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「本当の自分」の行方

本当の自分ってどこにあるんだろう?

そんなことを、漠然と考えて、久しぶりに足が宙に浮いたまま降りる場所が見定まらないような感覚に陥った。

きっかけは、多分、ふたつ。

ひとつは、ちょうど今日読み終わった、住野よるさんの『よるのばけもの』を読んでいたから。

ふたつ目は、今日先輩たちとランチを食べに行ったこと。
このふたつ目の方が、多分要素としては大きい。

特に自分の活動している界隈にいる目上の人や、年上の人といて、話をしているとき。いや、むしろさよならをした後に、その居心地の悪い感覚、言葉や態度を誤ってしまったような「やっちゃった」感を感じて自己反省会を開いてしまう。
そこにある感情は、恥や羞恥心。悔しさや、さみしさもあるかもしれない。


見透かされている気がするのだ。

どれだけ取り繕っても。
合わせて会話をしても。
自分らしくあろうとしても。

ナニカになろうとしている自分。
ナニカであることを信じてもらおうとしている自分。
ナニカであることを、言葉の端端で主張して、認めてもらおうとしている自分、すごいねと言われたがっている自分、褒めて欲しい自分、受け入れてもらいたい自分。
そういう、自分を、見透かされている気がして。

そして、「ああ、君はまだその程度のところにいるんだね(笑)」と思われているんじゃないか、と気づく瞬間がある。気づくというか、感じとる。それが本当にそうなのかどうかは実際のところは、わからない。でも、そこにすごくすごく敏感な自分がいる。

特に男性が相手だと、それが顕著だ。
男性的な、リーダーシップを発揮するような女性の前でも、それは出てくる。

わたしは幼少期から「生きるとはなんなのか」「人はなぜ生きているのか」「この宇宙はなんで存在するんだろうか」と問い続けてきた。

でも、それは自分自身で答えを見つけていきたいだけなのに、別に道に迷っているわけではないのに、(いや正確には迷っていると思い込んでいたんだけれども)周囲の年上の人や権威者たちは、わたしに「そうか、お前は答えがわからないんだな。じゃあ、答えを教えてやろう」とばかりに上から色んなことを “教えて” きていた。

その裏に見え隠れする「お前は迷っているから下で、わたしはわかっているから上だ。わたしがお前を導いてやろう」みたいな雰囲気がすごく嫌いだった。

過去の記事でも、そんなことを書いていた。


見透かされていると感じる、その感覚を恐れる理由は、実はちゃんとわかっている。それが、ひとつ目のきっかけ『よるのばけもの』のテーマでもある。

いじめ。

わたしは小学校から中学生が終わるまでの9年間、いじめられていた。
外見が人よりも目立つ。毛色が違う。なにをしていても、していなくても、飛び出てしまう。出る杭は打たれるんだから、もっと周りに合わせなさいと先生に言われたこともあったけれど。なにをどうしたって、生まれ落ちた瞬間から絶対的に違うものをもっているのに、それを一体どうしろって言うんだよ。

「さっさと自分の国に帰れよ」、と何度も言われた。
帰る国は、ここしかない。
どこに帰れって言うんだよ。

「日本語上手だね。どこの人なの?」と、いまだにレストランやショップの店員さんや、ふとした瞬間にすれ違った人に尋ねられる。

「生粋の日本人です」と笑顔で答える。手慣れたものだ。スラスラと出てくる。でも、なんで、この国の人間なのに、他に所属できる国もないのに、わたしは何度も何度でも、「この国の人間である」ということを日常的に証明し続けなければいけないんだろう。

それは、慣れてしまえば「いつもの日常」としてやり過ごせる程度のもの。パターン化された、公式を丸覚えしたみたいな適切かつシンプルな説明文を、思考を挟まずに返せばいいだけのこと。

でも。
それを繰り返し続けることに、疲れたと思うときはある。


「見透かされている」と思うのは、そのことに薄々気づいている自分がいるからだ。

「あなたと同じところに所属していますよ」と認めてもらおうとしている自分、すごいねと言われたがっている自分、褒めて欲しい自分、受け入れてもらいたい自分。
だから、わたしは無意識に、そういう場で、「その場に所属しているわたし」になろうとする。
「その場に所属しているわたし」であることを信じてもらおうとしている自分。
「その場に所属しているわたし」であることを、言葉の端端で主張する。
「その場に所属しているわたし」という仮面を被流。

そのすべてを、見透かされていると感じる。
そして、怖くなる。

本当のわたしは、一体どこにいるんだろうって。
いつまで、わたしは人や場所ごとに、自分を変えて。
それでも、本当のわたしをわかって欲しいと思っていて。
その葛藤の狭間で揺れ動くんだろうって。
そして、なによりも怖いのは、「本当のわたし」って誰なんだろう?ってことと、その「本当のわたし」を認めてもらえなかったら、受け入れてもらえなかったら、どうなるんだろう?ということだ。

言葉として書いてみたら、別にどうにもならないのはわかる。
理性では、わかる。

もう、『よるのばけもの』みたいな中学校とか、会社とか、そういう閉鎖的空間に属しているわけではない。縁を切ろうと思えば、いつでも切れる。その程度の距離感を、保っている。そして、すべての人から受け入れられることも、好かれることも、必要ではないし、不可能なことも、理性はちゃんと理解している。

それでも、同じ界隈の目上の人になると、「認めてもらわなくては」が発動する。自分の権威をひけらかそうとするよりも、かわいがってもらえるポジションに入らなければ的なセンサーが作動する。

でも。
いつまでそれを続けるんだ?と思う。
それがこの先ずっと継続されるのなら、それはしんどいことだな、と思う。

これも、ひといちばい敏感で繊細だからこそなのだろうか?
同じように悩んでいる人は、意外と多いのかもしれない。


『よるのばけもの』の最後の数ページを、駅のホームのベンチに座って、読んでいた。読み終わるまで、駅の改札を抜けて家に向かう気にはなれなかった。なんだか無性に泣き出しそうで、泣きそうで。

(以下、住野よるさんの『よるのばけもの』から引用。ネタバレになりそうな箇所は、あえて伏字にします。)

俺は何も決められなかった。
一晩かけても。どちらか一方を選ぶことなんて出来なかった。
でも、××の目に二つの自分が映っていることを知って、気がついた。
夜の、××を無視できない僕も。
昼の、皆から嫌われたくない俺も。
どっちも、俺で、僕だ。
どっちもいい奴なんかじゃない。

けど、違う。今までの俺と同じなんだ。
夜、ちょっと悩んでしまうようなことがあった。朝、××と会って話して少し元気になった。そういう毎日を生きてた今までと一緒だ。
皆がずれていないと思っていてくれた俺と同じだ。

必要のない想像力の中に、自分がいるかもしれない。
相手の痛みの中に自分がいるかもしれない。
決めつけた自分を自分だと勘違いしているだけなのかもしれない。
皆が、それぞれ違う方向にずれているだけなのかもしれない。
決まった立ち位置なんてどこにもないのかもしれない。

少し前に、「自分らしさ」ってなんだろうって考えて、記事を書いた。
自分らしさっていうのは、色んな人化をし続けた先に、残ったものなんじゃないかって。

でも、と今日のわたしは思う。
今日は、そんな風には、ごめんだけど、思えないよ。

誰といるときの自分が本当の自分なんだろう。
何をしているときの自分が本当の自分なんだろう。
どの立ち位置から世界を見て、考えて、言葉を放っている自分が本当の自分なんだろう。

わからない。

もしかしたら、「本当の自分」ってもの自体が、空想の産物なのかもしれない。よく、わからない。


でも、とりあえず。
過去のトラウマが今に響いているのは、なんかもう卒業してもいいよなって思った。同卒業すればいいのか、よくわからないけれど。
また、こうやって書き続けることで、自分の中で整理されて卒業できんのかな。

そうであればいいな、と思う。

別に、誰かに認めてもらう必要もなくて。
別に、特定の誰かに自分のすべてを正しく理解してもらう必要もなくて。
というか、多分、そんなことはほぼ不可能に近くて。
すべての人に受け入れてもらおうとする必要もなくて。
そしてなによりも、そこまで必死こいて自分を認めてもらおうと、背伸びして主張する必要もきっとなくて。

染まらないまま、等身大の自分で。
揺らぎ続けるままの自分こそが自分なのだと、誇りをもって、自信をもって、行動し、話し、生きていくには、どうしたらいいんだろうか。

世間が追いつけばいいだけの話なんだろうか。
もしかしたら、そんなことなのかもしれない。
やっぱり、よくわからないや。


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