「意思」や「覚悟」が必要なのだと、わたしは思っている。

 「後悔」は、切なくて甘美だけれど、徒に、「自分」を傷つけてしまう。だから、実は、「自分」に対して、優しくない「アイテム」だと思うのだ。

 こんなにも、複雑で、難しい世界では、「自分」に優しくすることが、絶対的に必須な「アイテム」なのに、「後悔」は、その逆で、「自分」を傷つけてしまう「アイテム」なのだもの。。

 「生き抜く」ために、「自分に優しくする」ために、そして、「独り」を愛するために、「後悔」の「アイテム」は要らない、とわたしは思う。

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 「愛とは、決して後悔しないこと」というキャッチフレーズの「映画」が七十年代にあった。この言葉は大変に流行り、「映画」は大ヒットした。

 当時のわたしは、

「月並なセリフだ。」  

と、ひねくれて受け取っていたけれど、今になると、それは、かなり正しかった、と素直に思う。

 それを、「人生」に置き換えて、

 「人生とは、決して後悔しないこと」だと、今、わたしは思うのだ。

 どんな経験も、必ず、何かをもたらすのだとしたら、「後悔」などしないで、「自分」に、もっと優しくして、「自分の孤独」を愛して、「死ぬまでの時間」を、楽しく過ごそう、と、わたしは思う。

 わたしは、どんなに変だと思われても、「矛盾」が一番の好物だし、いつも「孤独」で在りたいから、それを、頑固に貫いて、「幸せ」を感じて、「死ぬまでの時間」を楽しもうと、こころに誓っている。

 今すぐそばに居る「最後の人」と、これからも、「最後まで」。。

 






































































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