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外国語を習得するとは、外国語で思考する経験を得るということ

かつてJICA海外協力隊の一員として、中国本土に滞在していました。看護師として活動し、任期満了にて帰国した当初のことを、よく覚えています。

中国在留期間は2年。滞在中も何かと日本語で話す機会があります。日本語を忘れるはずがありません。なのに、帰国したらカタコトの日本語しか話せなくなりました。

友人や家族とは普通に話せるのに。第三者との意思疎通に時間がかかるのです。流暢な日本語はどこへやら。敬語なんてもってのほか。

街のあらゆる場面で日本語で話しかけられても、すぐに言葉が出てきません。頭の中はフル回転なのに。

実際に、日本語で質問されると緊張しました。普通なら即答できる質問でも、答えるまでのプロセスが多かったからです。

「まず自分の頭の中で質問を中国語に変換する→中国語で考えをまとめる→でてきた答えを日本語に変換する→日本語で質問に答える」という一連のプロセスがないと、答えられませんでした。

中国語のまま思考して結論を出し、中国語で答えるほうが、当時はレスポンスがはやかったのです。

思考のベースが中国語になっていた感じ。『英語脳』の中国語版といった感じでしょうか。一連の思考に、日本語が介在しないのです。



ですが、それも最初だけ。
帰国して一ヶ月も経てば、すっかり元通りです。今では『中国語脳』は抜け、日本語ベースで思考する生活に戻りました。

日本語で思考できるまでの一ヶ月は、思いのほか長く感じました。私は何人なのか?日本人としてのアイデンティティとは何か?混乱し、悩む時間でした。

日本語話者として、日本独自の価値観や文化を語り継げる存在でありたいと、強くねがう機会になったことはいうまでもありません。

価値観の多様さは、言語の多様性の担保があってこそ。今では、母語として日本語を学ぶ大切さ、言語の果たす役割の大切さをかみしめたいと思います。

ことばの力を身につけたい思い、日本語の表現力を磨きたい思いはこの経験から育まれたと、今は思うのです。

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