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3歳の時 ホームスクールをする前 1年半・世界半周の旅 ヨルダン・イスラエルの話

※画像は3歳の時、イスラエルのエルサレムにて

◆ 神奈川県で、妻と息子(2011年生まれ、現在11歳、小学6年生の学年)と3人でホームスクールしています。旅と音楽と哲学を中心に、ホームスクーリングしています ◆

まだホームスクールを始める前、2歳になった息子と妻と、バックパッカースタイルで世界半周の旅に出かけました。これは3歳の時にヨルダン・イスラエルを旅した話。この時はまだホームスクールという言葉は知りません。

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イスラエルがパレスチナ自治区ガザを前回空爆した2014年、その2ヶ月前に私達親子はイスラエルを旅していました。

空爆が終わると和平交渉が行われ、しばしの休戦が訪れます。そして忘れたころにまた空爆と休戦。これが何年も繰り返された日常です。

ただ、私たちが旅した時は休戦中でしたし、首都エルサレムに限って言えば爆弾テロは想像よりも少なく、最近では4年前と11年前に1度、これは日本で殺人事件に巻き込まれる確率よりはるかに少ない危険度なのです。

さらに言えば、イスラエル国内全土で爆弾テロや空爆で死亡する確率は、日本国内で交通事故で死亡する確率よりはるかに少ないのです。

2014年の空爆は1,460人、2008年の時は1,300人ものパレスチナ人が死亡しましたが、日本では2008年から2014年までに交通事故で約30,000人、自殺者は約210,000人が死亡してます。日本に普通に住んでいる方がよっぽど死にやすいのです(もちろんイスラエルでも交通事故死も自殺者もいます。双方とも日本の3分の1の発生率)。

ところが日本では交通事故のニュースよりも空爆1回のニュースを取り上げます。イスラエルは危険だと。しかし海外ではエルサレムの治安は先進国の中でもいい方だとも言われているのです。いろんな状況を調べ安全だと確認した上で、この目で直接イスラエルを見てきました。

ヨルダンのアンマンから車でイスラエル国境、キングフセイン橋まで向かいました。国境は厳重でイスラエル入国はもちろんエルサレムに入ること自体、あらゆる方面の警備が厳重にされて治安が保たれています。

国境やエルサレム市内での、私のユダヤ人への印象はあまり良くはありませんでした。ユダヤ人は律法に従順でお金に関してもシビアです。なにもかも融通がきかないという印象です。この頑なさが世界中に散らばって暮らしているユダヤ人が、その国であまり好意を持たれない理由でしょう。自国の文化を守って他国で暮らすという意味では華人・華僑よりも頑なだと思うのです。

これでは2500年、イスラム教徒らとの戦争が絶えないわけです。ただ、ユダヤ人だけが唯我独尊なのではなく、日本人からみれば全ての宗教がそうも見えます。

ユダヤ、キリスト、イスラム、この3つの宗教は元は同じ宗教で、枝別れして3つの宗教になりました。唯一神である「神」も、同じ神であり、ただ呼び方がそれぞれ違います。ヤハウェイ、ゴッド、アッラー。これらは「セム系一神教」と呼ばれ、一神教というのは世界の主流のように思われていますが、現実の世界では多神教のほうが圧倒的に数は多いのです。

国境からバスに乗ってエルサレムに向かいました。ヨルダンと同じくここも荒野で決して肥沃な大地ではありません。死海周辺は塩分を多量に含み農業に適さないのです。少しずつ緑が増えてきた場所にエルサレムはありました。だからエルサレムの緑の恵は、この地に住む人々を魅了したのだと思うのです。

エルサレムと周りの荒野を見て、この地に一神教が産まれた理由もわかる気がしました。地図を俯瞰して眺めても、ここはアジアとヨーロッパとアフリカのまさに交差点。何千年も前から周りには大国がひしめきあい、戦争に巻き込まれてきました。だから一神教という、他の宗教に比して異常なまでに求心力を求める宗教が、この地に住む人々には必要だったに違いないと思うのです。メシアを望んだに違いないと思うのです。選民思想というのも、はっきり言えば、自分達をそう思わなければやっていけないほどの、劣悪な状況だったということでしょう。

ユダヤ人は金に汚いと言われるのも、常に離散しつづけた民族が、逃げる際に食料や家財道具などの財産を持っていけるわけもなく、貴金属から紙幣そして金融資産へと、非物質性へと求め続けたのももっともだと思うのです。

エルサレムではオリーブ山にあるイブラヒム・ピース・ハウスという家に泊まりました。ここはパレスチナ人でイブラヒムという名の老人が切り盛りしていて、自宅を旅人に開放していました。彼はパレスチナ人としてかなり有名らしく、日本の首相やアメリカ大統領など世界各国の要人と一緒に写っている写真が家に貼られていました。彼は穏健派でパレスチナを思う心と平和を求め、それに惹かれた旅人たちが、国籍問わず世界中からこの家に集まってきていました。

20代の日本人も多く、みな個性的で社交的で有能、ここだけでなく、私が海外で出会った若者のほとんどがみなあまりに有能なので、凄い世代だと感心するばかりなのですが、日本にいる私の社会人の友人達には、「ゆとり世代でしょ?全然駄目だよ」という答えばかりが返ってきて、私とは全く逆の意見になってしまうのです。

海外だけでなく、私が音楽活動をしてるときも、年下の音楽家たちは有能な若者ばかりで、私の人生の線上に現れてくる若者達は常に素晴らしく、私はつまらない若者とはうまく出会わない様に生きてるかのようで、そういった私の生き方は私にとっても有意義なのです。

ここで出会った若者たちはいつも息子をかわいがってくれて、息子もよく懐いてました。

エルサレム旧市街に散策に行きました。ここは3つの宗教にとっての聖地です。私は葬式のみの形式仏教徒でほぼ無宗教者なのですが、そんな人間が世界でも類を見ない聖地の中の聖地に来てるわけです。

息子はこの行為をすぐに忘れてしまうでしょうが、息子はまだ「言語」よりも「現象」で物事を捉えるので、この来訪は何かしらの影響を与えると思うのです。聖地の意味はわからなくとも、そこに意味を求めて集まる世界中の信仰者を目にしてるのだから。聖地嫌いの私も、「人間とは何か」、を考える意味で、聖地に来る意味はあるのです。

イスラエルからヨルダンに戻る際、国境でヨルダン人が射殺されました。国境警備は物々しく銃声が聞こえます。戻ったアンマン市内では、反イスラエルのデモが起きていました。私はアンマンの宿でヨルダン人に聞きました。

「私達がイスラエルに行ったことは、不愉快に思いますか?」

彼はこう答えました。

「イスラエルの地はパレスチナの地だから、君らはパレスチナに行ったのだ。不愉快だとは全く思ってないよ。」

イスラエルという国名は、ユダヤ人にとって「約束の地」という意味です。2000年の流浪の果てに辿り着いた約束の地。しかし中近東に住むイスラム教徒にとって、イスラエルの地はユダヤ人のものではなく、パレスチナという名の地であって、イスラム教徒の地なのです。

パックス・アメリカーナ(アメリカ覇権主義)は弱まり、かつてのモンロー主義のようにアメリカは他国へ干渉しない国へと変わりつつあります。この流れが今後どうなっていくのかは、イスラエルという国家にとって最重要の問題でしょう。

ヨルダンのアンマンに戻り、正直、私はホっとしました。エルサレムでの緊張感もあるが、やはりイスラム教の国にいることの安心感が強いのです。イスラム教の国々は概して治安が良く、ムスリムはとても親切です。

この長旅で、子連れで旅をしていて1番旅をしやすかったのはイスラム教の国々、マレーシア、ヨルダン、モロッコ、アルバニア※、マケドニア※、トルコ、UAE、でした。(※イスラム教の国教の国ではないが、イスラム教徒が多い)

その全ての国で、子連れの旅は歓迎され、素敵な経験になりました。

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◆ 中学入学まで残り半年。親が表に出て友達を探すのは残り最後の半年のつもりで、noteで書くことによって息子のホームスクール友達を探しています。これから書くいくつかの記事を読んで、息子と遊んでみようと思った方は、是非ご連絡ください ◆

episteme-homeschool@yahoo.co.jp