世間でいう立派な人ではないのに、本能的に美しいと感じてしまう人がいる。 一般的には優れた能力を持っているのに、全く憧れない人もいる。 その差は、人間らしいかどうかだと、なんとなく気付いてきていた。 別の言葉で言えば、自然か不自然かであったり、純粋かそうでないかとも表せる。 その分かれ目がはっきり掴める文章に出会った。 坂口安吾の「堕落論〔続堕落論〕」に、こんなことが書いてある。 “人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だという、要
語り尽くされた話を偉そうに述べることを許して下さい。 本能と理性、人間の根底にはこの二つの対立がある。 ひとつの動物としての本能と、人間として集団を形成するための理性が、バランスを取り合ったりぶつかりあったりしている。 どちらも、それ単体では良いも悪いもない。 だけれど、どちらかが強い場所では反対のものが悪になる。 それが問題だと僕は思う。 社会は圧倒的に理性で作られている。 数字や効率、論理や規則が支配していて、個人の感情や意思を極力排除しようとする。 そし
何かを決めるときに「あの人にどう思われるかな」というのを一切考えないし、考えそうになっても振り払う癖がある。 お世辞や社交辞令も嘘をつくことと同じ感覚だから言えないし。 つまり、報連相もできなければ表面的で円滑なコミュニケーションもできないということになる。 正確に言えば、できるのだけれども、凄まじいストレスや罪悪感に苛まれることになる。 それをして上手く生きていくことに何の価値も見出せないし、それなら生きていなくてもいいんじゃないかと思う。 組織に属するようになっ
なんでみんな、そんなにまともに生きられるのか僕には皆目見当がつかない。 社会でまともに生きるには、大事なものをいくつも捨てないといけない。 嘘をつかないとか、自分の心を大切にするとか、そういうシンプルなことでさえも。 それを捨てる価値が僕には見つけられない。 それを捨ててまで順応して生きたいかというと、全くそうではない。 そんなことをしなくたって、死なずには生きていける。 でもみんな、当たり前のように大人しく自分の芯を折られて、まともに生きている。 そこまでして
時々思うことがある。 自分は夢を見ていないと生きていられない人間なんじゃないかと。 その魔力に侵食されて、現実から目を背けているんじゃないかと。 弱い、と。 「他に足つけて歩けよ」と言い聞かせそうになることがある。 でもどうなんだろう。 何者かになっている人も、結果が出るまで何者かになれるかどうか分からなかったはずだ。 村人Aになりたくて生まれてきた人がいるだろうか。 今あるもので十分だと思った時に幸せを感じる、という感覚もわかる。 けれど、そこに後悔があっ
なんで服を仕事にしたいと思ったのか、改めてふと思い返した。 大学1,2年生の頃、ONE OK ROCKのライブ衣装のかっこよさに魅了されたのが始まりだった。 ちなみにその時ボーカルのTakaが着ていたのはCHRISTIAN DADAだったらしい。 黒の衣装に包まれてロックを響かせる4人は、ひたすらにかっこよかった。 それをまねて色んな服を買った。 UNIQLOには面白い服はなく、古着もなんだか違って、セレクトショップにたどり着いた。 taufeだった。 そこは店
これは本物で、あれは偽物だという感覚がずっとある。 飲み物で言えば、コカコーラは本物で、自販機でよく見かけるチェリオは偽物だという意識がある。 服でいえば、UNIQLOやYohji Yamamoto、Dulcamaraやmotheは本物だけど、セレクトショップのオリジナルブランドやSNSで見かけるようなブランドは偽物な気がする。 本で言えば、「人間失格」は本物だったけれど「論語と算盤」は偽物だと思った。 人でも、本物と偽物がいる。 冷静に分析すれば、世界観の完成度や
好きという気持ち。 悲しいという感情。 新しいアイデア。 挑戦へのモチベーション。 なんだかそれが自分のものとは思えない。 少なくとも僕には、いくら頑張っても好きになれないものは好きになれないし、楽しくなろうと頑張っても楽しくないし、思いつかないアイデアはいくら悩んでも出てこない。 何かを思うこと、思いつくこと、感じることが、凄まじい奇跡みたいだ。 努力で手に入れられないものが何故か手元にあるということは、もらいものなのかもしれない。 だから、それに感謝してい
人間というものが、よく分からなくなる時がある。 同じ言語を話しているのに、自分の言葉だけが通じず、僕以外の全員はお互いを理解し合っているような。 自分だけが違うルールの世界で育ってきたような。 違う種族が暮らす、とんでもなく場違いな場所に生きているような。 何でそんなに簡単に嘘がつける? 何でそんなに人に愛情を持てる? なぜ、疑いながら信用しているふりができる? 自分に障害があるのかもしれないと思ったこともある。 診断を受ければ傾向は認められるんじゃないかと思
春と秋が短いのは、理にかなっているんじゃないかと思った。 心地良さの中にいると人は、心地いいと感じられないように出来ているみたい。 不快感の中にいる方が、人はたくさんの心地良さを感じる。 夏もそうだ。 夏は涼しげで爽やかなモチーフに溢れている。 澄み渡った青い空、どこまでも深く青い海、ちりんちりんと音をたて揺れる風鈴、パキパキと冷気を振り撒き溶ける氷。 でも、夏に快適さなんて本当にあっただろうか。 汗拭きシートのCMに映る、この上なく爽やかそうな表情の女の子と実
この世の不純粋さに辟易しているのです。 澄み渡ったものの少なさ。 無理矢理後から道徳や社会的意義を持ってきて、絶対にそれを認めない。 お金が欲しいなら、それでいい。 名誉が欲しいなら、それでいいし。 異性が好きなら、それでもいい。 時には本当に、高い志を心の底から持つ人もいるだろう。 だけれども、そうでないのに高尚な自分を装う人の多さ。 時々見える本性を必死で取り繕って、見栄という溶媒でメッキを貼り直す姿の醜さ。 この醜さが暗黙の了解なら、みんなはいつの間に
求められていることを喋ることが評価されやすいと思う。 経営者は経営者らしく。 母親は母親らしく。 就活生は就活生らしく。 相手の質問に100点でこたえる。 聴衆を感動させる話をする。 社会的に意義のあることを言う。 それが上手な人ほど早く成功しやすいのかもしれない。 でも、その大喜利の答えは自分が心の底から思っていることではないことが多い。 その成功が行き着く先は空虚なものだと思う。 自分の言葉は自分の心からどんどん離れていき、「正解」を言うことばかり上手
グラフィックデザイン、Webデザイン。 「絵が上手い必要はありません」とよく謳われる。 確かに必要ではないと思う。 イラストを使わないデザインなら理論上自分で作れるし、外注すればそれすら作れる。 要は発想力さえあれば良い。 しかし、発想力には限界がある。 「りんごをモチーフにデザインして」と言われても、林檎を知らない人は前に進まない。 対象をよく見て、その言葉にならない言葉を聴く力が要る。 その力を鍛えるのには何が必要か考えてきた。 デッサン力じゃないかと思
「大勢の人がやっていることは絶対にやりたくない。」 「おすすめしてもらったものを好きになれない。」 「マイノリティでありたい。」 常にあまのじゃくが頭を擡げるから、僕は素直が美徳とされる人間界に向いていないんじゃないかと思うことがある。 子どもの頃の反抗期を引きずっているのかもしれない。 治るものなのか、これが自分の気質であり一生付き合っていくべきものなのかわからない。 逆は行っているけれど、ある意味他人に価値観の主導権を握られていて不健康だと思うこともある。
こんにちは、この三連休は引きこもり生活を続けているEiseiです。 コロナだからではなく、僕の心が引きこもることを求めているからです😌 引きこもるのが楽しい人って実際どのくらいいるんだろう笑 そんな引きこもり生活の中、僕は一本の映画を観ました。 それが「STAND BY ME ドラえもん」でした。 一度観たことはあったのですが、かなり久しぶりに。 展開もわかっていたのに、しっかりドラ泣きさせられました💧 映画を観て一番驚いたのは、のび太の印象が昔と全然違ったこと
ものごとはいくらでも正当化できる。 美しくコーティングして、正義を纏わせることができる。 だから、感覚を研ぎ澄まさなければいけない。 理性は騙せても、感性が鳴らす警報は止められない。 でも、心の声を聴いていなければ、その警報は聴こえなくなる。 だから、今を感じて、自分の心と頭を一致させる 他人の言葉だけを聴いていては、自分の幸せは掴めないかもしれない。