にきょく。
語り尽くされた話を偉そうに述べることを許して下さい。
本能と理性、人間の根底にはこの二つの対立がある。
ひとつの動物としての本能と、人間として集団を形成するための理性が、バランスを取り合ったりぶつかりあったりしている。
どちらも、それ単体では良いも悪いもない。
だけれど、どちらかが強い場所では反対のものが悪になる。
それが問題だと僕は思う。
社会は圧倒的に理性で作られている。
数字や効率、論理や規則が支配していて、個人の感情や意思を極力排除しようとする。
そして、社会の中で生きていれば社会の正義が押しつけられる。
理性を尊ぶものばかりあって、本能の部分を尊重することはほとんどない。
自分の心に向き合う隙なんて与えられず、ただただパーツとしての機能が求められる。
社会の中で表現される感情だって、ただの反射の様な社会的感情であって、本当の心の動きではない。
人から何かをもらった時は「嬉しい」と言う決まりだから嬉しがるし、
子どもを見た時は「かわいい」と言う決まりだからかわいがる。
それで全員が幸せになるなら良いと思う。
だけれど、1人犠牲にされている人がいる。
自分。
自分の心。
何で通勤途中のサラリーマンはあんなに表情がないのだろう。
何でいくら仕事で結果を出している人でも満たされないんだろう。
それは自分の心と向き合わず、自分の本当の感情が何かすら分からなくなっているからではないだろうか。
それを救うという役割で、芸術や表現がある様な気がする。
本能の割合が高い僕にとって、社会はひたすら生きにくい。
どう転んでも削られて、それに抵抗してまた削られて。
だから、そこからの救世主としての服や文学、音楽などに助けられてきた。
特に服がなかったら、自分の軸も情熱もなく、もっと無感情に無表情に生きていだと思う。
別に芸術家になりたいわけではない。
才能があるとも思わない。
けれど、自分がされた様に、本能の部分を肯定できずに苦しむ人を救える存在にはなりたい。
そのためには、表現が要る。
表現する力を手に入れるまでは、止まれない。
では、また。
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