イエス様への扉
3日間、St Helen's Bishopsgateというロンドンでは有名な教会でトレーニング兼面接に行ってきた。
私はこの教会に夏からのAssociate Schemeに申請した。いわゆる、教会に仕えるものとして、trainee(学徒)として教会で学び働くためである。
1番になりたいものは最後になれ
結論的に、私は今回教会での学徒になることはできなかったのだが、この3日間の「体験Trainee(訓練生)」は大きな実りあるものであった。
この体験Traineeを実現させてくれた私の先輩Janiseからの言葉。
「まず、聖書の学び方について。将来聖書勉強会を率いる存在になりたいなら、いまトレーニングとして学んでいることは基本。この基本がないと、その上にはいけない。遠くへはいけないよ。」
私は、現在、Philip Projectという聖書を学ぶコースを受講している。1ヶ月に一回の授業で、毎回カンタベリーからロンドンに通っている。朝早い時で6時過ぎの列車に乗ったことがある。朝は4時半起き。それなので、午後のクラスでは目を開けているのに必死。
それはさておき、このコースは、将来私たちが聖書勉強会をリードするものになるためにトレーニングしている。そのため、様々な聖書を読むテクニックを学ぶ。例えば、「サンドイッチ」というのは、聖書に良くでてくるパターンで、前後に同じような意味の物語があり、その中心、いわゆるサンドイッチの中身にあるものが重要な要素、というもの。
また、キーワードには注意する。例えば、「Faith(信仰)」という言葉が一つの章で何度も何度も出てくる場合がある。これは、聖書の筆者(40名いるといわれている)が伝えたい重要なキーワードであるといえる。私はまだできていないのだが、聖書は最初ヘブライ語かギリシャ語で書かれたため、聖書勉強会を率いる人たちで、その原文を読んでいる人も私の周りに少なくない。
話が逸れてしまったが、私はこの聖書の学び方について違和感を感じていた。「ストーリーとして素直に読んじゃダメなの?」「なんでこんなにサンドイッチやらキーワードやら気にしないといけないの?」「心で理解すればいいじゃん!」などと主張し、プライベートの場で同じコースを受けている生徒に愚痴をこぼしていた。
「そもそも作者の意図なんて作者しかわからないじゃないか。こんな文学みたいに勉強したくないよ。」
しかし、これが基本だったのだ。
Janiseは言う。
「ハイハイをできない赤ちゃんが走ることはできない。聖書は掘り下げて、掘り下げて、理解していかないといけない。このプロセスを怠ると、聖書勉強会を率いるときに間違った方向へと導いてしまうことさえある。それはとても危険なこと。神様の言葉は大事に扱わないといけない。」
傲慢な私は、すべこべ言って、トレーニングの処方すら受け入れようとしていなかった。というか、理解ができなかった。何やら大事なことを言っているようだが、聖書の知識もあまりない中で、もちろん英語でぺらぺらと説明し進めていくのだから、「ちょっとまって。」はない。
私は修士を英語で出て、いまも英語を使って仕事をしているが、そして海外生活も10年目になるが、一対多数の授業スタイルは苦手で、みんなが自転車で駆け上がっていくのに、私は後ろで自転車を押して坂道を上っているように遅いのである。
復旦大学で歴史の授業を中国語で受けていた同じ状況に陥っていたと気づいた。一つ一つの語彙は理解できていても、その一フレーズの意味を理解する前にどんどん話していくので、一対一では頷きながら進められるものの、一体多数の講義の場合、着いていけなくなるのである。
例えば、「今日のりんごは美味しかった。これはM&Sというスーパーで買ったんだけど、昨日は安かったのに、今日は少し高かったんだ。」という説明を聞いたとする。全てわかるのだが、りんごはおいしかったのかあ、と思っている間に、もう次の話をはじめていくので、言葉の意味を理解している間に置いてきぼりにされてしまうのである。例えるならば、一つもののを噛んでいるうちに次から次に他のものが入り込んでくる感じで消化どころか噛むのも間に合わないという具合だ。
さておき、そういうこともあって、私はこのPhilip Projectに対して不満というか、着いていくことのできない自分の中で躓きを感じていた。
でも、それは傲慢でもあるということに私は気づいた。私は、本当に謙虚になって学ぼうとしていなかったし、その姿勢も足りなかった。このことは、これから、克服していきたい。
次に、大事なことをJaniseは教えてくれた。
人の上に立つものは一番低くなれ
「聖書には、上に立つものは皆に仕えるものであると書いている。リーダーは皆のしもべとなる。教会のリーダーとなること、教会で働くということは、自分が低く低くならなければならないの。」
聖書の基準と世の中の基準は逆だ。キリスト教会でリーダーは一番多く人に仕えるものであり、もしもあなたがリーダーになりたいのなら、人に仕えなさいと教えている。日本社会のように、偉い人が腕を組んで、部下がセカセカと働くのではなく、社長が部下の為に尽くすというか、上に立つものが周りの人たちに仕えるのである。
イエス様のように生きる Become a Godly person
「あなたの周りのFriends Internationalのスタッフやボランティアメンバーたちの生き方を見てみて。私欲を捨てて、留学生のために奉仕している。Andrew とElisabeth(私のホストファミリー)夫婦とKay (私のメンター)とPaul夫婦。もう定年して自分の時間をゆっくり過ごしていいはずなのに、多くの時間を奉仕している。」
ご夫婦は70歳を超えているが、正直30代の私よりもエネルギーに溢れている。よくそんなにエネルギーがあるなあと素直に驚いていた。
Where this energy come from? Come from God. 神様に仕えている人の目は輝いている。どんなに疲れていても、その疲れは表に出ずむしろエネルギーに満ち溢れているように見える。もちろん休みを取ってほしいと思うが、彼らの愛に私たちは救われているのだ。そしてその愛は他のどこからでもなく、神様からくるのである。
3日間のトレーニング/インターンシップ/面接 を終えて
「疲れた」というのが、最初に来るのが、人間なので許してほしいのだが、1番の収穫は、神様に仕える人は、神様に選ばれた人であり、神様に仕えるということは、自分を捨て、私欲を捨て、神様に人生を捧げる人でなくてはならないということである。もちろん、仕事を持ちながらクリスチャンとして奉仕する人の方が人口的には多いし、教会やクリスチャンの組織で働く人だけが神様に仕えているのではなく、クリスチャンすべてが神様に仕えているのである。
しかし、教会でフルタイムで働いたり、クリスチャンの組織で働くということは、神様にフルタイムで仕え、クリスチャンのコミュニティの中でもリーダーの位置にいることになる以上、揺るぎない覚悟が必要なのである。その覚悟とは、聖書を基本として、聖書と共に生き、イエス様と共に歩むということである。ストレートにいうならば、来月のお金が入らなくても、安定した仕事(Secure job)ではなく、奉仕によって得られる収入に生き、それが自分の生活を支えてくれると信じて生きていくこと、自分をイエス様に完全に捧げて生きていくということ。
他にも、もっともっと大事なことはある。
私は、日本にいたとき、確かに、神様だけを信じてカンタベリーに来た。周りの私のことを家族のように大切に思ってくれている友人でさえ、「えみ、そんな組織でボランティアだけで生きていけるの?」「騙されてたらどうするの?売られちゃうんだよ。」と真剣に心配してくれていた。
私は、神様だけを信じた。神様だけを信じて、カンタベリー行きのチケットを取った。だから、いまがある。でも、これからミッショナリー(神様のために奉仕する)として生きていくためには、もっと捨てなければならないものがある。それを、捨てられる準備が私にできているかといったら、まだできていない、というのが、正直な気持ちである。
そんな心も、周りのクリスチャンは見えていたし、私が語らずとも、わかっていた。
Janise:「聖書勉強会でリーダー(ファシリテーター)率いる人になるには、まず自分自身が聖書をよく理解し、経験を重ね、周りから準備ができたといわれたとき初めて、声をかけられて、率いる存在になるもの。私も経験を重ねているうちに声がかかって、トレーニングを受けることになり、いつしか聖書勉強会を率いるものになった。」
Janise「神様に全てを捧げて生きている人は、そのことが周りに伝わるもの。わかるの。聖書勉強会を率いる人になるのも、準備ができているのかというのは、周りの人たちにわかるの。」
Janise「人に福音(Good News)を伝える前にまず、あなた自身がイエス様の愛を受け、イエス様のことを知らなければならない。」
その言葉は、私に突き刺さった。私は、イエス様に見つけられて、イエス様を信じた。
そこに論理的な説明や理性的な理解があったわけではない。ただ、暗闇から私を救ってくれた神様が、宇宙や全てを作った本当の神様だと気づいたからだった。そこに、論理的な説明も理性的に理解をさせることもできない。
神様が、本当の神様だということに気づいたからだった。
私はイエス様が誰だとか知らないまま、聖書も読んだことがないのに、イエス様が救い主であると信じた。それは、私を救いに来てくれた、助けてくれた神様が本当の神様であると知ったからである。そのことを知らせてくれたのは、他の何でもない、聖霊であった。
「どうやったらクリスチャンになれるの?」とか「聖書を完全に理解しないとクリスチャンになれないの?」とか聞かれることがある。
私は、聖書も読んだことがなかったし、イエス様というのはテレビの中でしか聞いたことがなかった。なんなら筋金入りの仏教徒で、中国語でお経を読み、生きたアサリや魚を買っては、海に放す(中国語で「放生」といい、仏教では命を助けると自分が命を得るといわれていた)ことを日本でも中国でもしていた。東京の一人暮らしの家に仏壇を買い入れ、部屋は台東区東上野の仏壇店の立ち並ぶ町を選んだ。そんな私が、イエス様とかについて、知るわけがない。
そんな私が聖霊様に導かれるまま、イエスを信じたのだ。そこに説明はできない。ただ一つだけ言えることは、神様・イエス様・聖霊様、三位一体の神様が私を、私の人生を救ってくれたということだ。
さて、話がいろいろな道に枝分かれして申し訳ないところであるが、3日間のSt Helen Bishopsgateでの体験トレーニングを終えた最終日、St Helenのリーダーの方々に私の感想を述べる機会があった。
私は素直な感想を述べた。
・この三日間、本当に勉強になった。短い聖書箇所を3時間かけてディスカッションしながら分析、理解していく過程をこれまで経験したことがなかった。このような聖書勉強の方法は大変勉強になった。
・中国語の聖書勉強会の事前勉強会(聖書勉強会を率いるリーダーたちが集まり、まず聖書勉強会をする)に参加させていただき、こちらも大変勉強になった。自由に発言できたことも嬉しかった。
・(最後に、そしてとても大事なこと)Janise(この教会でトレーニングを2年間受けて、現在はこの教会の分教会で聖書勉強会を率いている)と話す機会があったのだが、「イエス様のことを伝える前に、まずは私自身がイエス様の愛を受け取り、イエス様について知らなければならない」と教えてもらった。そのことを改めて自覚し、知った。
この最後の点が、私の今回の3日間のトレーニングで得た最大の気づきである。
私は救われた。イエス様の愛を受け取り、嬉しすぎて、ロンドンで伝道するようにもなった。実際に、私がロンドンにいる間、二人の友人はイエス様を信じた。いまはクリスチャンの団体でボランティアとして働いている。
しかし、聖書のことを本当に深く理解しているかといったら、まだまだわからないことがいっぱいあるし、聖書に対して疑問もいっぱいある。
先の「聖書を全て理解しないとクリスチャンになれないの?」という質問に戻ると、答えは「ノー」である。
私は、聖書に関して疑問も質問もいっぱいあるし、聖書勉強会を主催している側のスタッフなのに、未信者の参加者よりも質問があったりする。
「聖書を完全に理解している」クリスチャンはこの世にいない。しかしクリスチャンは、聖書を理解しようと、聖書と共に、イエス様と共に生きようと毎日心に留めながら生きている。
私はこんな偉そうなことを言っているが、自分の不信仰にがっかりすることが何度も、何度もある。
そんなとき、私は祈るのだ。
「イエス様、私の不信仰をどうかお赦しください。」
私は躓きそうになることだってあるし、躓いたことだってある。でも、その度に祈り、泣きながら、神様に道を正してくださるように祈るのだ。自分の不信仰を赦してもらえるように、祈り続けるのだ。
信仰は、ある。でも、迷う時だってあるし、躓くときだってある。でも、イエス様は必ず私を見捨てず、救い出してくださる。私一人では何もできないときでも、イエス様は私を持ち上げて立たせてくださり、前を向いて歩くように背中を押してくださる。
神様は、私たちの髪の毛の数まで知ってくれている。私たちが言葉を口に出す前から、私たちの心の中を神様は知っておられる。私たちが歩いてきた辛い道も、一人で泣いていた時も、悲しみが言葉にならない日々も、神様は全てしっておられる。そして、神様は私たちのために悲しんでいる。
それは、神様が私たちを愛しているからであり、神様は愛だからである。神のご性質は、「愛」なのである。
ロンドンの教会(St Helen's Bishopsgate)での三日間。神様は私のそばにずっといてくれた。いや、この三日間だけじゃない。私がお母さんのお腹にいるときから、ずっとそばにいてくれていた。いまも、ずっとそばにいてくれている。
St Helen's からの答えも、私の感想と同じ答えだった。「まだ早い」とはいわない。でも、「もっとイエス様の愛を受けてほしい」、人に愛を伝える前に。ということだった。
もちろん、いまも奉仕をしている立場なので、いや、クリスチャンなら誰でも、人に奉仕することが神の僕であるということの証となる。しかし神様の御言葉を大胆に伝える前に、まずは、自分自身が神様の愛を受け取り、しっかりと心で理解し、その心で伝えないといけない。今の私は、まだ神様からのミルクが必要であり、独り立ちして人々に福音を伝えるよりもまず先に、私が立って自分の力で歩けるようにならなければならないのである。
神様は私に大切なことをこの三日間を通して教えてくれたのだ。
私に失うものはない。イエス様を受け入れたのだから。イエス様は私の心の中にいるのだから。
祝福は、逃げることはない。私を追ってくる。イエス様に従うことの難しさも、それさえも喜んで受け入れて生きるのだ。
もう少しでイエス様を受け入れて2年になる。数字では表わすことのできない祝福を私は得た。そして、いまも得ている。
この祝福とイエス様の愛を、私もより多くの人に伝えたい。
最後に、この文章を読んでくださった方へ、リビングライフから頂いたメッセージを。
信じたい、ではなくて、「信じます」と祈りなさい。そうすると必ず聖霊は助けてくれます。
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