医療が提供する価値を考える
まず、医療の価値を考えるために、無価値な医療について考える。
無価値な医療とは、現在、未来において患者さんの体験を一切改善しない医療のことだ。
つまり、外界への反応が一切なく、高度の意識障害が改善する見込みが一切ない患者さんへのあらゆる医療は価値がない。
これを医療の価値について考える出発点とする。
外界への反応の中には、テクノロジーを介して伝えられるもの、つまり、ブレイン・マシン・インターフェースを用いた接触も含まれる。
つまり、完全閉じ込め状態でも意識が清明であれば、その人は脳波を読み取る機械を通じて周囲と交流できるわけだから、医療には価値がある。
というか、ブレイン・マシン・インターフェース自体が価値を生み出す医療だろう。
これは一つの極論である。意識が改善する見込みがなくても、生きていることで家族がうれしい、ということもあるだろう。
ただ、僕の経験上、そこまで悪い意識状態の人と一緒に暮らすことを選択する人は多くはない。自分では世話はできないので、転院をお願いします、と言われることが多い。
で、その場合はどちらかといえば死という現実を受け入れたくない家族の意向や、死の責任を負いたくない家族の意向の側面が大きいように思う。
少し話がそれた。
次に、価値と組み合わせることではじめて意味を成す概念「エビデンス」について考えてみよう。
エビデンスというのは、ある種の脳梗塞患者がアスピリンを内服すると脳梗塞を再発する確率が25%下がる、というような証拠のことだ。
コホート試験、ランダム化比較試験などの研究結果を根拠として、このような結果が作られ、「エビデンスのある治療」としてガイドラインや教科書などに記載される。
予防医療は、発症を予防する、再発を予防するということで、いずれもまだ起きていないことが起きる確率を下げることを目的とする。
どちらも、「きっと脳梗塞なり病気を再発したくないし、長生きしたいはずだ」という前提をもとに、エビデンスの価値も予防医療の価値も生まれている。
ただ、この暗黙の前提は、十分意識されているとは言い難い。
患者さん自身が100歳で「十分生きたし、早くお迎えが来てほしい」と言っている場合に予防医療を行うべきだろうか。何かあったときに病院に行くべきだろうか。
苦痛が強くて、それを医療で緩和できる場合は病院を受診する意味がある。
でも、医療機関が提供する治療は、通常長生きするための医療だ。特に救急車を呼んだ場合に搬送される救急病院であればなおさらそうだ。
どんな年齢であっても、どんな合併症があっても全力で治療したら「責められない」から生存期間延長のための全力の医療が行われる。
この生存期間延長は、判例の積み重ねによっても強化されている。
この司法の側を向いた医療は資源の浪費をもたらす。
防衛医療は医師として訴えられかねない過失を回避するための医療だ。
その結果として、高齢者が入院した場合に行われる幾つかの不適切なアプローチがある。
・処方意図が不明でも、副作用の原因になっていそうでも極力薬剤は続ける。内服困難な場合は経鼻胃管や点滴などを用いて処方を継続する。
開業医によって投薬の質はかなり異なる。年齢を鑑みれば多すぎる薬剤や同効薬が複数処方されていたり、一次予防目的のバイアスピリンが使用されているなどということがある。病棟でそれらの薬剤を調整するのは確かにリスクがある。中止した途端に脳梗塞を発症する可能性は確かに0ではないからだ。
しかし投薬のための点滴や経鼻胃管がせん妄のリスクになることも知られている。一次予防目的のバイアスピリン内服は最早推奨されていない。つまり薬剤を最小限のものに絞るほうが、患者さん自身にとっては利益が大きいこともしばしばあるのだ。
・リスク因子に介入し、最小限にする。
心房細動があれば抗凝固療法を実施し、高血圧があれば降圧薬を使用する。
なぜなら抗凝固療法は脳梗塞のリスクを下げ、降圧薬は心筋梗塞や脳梗塞のリスクを下げるからだ。そしてこうした治療を行う根拠は膨大な医学的文献とガイドラインが裏付けている。
しかし、繰り返すが、これは本人が長生きしたい、脳梗塞や心筋梗塞を避けたい場合に意味があることだ。
何が起きても大往生だと考えている人にとっては不要な医療だ。
なぜこうした医療が実践されるかといえば、訴えられないようにするためだ。実際、患者の側ではなくて司法の側を向いて医療を実践する医師は10人に1人くらいはいる印象がある。
リスク介入を進める理由として、予防せずに脳梗塞が起きた場合、すぐには死ねず苦しい時間が長引く、と主張する医師がいる。しかしそれは経鼻胃管や点滴などで栄養や水分を投与するからだ。
脳梗塞の範囲がある程度広ければ経口摂取は困難になる。その場合、医療処置を希望しなければ脱水のために数日で亡くなるだろう。
でもそこまで話すことは少ない。医師である以上脱水の予後についての知識はあるはずなのに、だ。
これも暗示される前提があるためだ。
実際、現代の日本で脳梗塞を発症し救急搬送された後に脱水で死亡するのは、難しい。
これは、どんな高齢でも、どんな全身状態でも具合が悪ければ救急車を呼び、救急医療を受けることが当たり前の選択肢になっていることに由来する。
そして、救急車を呼ぶこと自体が積極的な治療を希望する暗黙の意志表示として解釈される。
実際にはそんなことはなく、どうすればいいかわからないから救急車が呼ばれるわけで、その点において、医療従事者と患者・家族との間にギャップがある。
かかりつけの訪問診療医がいれば、往診してもらって相談すれば良いが、訪問診療医もリスク回避的であれば救急要請を促すインセンティブを持つ。
それに訪問診療の契約を結ぶのはなかなかに高額だ。一割負担でも月7000円程度はかかる。
それに毎月ないし月2回の診察が必要になるから、結構手間がかかる。
たいていの訪問診療医はリスクを減らす介入をするから、ほっといてもらうのもなかなか難しい。
だから、訪問診療は一つの不十分な方法に過ぎないのだ。
医療従事者は、病気になって病院を受診しなければ不審死になってしまいますと言ったりすることがある。
だから、死が近づいたときに医療と関わらない、という選択肢もこの時代においては、家族がいる以上警察沙汰になれば迷惑になると思うのは当然だし、現実的ではない。
現状の救急医療の暗黙の前提と法制度の下で、ある程度広範囲の脳梗塞で苦しを少なく亡くなり、警察の厄介にならないための条件を考えると
1.対症療法と死亡診断書に原因を記載できる程度の検査と対症療法は実施を希望する。
2.もしその医療処置が苦しみを長引かせ、延命になる処置であれば抗菌薬治療や点滴さえも希望しない、という事前意思を示す。可能であれば書面に残し常に携帯する。
3.もしものときにその事前指示書がすぐに取り出せるようにする。或いは信頼できる家族にそのコピーを配っておき、常に携帯するようにしてもらう。
4.代理意志決定者の序列を作り、また代理意志決定者間で方針を統一しておく。
こうした入念な準備があれば、脳梗塞や心筋梗塞で苦しむ期間を最小限にして人生を終えることができるのだろう。
ただ、多くの延命について考えていて、希望しないという意見を持つ患者さんと話してきた中で、ここまで詳細に延命について考えている患者さんに出会ったことはない。これは当然で、病院にいなければ点滴や抗菌薬が状況に応じてどのような体験をもたらしうるかについて知ることは難しく、知らなければ判断のしようもないからだ。
医師を含む医療従事者もそうで、患者さん自体と関わることは多い筈だが、米国の事例としてDo not hopitalize(入院しない)指示や、終末期においては点滴や抗菌薬も投与しない、と言った事前指示が存在していることは殆ど知られていない。
知られていないから、選択肢になることもない。
患者さんが延命について話し合うときに、その詳細を知りえないのは当然だ。しかし医師は何が延命に繋がるかについて、枠組みを取り払って一度考えるべきではないかと思う。
さらに、高齢者のアドバンスド・ケア・プランニングについて話し合うことの難しい点は、こうした話をしなければならないくらいに高齢の方は、認知機能が低下している傾向があるうえ、医療にかなりの期待を抱いている傾向もあるため、詳細を具体的に決めていくことが難しい。
というか、価値の少ない医療を回避することで利益を得られる患者さんというのは、認知機能が低下していて、身の回りのことを自分自身で実施することが難しくて、医学的な状況が複雑ーつまり、高齢であったり並存疾患が複数あったりするーな人だが、こうした人にアドバンスド・ケア・プランニングを実施することは難しい。
つまり、医療従事者がある程度責任を引き受けてどの程度医療を差し控えるかを主体的に考える必要があるのだが、関与する医師が司法の側を見ていれば見ているほど、困難な取り組みになる。
もちろん家族と話しあって決めていくのだが、家族は医療の効果を過大にみつもり、加齢の影響を小さく見積もる傾向があるし、医療による苦痛を実際に体験するわけではないから、どうしても医療を受ける側の判断を支持しやすい。
ついでに言えば年金と保険制度のために入院費用が安価という問題がある。経済的には利益が出る、というのもあるし、相続の問題を先延ばしにできる、という利益も生まれてしまう。
医療がもたらす価値について、特に超高齢者医療がもたらす価値が何かを、医療従事者は枠組みを一度取り払って考えるべきだと思う。
つまり、状態が悪化したときに、医療のために「死よりも悪い運命」を体験した患者さんがいなかったかを、思い出して、それを防ぐために何ができたかを時々考えるべきなんだ。
無価値な医療や低価値な医療を減らそうと思ったとき、その実践の条件は医療の範囲から逸脱するものも多い。
法律や社会制度、倫理規範の範囲にさえ広がるだろう。
しかし、医療の風景を見ることができるのは医療従事者に殆ど限られてしまうから、僕らが少しずつ声を上げていかないと、変わることはないかもしれないし、良い方向に変わることはずっと難しいことなのかもしれないんだ。