敦

言葉の檻のなかで吼えている獣 中島敦の詩的遍歴 #3「木乃伊」

亡霊が見ている

「怠惰でも無為でも構わない。本当にお前が何の悔も無くあるならば。人工の・欧羅巴の・近代の・亡霊から完全に解放されているならばだ。所が、実際は、何時何処にいたってお前はお前なのだ。(中略)お前は今、輝く海と空とを眺めていると思っている。或いは島民と同じ目で眺めていると自惚れているのかも知れぬ。とんでもない。お前は実は、海も空も見ておりはせぬのだ。ただ空間の彼方に目を向けながら心の中でElle est retrouvée! ―Quoi?―L’Eternité.C’est la mer mêlée au soleil.(見付かったぞ! 何が? 永遠が。陽と溶け合った海原が)と呪文のように繰り返しているだけなのだ。お前は島民をも見ておりはせぬ。ゴーガンの複製を見ておるだけだ。ミクロネシアを見ておるのでもない。ロティとメルヴィルの画いたポリネシアの色褪せた再現を見ておるに過ぎぬのだ。そんな蒼ざめた殻をくっつけている目で、何が永遠だ。哀れな奴め!」(「真昼」)

みなさんは旅行に行く際に、事前に下調べをするでしょうか。
せっかく行くのだから、観光名所と呼ばれるものはすべて見ておきたい。そんな思いから、事前にどんなところか調べて行く人が多いのではないでしょうか。近頃はSNS上にいろんな写真があがっていますから、ああこんなところかあ、なんて感心してから行って、ああ、やっぱりこんなところかあなんて言って帰ってくるなんてことは多いでしょう。まあ、つまりは確認作業ですね。そして、InstagramやTwitterにどんな画を載せようかなんて考えながらスマホで写真を撮って……なんてこともするでしょうが、これ、本当に目の前の風景を見ているんですか? っていう話。「SNSという亡霊」に憑かれた目で、僕たちは風景を見ているのではないですか? 風景のさきにあるスマホの画面を見ているのではないですか? というのが、中島敦の話していることなのです。

と、かなり強引に「いま」の話にしましたが、まったく違う話ではないでしょう。いわば、「詩人」は目の前の風景を見ているようで、実は見ていない。見ているのは、おのれのなかにある観念のようなものを見つめている。「……いけない! 又しても亡霊だ。文学、それも欧羅巴文学とやらいうものの蒼ざめた幽霊だ」(「真昼」)。当時の「ヨーロッパ文学」というのは、それだけ革命的で、詩人や作家のなかに深く根付いてしまったものなのでしょうね。どんな風景を見ても、「文学の幽霊」のフィルターを通してしか見ることができなくなってしまう。

それを、「いま」の話にするならば、スマホの登場が感覚としては近いのではないか、ということです。何をするでも、スマホの幽霊を通してものを見ている。いつも、TwitterやInstagramに何をあげようか無意識に考えている。そんな感覚。

なんでこんな話をしているのかというと、「詩人」というものの話をしているからです。前回は「憑き物」の話をしましたが、中島敦の関心ごとは、やはりこういう「文学の幽霊」に取り憑かれるようなところにあるのだなあと思うわけです。ああ、わかる、わかる、と物を書いている人ならばうなずいてしまうのではないでしょうか。

そして、そこに、中島敦の罠のようなものもあるような気がするのです。その「わかる」が危ない。というか、「わかる」ってどういうことなんだ。というのが、今回のテーマです。「わかる」。

木乃伊(ミイラ)を読む

今回は「木乃伊(みいら)」という作品を読みます。「古譚」の二作目にあたるものです。今回もまた紀元前550年頃のエジプトに旅立ちましょう。

大キュロスとカッサンダネとの息子、波斯(ペルシヤ)王カンビュセスが埃及(エジプト)に侵入した時のこと、その麾下(きか)の部将にパリスカスなる者があった。父祖は、ずっと東方のバクトリヤ辺から来たものらしく、何時迄たっても都の風になじまぬ頗る陰鬱な田舍者である。何処か夢想的な所があり、その為、相当な位置にいたにも拘わらず、何時も人々の嘲笑を買っていた。(「木乃伊」)

「木乃伊」の主人公はこのパリスカスというペルシャ軍の将です。そして、このペルシャ軍がエジプトに攻め入ったときの話が語られていくことになります。

パリスカスという男は、一度もエジプトには来たこともないし、特別詳しいというわけではありません。にもかかわらず、エジプト軍の捕虜が話しているのを聴いて、「何だか彼等の言葉の意味が分るような気がする」と言うのです。

さらに、オベリスクに書かれた象形文字を低い声で読みだし、同僚たちに碑を建てた王の名と功業を説明しはじめました。同僚の将たちは驚きます。「誰も(パリスカス自身も)、今迄パリスカスが埃及の歴史に通じているとも、埃及文字が読めるとも、聞いたことがなかった」からです。

一言で言えば、この「木乃伊」という話はこれにつきます。要は、「知らないはずの言葉がわかる」。その言葉がわかると、どうなるのか、というところを追いかけていきましょう。

みなさんもカンビュセス王と言えば暴君でご存知だと思いますが、カンビュセスはアマシス王の墓を暴き、屍に凌辱を加えたらしいです。その墓の捜索隊に、パリスカスも入っていたのです。

パリスカスは墓のなかで仲間とはぐれて一人で歩いていました。すると、一体のミイラにつまずきます。彼はそれを抱き起して立てかけて見つめていると、それまで、なんで知らない言葉がわかるのかとか、いろいろと気になることがあったわけですが、だんだんとこう思うようになったのです。「俺は、もと、此の木乃伊だったんだよ。たしかに。」。なるほど、それならば説明がつく、というものです。

今や、闇を劈(ひきさ)く電光の一閃の中に、遠い過去の世の記憶が、一どきに蘇って来た。彼の魂が曾て、此の木乃伊に宿っていた時の様々な記憶が。砂地の灼けつくような陽の直射や、木蔭の微風のそよぎや、氾濫のあとの泥のにほひや、繁華な大通を行交う白衣の人々の姿や、沐浴のあとの香油の匂や、薄暗い神殿の奧に跪いた時の冷やかな石の感触や、そうした生々しい感覚の記憶の群が忘却の淵から一時に蘇って、殺到して来た。(「木乃伊」)

不思議なことに、名前は、何一つ、人の名も所の名も物の名も、全然憶出せない。名の無い形と色と匂と動作とが、距離や時間の観念の奇妙に倒錯した異常な静けさの中で、彼の前に忽ち現れ、忽ち消えて行く。(「木乃伊」)

この木乃伊は自分なのだ、と思った瞬間に過去の記憶が蘇る。そして、その過去の記憶は、どれもイメージであるところに見るべきところがあるような気がします。それぞれの「名前」はまったく思い出せないが、形と色と匂いと動作のようなものが現れては消えていく。なんだか「名辞以前」のような世界ですが、そこで彼は見いだすわけです。前世の己の姿を。前世の自分が、ミイラと向き合い、前々世の自分を見ている。そして、前々世の自分はさらに「前前々世」の姿を(Rad Wimpsの「前前々世」の典拠はこれですかね)見ている。そんな合わせ鏡のような世界のなかでパリスカスはミイラから目を離すことができなくなってしまう。

翌日、他の部隊の波斯兵がパリスカスを発見した時、彼は固く木乃伊を抱いたまま、古墳の地下室に倒れていた。介抱されて漸く息をふき返しはしたが、最早、明らかな狂気の徴侯を見せて、あらぬ譫(うわ)言をしゃべり出した。その言葉も、波斯語ではなくて、みんな埃及語だったということである。(「木乃伊」)

ああ、まただ。「狐憑」のシャクも譫言をしゃべりだしたんですよね。シャクは最後喰われてしまいましたが、このパリスカスは発狂してしまいました。そして、発狂後、どうなったかというと知らないはずのエジプト語を話し出したということです。さきほど、この話の要点は「知らないはずの言葉がわかる」ことだと言いましたが、これはどういうことかというと、「狂気」なのです。

「わかる」ことの狂気

ここまでで、何の話をしたいのかはだいたいわかっていると思いますが、あえて申し上げますと、パリスカスがもともと話していたペルシャ語はいわば「日常の言葉」で、知らないはずの「エジプト語」は「詩」だということです。詩の言葉を聞いて、なんだかわかるような気がする。でも、なんだかよくはわからない。もやもやする。そこで、(死せる詩人)ミイラを見つめていると、もともと自分はこれだったのではないかと思うようになってくる。すると、過去の記憶、という「名辞以前」の世界がそこには広がっている。つまり、一旦、言語を捨て去った世界に飛び込んだわけです。ある意味では「言葉」を失った世界にいるので、何物も「定礎」できないわけですから、そこにあるもののすべてが何なのかわからなくなってくる。二重三重に自分も含めて何なのかわからなくなる。それが、前世の自分、前々世の自分、前前々世の自分と、無限に遡っていき、ついには発狂する。そうして、譫言のように語られていくのが詩(エジプト語)なのだ。

つまるところ、「詩」が「わかる(読める)」ということは、詩を「しゃべる(書く)」ということは、「狂気」以外のなにものでもないということですね。中島敦という人は、詩的言語のこうした側面に気づいた人なんですね。おそらく、「読む」「書く」ということの危うさにいち早く気が付いた人が中島敦なんじゃないでしょうかね。僕はこの話を読んでいるとどうしてもこのことを思い出さずにはいられない。

だからカフカの小説を読むということは、半ばカフカの夢を自分の夢として見てしまうということです。ならば、そこで「自然な自己防御」が働いて当然でしょう。それは本質的な難解さ、退屈さであって、決して難解ぶっているわけでも翻訳が悪いわけでも面白がれない自分が劣っているのでもないのです。わかってしまったら狂ってしまう。それを正当にもどこかで感じとっているからこそ、読めないように、わからないように、こちらの無意識で検閲しているんですね。だからこそ、それが「読書の醍醐味」なのだということになる。やはりニーチェを引用しましょうか。曰く、「自分や自分の作品を退屈だと感じさせる勇気を持たないものは、藝術家であれ、学者であれ、ともかく一流の人物ではない」。さあ、もうここまでわれわれは来たのですから、この一言は素直に飲み込めますね。わかってしまったら狂ってしまうかもしれないくらいのものではないと、一流とは呼べない。防衛機制を起動させ、ゆえに奇妙な退屈さや難解さを、「嫌な感じ」を感じさせないものは本とは呼べない。(佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』河出書房新社 2010年10月)

突き刺さるような言葉ですね。途中で引用をやめてもよかったのですが、自分への戒めとしても長く引用しました。ともあれ、ここからわかることは、「読めない」でいる、「わからない」でいるというのは「自己防御」でもあるということです。パリスカスの「何か思出そうとしながら、どうしても思出せないらしく、いらいらしている様子がはっきり見える」という状態は、まさに「自己防御」が発生している状態なわけです。それは、わかってしまったら狂ってしまうから。

これは私の言葉だ

しかし、パリスカスはミイラを見て、「これは自分だ」と言ってしまう。僕たちは、作品を読むとき、なんだかこれは自分に向けられて書かれたものだと思う瞬間がある。どんどんと読みすすみ、鼓動が高鳴る。ああ、そうだ、そうなんだ、これを、おれは、言いたかった、いや、ちがう、むしろ、これは、おれだ、おれの言葉だ! そういう瞬間がやってくる。そのとき、作品は、誰が書いたものなのかは関係なくなる。それは、自分の言葉だからだ。

前回の記事を書いているときにも言いましたが、この中島敦の作品についてこうして語っていて、僕は中島敦の作品を語っているというより、僕自身の言葉について話しているような気がしています。敦の言葉を引用しているはずが、佐々木中の言葉を引用しているはずが、なんだかこれは僕の言葉のような気がしてくるわけです。そういう、他者を前にして、無限に自分自身を見いだしていく、それが「前前々世」の自分を見ていくような、狂っていく過程なのでしょう。

そうして、狂った末に紡ぎ出される言葉。それもまた「狂気」以外のなにものでもない。が、「狂気」と言ってみたところで、それはどういうことなのか、何も言っていないのと同じことだ。こういうことなのかな。

 石川九楊は、「書く」というのは「掻く」、「引っ掻く」と同じだというけど、書くときに触れるじゃないですか。書くと痕跡ができてくる。
 で、こうなってくると音楽にもなって。終始一貫それだからある意味では「狂気」かもしれない。そういう「狂気」から何とかして命を延ばそうとする、……いまね、「狂気」といったでしょう、僕もね、もっと先まで繊細に、先の先まで考えたり思考しなければいけないことを、つい「狂気」って逃げちゃうのね。だって、その方が通りが良いしさ、それですんでしまうのね。でも、でも、詩作や映像作品、音声化、協働制作等々を通して、もう、「狂気」というだけではすまされなくなったのね。殊に二〇一一年以降、……そんな言い方では、もうだめだと思うようになりました。とくに、たとえばゴッホね。小林秀雄さんの「ゴッホ」でさえも、最後は「狂気」にしてしまうのね。でもそれはちがうんだ、……。時折は、あの〝渦巻き〟や〝稲妻〟や〝ひまわり〟もあるのだけれども、一心の真剣な愛はゴッホの中心に坐っているものなのね。それで火のようになっている。大災厄以来、僕は小林さんの『ゴッホの手紙』ばかり読んでいました、……。アントナン・アルトーへの共感もあるけど、ここまで来て、もう「狂気」です、……ですませようとする心はほぼ完全に放棄したのでしょうね。「怪物君」はそのあらわれでした。それが書くというしぐさの原点ですね。それは全く変わらない。これはエスカレートしてきちゃう。最近じゃあ書いた字のうえに水彩絵の具を塗るのね。そうすると、ぐちゃぐちゃになる。別にぶっ壊しても構わない。だって大災厄のときにそれが起こったんだからね。(吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』講談社現代新書 2016年4月)

「狂気」の射程はここまで長い。
そんなことに、中島敦という人はきっと気づいたんだなあ。

次回は「文字禍」という作品を読みましょう。また会いましょう。

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