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「深く考える」は当たり前じゃないという気づき

最近、HSPという言葉をそもそも提唱したエレイン・アーロン博士の原著の和訳を読みはじめた。驚いたのは、HSPという言葉がこれだけ流行っているにも関わらず、彼女自身の原著が和訳されたのはごく最近のことだということ。

世間のHSPに対して感じる違和感のようなものについては、もう少し余力があるときにでも書いてみたいと思うんだけれど。最近では、誰でも彼でも「わたし繊細さんなんです」って言うようになったなーって感じていて。そして、そういう人の多くに対して(もちろん全員じゃない)「本当にHSPなんですか?」って思っちゃうことがここ数年あった。

なんていうのかな。
HSPもHSCも、そんな簡単に「わたし繊細さんなんですー♡」って言えちゃうようなものじゃない。なんかね。共感力とか、察する能力とか、刺激に弱いとか、それだけじゃないんだよ。なんかもっと、深いところで、こう、言葉にうまくできないんだけれど、なんかあるんだよって。そこを「わたしも繊細さんなんだ♡」って言う人と、深くわかり合えることってなかなかなかった。

とにもかくにも、そんなモヤモヤを無意識で漠然と抱えていたんだけれど、アーロン博士の「ひといちばん敏感なあなたが人を愛するとき」という本を書店で偶然見つけて、勝手に手がその本に伸びていた。

購入して、自宅に帰って読みはじめてから、それがHSP提唱者であるアーロン博士本人の著書を和訳したものだと知った(そしてアーロン博士、女性だったのね!男性だと思ってた!)

読んでみたら、もうなんというか、分かりみが深すぎて。世間一般のHSP本を読んでもモヤモヤしたものが拭いされなかったのが、彼女の本を読んでストンと腑に落ちた。そうか。やっぱり、わたしはHSPなのか、と。そして、自分の考え方や性格や性質が、HSPであることにこんなにも影響されているのかと改めて気づくアハ!体験の連続だった。

そのまま今度は彼女の「ひといちばん敏感な人のワークブック」を購入して、少しずつ着手しはじめたというのが昨日の話だ。


noteを書いてから、寝る前にもう一度、別の題材についてワークをやった。すると、自分の中で昨日noteを書いた時点ではうまく繋がらなかった点が繋がった感覚があった。


まず第一に、自分の深く考え、深く物事を(ハートの一番深い部分で)うけとり、そして深く感じるのは、HSPのDOESの性質が色濃く出ているからなのだということを改めて認識した。


第二に、わたしは「空気を読むのが当たり前」「察することができて当然」の文化圏で育ってきたので、どこかで(特に対面で話をするとき)、相手の表情の機微や微妙なその人のまわりの空気の変化や質感、重さなんかを汲み取りつつ、言葉を選んで返すことや、対面じゃないときでも行間やその文章がまとうエネルギー(としか言いようがない)を感じとり、その上で相手のエネルギーに合わせて言葉を放つことは、「察する文化」代表とも言える日本人に共通のものなのだと思っていた。

(この「察することができて当然」文化については、過去のこの記事の中ですこし話している。


でも、そもそも、そこまでのレベルで察したり、エネルギーとか目に見えないものまで感じとるのは、HSPだからであって、それはいわゆる "普通" ではないということを改めて認識した。アーロン博士曰く、HSPは約20%の割合で存在する。でも、それは残り80%の人はその技術(と言えばいいのかな?)をもっていないということ。

日本人だからといって、ほぼ大多数の人が、そこまで深く深く、目に見えないもの、言葉にされていないものを汲み取って、同じようにその目に見えないもの、言葉にされていないものを含めて言葉を放ってはいないということ。これが、わたしにとってはとても大きな気づきだった。(HSPのわたしは、むしろ目に見えない、言葉にされないものが8割くらいで相手を理解・認識・共感している節がある)。

つまり、単純に言ってしまえば、自分にとっての "普通" を知らない間に人に対して押し付けていたのだ。そりゃあ、うまくいかないわ。踏み躙られたり、なんの気ない言葉に傷ついたり、勝手に相手の先入観で解釈されたりするわ、と。


第三に、幼少期の愛着問題によって、またHSPの「深淵に物事を考える」性質から、「自分はまだ完璧ではない」「自分はまだ知らないことがたくさんある」という劣等感をもってしまっていたということ。その劣等感を抱えたまま、なにかを教えている先生的な立場の人に対して、その人も人間なのでシャドーをもっているということに気づかず、相手を理想化して、自分らしさを失ったり、相手に合わせすぎたり、相手のいうことを受け入れようとしすぎたりして、自分を傷つけるというパターンがあったのだということ。

↑これはアーロン博士曰く、愛着問題を抱えるHSPに特有の反応らしい。そして、理想化しすぎた相手が自分と同じようにシャドーをもっている人間なのだと気づいたとき、幻滅したり、ショックを受けたり、裏切られたような気持ちになりやすいとも書かれていた。

(ちなみにアーロン博士はユング系の心理学者だそうなので、シャドーなどユング心理学的な言葉や表現がたくさん出てきます)


この三つに気づけたのは、自分の中で本当に大きな発見だった。
うわ。そうだわって。
結婚生活でも、仕事でも。
この理想化して、幻滅するっていうパターンばかりだったわって。

こちらが劣等感を抱き、「わたしは不完全なのであなたに導いてほしいのです」的なオーラをまとっていたので、相手も無意識に「わたしがあなたを導いてやろう。さあ、わたしの言うとおりにやりなさい」というコントロールが生まれる。さらにわたしのその劣等感のオーラに相手のシャドーが投影され(相手は無自覚。過去のわたしは、これに気づいていなかった)、相手のわたしに対する自分のシャドーが投影された先入観や勝手な「わたし像」を作り上げてしまうという構図ができていたんだな、と。

で、その「わたし像」と「本当のわたし」があまりに乖離しているので、話が噛み合わず、わたしは「いや、あなたはわたしの人生の、わたしの人となりの一体なにを知ってるんだよ」と反発心やプライベートを蹂躙された気持ちになり、相手への理想化の仮面が剥がれ落ち、相手も自分となんら変わらない人間なのだと悟って、急激に冷めて(萎えてって表現の方が適切かも)、尊敬から嫌悪感へとゲージが急激に振れてしまっていたんだなあって。

(もう、ここら辺、なに言ってるか伝わる人いるんだろうか?😂)


ということで、第四の気づき。
完璧な人(既にできあがった人、悟りをひらいたような人)は、存在しない。誰しもが自分の中にシャドーを抱えている(光があれば、影もあるから)。

だから、自分自身にもシャドーがあって当たり前だし、完璧なできあがった存在でなかったとしても、それを引け目に感じる必要は一切ないのだということ。


なんか。一日たって、そんなことを考えました。
自分の中の気づきの備忘録として。

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