未来へ
私は現在、イギリス、カンタベリーで、Friends Internationalというクリスチャン伝道団体でトレーニングをしている。住む場所は私たちの活動を支援する老夫婦が無償で提供してくださっている。
現在、私は人生の岐路に立っている。というか、イエス様の指示をお待ちしている。と言っても、祈りが足りないのはわかっている。一人で祈らないといけないのに、祈れていない自分がいる。だから、悪い方向に悪い方向に考えてしまう。
神様には嘘はつけない。同じように、神を信じる人、そして広く全ての人に嘘をつくことはできない。
私は、国連で働くことを夢見ていままで歩んできた。修士を3つ取り、中国語も英語も仕事で使ってきた/いる。それなりの「キャリア」も積んできた。
そんなとき、神様と出会った。神様は、人生はキャリアを追いかけることだけでなく、楽しんで良いのだと教えてくれた。イエス様を受け入れた1年目は、これまでの人生の中で一番楽しい、本当に幸せな一年であった。
これまで、人生は仕事や家庭を築くことで定義付けるものだと思っていた。でも、追いかけても追いかけても、幸せだと感じることはなかった。なぜなら、一つを得るとまた上が見えて、それを目指して一生懸命努力して、また上を目指して。。。と自分の欲(向上心と言えば聞こえはいいが)に際限はなかった。
結果として、修士を3カ国跨いで取ることになったし、国際関係、協力の分野で働くことになった。楽しかった。でも、家に帰るとまた「上を上を」目指し始めて、今の自分に満足できることなんてまるでなかった。
イエス様を信じてイギリスに渡り、ロンドンでホームレス支援に取り組み、日本に一度帰国したものの、その後留学生を支援するクリスチャン伝道団体、Friends Internationalに声をかけて頂き、今度は正式なボランティアとしてカンタベリーで奉仕することになった。
二度目に日本を離れる前、霊的な攻撃を受け、大変もがき苦しんだ。一つは、仕事への挑戦である。現在オンラインで仕事をしている組織(クリスチャンの組織ではない)でそのまま働いて良いのか、という挑戦であった。もちろん、クリスチャンでもどんなところでも働く。一方で、信仰や思想を保つことのできない組織の場合、そこから身を引かなければならないと思っていた。
私の場合、その試練を通され、仕事を辞めざるを得ないのだと涙ながらにその決意をした。泣きながらクリスチャンの友人に相談する私。泣いていたのは、せっかく掴み、そして全力投球してきたその仕事を辞めたくなかった、しかし、神様には従わなければならないと思っていたからである。しかし、ある人の言葉が私にブレーキをかけた。
神様の決断は、恐れからは来ない。「神様に罰せられるのでは」と恐れから神様がある決断に導くことはない。神様の決断の後、必ず心に平安が訪れるはず。
私は二日間断食し、祈り、教会で職場と面談をした。「神様、私は何を言ったら良いかわかりません。あなたが助けてください。」そう祈った。すると私は自分の気持ちを、いや神様の御心を表すことができた。
二つ目の試練は、周りの人からの理解である。
私がイギリスに戻る、しかもカンタベリーでミッショナリーとしてボランティアをする、と言った時、家族、親友、そして教会までもが私を引き留めた。「ちょっと、大丈夫なの?騙されてない?」「いままで積んできたキャリアはどうするの?」「まずは仕事がないと!ボランティアはその後!」
などなど、私のことを真剣に、自分のことのように考えてくれているからこその、真摯な「止め」であった。私はまた立ち止まった。そして、オファーをくださっているクリスチャンの団体に「待って」だの「部屋を用意して」だの色々な条件を付け始めた。
しかし、私には渡航を待つことも、部屋の手配を待つこともできなかった。霊的に飢え乾いていた私は、このクリスチャンの団体でクリスチャンについて、聖書について学びたいと願っていた。
いつのまにか、私はチケットを取っていた。誰にも言わずに。イギリスで住む場所もまだ決まっていなかったし、受け入れ団体からはまだ「Go」サインも出ていなかった。でも、私は神様だけを信じた。
カンタベリーに来てから、住むもの、糧を得るための(オンラインの)仕事、クリスチャンのコミュニティー、全てが与えられた。こんなにも多くの祝福を与えてもらえるなんて、日本にいた時夢にも見ていなかった。日本で想像していたのは(周りから「脅されて」ということもあり)砂漠だった。でも、カンタベリーに来て目にしたものはオアシスであり、全てが有り余るほどに神様に与えられていた。数日間は、カンタベリーの田舎道を歩きながら自分に降り注がれた祝福に涙した。それほど、信じられないほどの祝福を神様から得たからだ。
カンタベリーで過ごした夏は、これまでの人生で一番幸せだった夏だった。全てが充実し、欠けるものはひとつもなく、毎日幸せに溢れていた。これでもかというほどに、祝福は私を追ってきた。
2024年2月。私はいま岐路に立たされている。
将来ミッショナリーとして生きていくのか、それとも、それ以外の仕事をして生きていくのか。
私の思いは、クリスチャンとしての土台ができるまでイギリスでしばらくミルクを得る(聖書の学び、クリスチャンの方々に囲まれて暮らす)ことであった。
そのため、ロンドンでは大きくて有名な(経済の中心にある)教会で学徒として働く面接にも行ってきた。
結果的には、この教会で学徒として働くことはできなかったのだが、新しい思いが生まれた。それは、長年夢だった国連で働くということ。神様がこの道を閉じたということは、神様は私に国連で働くように勧めているのだ、私はそう確信した。ちょうど、国連の入門としてのポジションJPOの募集が始まった頃だった。
そんなとき、私の奉仕しているFriends International(FI)のスーパーバイザー(上司のような存在)から2年目の奉仕について打診された。国連に向かって走ろうと、スタートラインに足をかけたそのときであった。
複雑な気持ちだった。何より、「神様に嘘はつけない」それだけが私の懸念事項だった。FIを「利用」して、国連で働くための踏み台にするわけにはいかない。しかし、国連の夢も諦め難い。
そして大きな疑問にたどり着いた。
「フルタイムのミッショナリーワーカー(聖職者)」はパートタイムのその人より、ましては普通の仕事をしている人より(神様の順番で)偉いの?
教会に、「順位」があってはいけない。上にあるものは一番人に奉仕する僕でなければならない。でも、どこかで、私はパートタイムの普通の仕事を持ちながら「負い目」のようなものを感じていた。
聖書には、しっかりとこう示してある。
そう、先に来るものが後になり、後になるものが先になるのだ。
そして、天国で一番偉いもの、それはなんとリーダーではなく、子どものように幼い純粋な心を持つものなのだ。
私は、ホストファミリーに自分のかでわだかまりになっていた疑問をぶつけた。ホストファミリーだけでなく、周りのクリスチャンの先輩にもぶつけた。答えはみんな同じだった。
「フルタイムのミッショナリー(聖職者)はどうやって支えられていると思う?」
私「教会や、支援者からの寄付です。」
「じゃあ、みんなが聖職者だったら、どうなる?」
私「笑 誰も寄付できなくなる」
そして、聖書にもこのようなことが書かれている。
私たちキリスト者と言われるものは、皆違って作られているけれど、キリストにあって一つの体である。一人一人が役割を果たして初めて、一つの体となる。臓器の一つ一つが異なった働きを持つように、私たちも様々な自分だけの役割を持っている。逆に言えば、心臓だけで体は動かないし、手が足になりたいと言ったら大変なことになる。
フルタイムで教会や伝道のために働く者もいれば、クリスチャンの警察官として、先生として、歌手として働く人がいる。
クリスチャンはどこに置かれても、どこで働いてもそれがミニストリー、奉仕の場なのであり、そこにクリスチャン団体かそうでないかの区別はない。
もっといえば、クリスチャンの場所で働いていないからこそ、ノンクリスチャンの気持ちがわかり、クリスチャンとしてノンクリスチャンの団体で働くこそ、そこで証をすることができるのである。言うまでもなく、世界中にいるクリスチャンは色々な職業について働き、世の中に貢献している。
「奴隷解放の父」と呼ばれた、第16代アメリカ大統領 エイブラハム・リンカーンは「人民の人民による人民のための政治」という有名な言葉を残した。彼は幼い頃から母親の影響で聖書を読んで育った。
杉原千畝(すぎはらちうね)は日本の外交官で、第二次世界大戦中、多くのユダヤ人にビザを発給し、命を救った。
そして、アフガニスタンで30万以上の人々を救った中村哲さん。中村さんの用水路には今もなお、水が流れ続け、緑の命をもたらしている。
https://note.com/emirai391/n/n3c221ea515c8
他にも数えきれないクリスチャンが、日本や世界の様々な場所で働いている。ビジネスマンもいれば、医者も、普通のサラリーマンも、学校の先生も、みんなみんな置かれた場所で神様のために働いているのである。
私たちは、この地において、塩であり、光であれと神様に命じられている。
置かれた場所で人のため、世のために働くことが、そしてその愛で周りを照らすことが求められているのだ。
この世の中に、不要なひとなんていない。みんなそれぞれ社会にあらゆる形で貢献できる。
さてさて、私はいま、人生の岐路に立っている。
「あなたはこれから先、一生フルタイムのミッショナリーとして働きますか?」
と聞かれた時、私の答えはYesとNoである。私は、置かれた場所でミッショナリーとしてキリストの愛を証するものになる。それは紛れも無い事実だ。しかし、フルタイムの聖職者として、教会もしくはクリスチャン団体で一生働いていくかと聞かれると、まだYesとは言えない。なぜなら、私たちはキリストを信じたものはどこに置かれてもそこで塩となり、灯りとなるので、そこが必ずしも聖職者の道であるとは限らないからである。ましてや、もっとも福音の必要な人たちは、そのような聖職者が足を運べないところにいたりするではないだろうか。
一方で、私には生計に関わる問題もある。いま住んでいるところはクリスチャンのご夫婦が無償で提供してくださっている。彼らにもし、生涯に渡って宣教師になるかと聞かれたとき、「まだわかりません、というのが正直な答えです」と答えた時、2年目の住む場所が保障されるかはわからない。彼らは善意で無償でこの素敵な部屋を提供してくださっているが、それ故に、私が将来どのように神様の活動をするのか関心を持ってくださっているのである。
「国連で働きます」と答えた場合、どう思われるのか分からないが、私自身、どこで働いても神様のために働くので、その質問自体、どれほど重要なのかわからなくなるのである。
神様に嘘はつけない。神を信じるものにも。そして、広く全ての人に対して、嘘はつけない。だから私は、嘘はつかない。
もしも、夏からのボランティアの仕事が延長されなくても、住む場所が提供されなくても、私の神様への信頼は変わらない。神様は必ず、私に道を用意してくださるから。いまはただ、神様がその扉を、神様の御心に沿って開けてくださることを願うのみである。
イエス様は私たちに笑いかけてくれた。
私はその笑顔を受け取った。
イエス様は私の罪をすべて洗い流してくれた。
その救いの喜びは誰にもどんな時も奪うことはできない。
信仰は、日々育っていくもの。でも種が私の中にある今、聖霊様が心の中にいるいま、私に恐れるものは何もないのだと、神様は教えてくれているのではないだろうか。
最後に、神様からの勇気受け取りたい。
神様は、私たちと共にいる。信じる前からも共にいた。そして信じた今、離れたくても離れられないほどに、わたしたちを愛し、わたしたちを導きたいと思っておられるのだ。そんな神様の愛を受けた私たちは、こうして祈りを通して導かれたいと願うのである。
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