正体。
世間でいう立派な人ではないのに、本能的に美しいと感じてしまう人がいる。
一般的には優れた能力を持っているのに、全く憧れない人もいる。
その差は、人間らしいかどうかだと、なんとなく気付いてきていた。
別の言葉で言えば、自然か不自然かであったり、純粋かそうでないかとも表せる。
その分かれ目がはっきり掴める文章に出会った。
坂口安吾の「堕落論〔続堕落論〕」に、こんなことが書いてある。
“人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だという、要はただそれだけのことだ。(中略)大義名分だの、不義は御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突き止め見つめる方が先ず人間の復活の第一条件だ。そこから自我と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。”
つまり、正しさの盾を捨てて、好きなものを好きと言い、嫌いなものは嫌いと言うことが人間らしさの始まり、ということ。
そんな単純なことなのに、世間にはこれが出来る人がほとんどいない。
そう生きるのにはきっとかなりの力が必要だからだ。
社会的意義に隠れていれば誰にも傷つけられない。
知り合いの作品が嫌いだったとしても、素晴らしいと褒めていれば円滑な関係を作れる。
スポンサーや勤める会社の商品を良いと言っていればお金はもらえる。
その逆をした日には、自分を否定されるし、ぬるい友好関係は無くなるし、仕事もなくなりかねない。
だから、ここで言う意味の人間らしく生きられる人はほとんどいない。
組織にいる時点でほぼ不可能だ。
というか、人間らしさと生きやすさを天秤にかけた時、人間らしさを取りたいと思う人自体いないんじゃないだろうか。
楽に生きられるなら、純粋さなんて即座に捨てる人が大半なのかもしれない。
それも当然だと思う。
でも僕は、どうしても人間らしさに惹かれてしまう。
そして、人間らしさを持つ少数というのは、小さな服屋を1人で営むような人だったり、芸術家や小説家だったり、デザイナーだったりミュージシャンだったりする。
だから僕も、そんな人たちの背中しか追いかけたいと思えない。
1人で生きていく強さを手に入れて、叫ぶ力を掴み取るしかないと感じる。
どんな道でそこに辿り着くのかはまだ見えない。
だからこそ、恵まれているはずなのに苦しいけれど、止まりたくても止まらないし進むしかないよね。
それでは、また。
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