「理解するという事がどういう事なのかを理解していない人」に自分を理解してもらおうとするのは困難。じゃあ、どういう人なら理解してくれて、どういう人なら理解してくれないのか?の簡単な見分け方。結局理解してもらえなくて無駄な時間と労力を使わない為に。

ドライな言い方になりますけど、自分が自分を満たせれば他人に満たしてもらう「必要性」はなくなります。

精神の部屋(ただのひきこもり)にこもって一人修行(U-NEXTを余裕で元が取れるほど見過ぎて家での娯楽に飽きたから自分と向き合っただけのひきこもり)、してからものすごく合理的な考え方をするようになったみたいで

というより昔から「冷たい」「クール」「ドライ」と言われるほどひえひえレイクな私でしたが

合理性を冷たいと責められるような人間関係を脱してから(今は周りはほぼ男友達)


「必要性があるか」 「必要性がないか」で判断していくと、


自分で出来ることを自分に対してやっていくと、ほとんど他人に何かを求める「必要性」がなくなってくるんです。


一人のひきこもりという生活を始めて半年くらいなんですけど、

一人でひきこもってても全然生きていけるということが判明して

友達とはLINEしたり、人によってはビデオ通話したりしてコミュニケーションは取っているので話していて楽しいしそれは全然いいんですけど、

「自分に対する自分の理解」があれば、他人に理解してもらえなくても、「そうか。」で済むんです。

分かってもらえるまで説明したりだとか、しつこくしたりだとか、取り繕ったりごまかしたりだとか、そんな事する必要性を感じなくなりました。

理解されないってことは、その人の思考や価値観にないだけで、

自分が正しくないとか、悪いとか

その人が正しくないとか、悪いとか

そういうのじゃない。 本当にただの「個人的な相違」。

そりゃ、世の中みんな同じ思考で同じ価値観で生きてる訳ないし。

正しい正しくない、言い悪いじゃなくて、ただの個性の相違でしょと。


で、ここからが大事だと思うのですが、

「自己理解出来ない人は他人も理解出来ないのではないか」

という疑念がありまして。


「理解する」と一言で言ってもそれは抽象的なので

理解するってどういうことよ?

理解するという行動が分からない人がどうやって理解するのよ?

自分を理解してない人が、段階すっ飛ばして他人を理解するなんて不可能じゃないか?

と思うと


よーーーく話し相手を見てると自分の事を自分で理解していて(しようと努力していて)、自己探求とか自己啓発してる人ってすごく話がスムーズなんです。

それは「理解する」という行動を自分に対してすでに行っているから、

他人が何故そういう考え方をするのか、そうしてその判断に至ったのかなど「個人単位レベル」で想像出来る力がついてるんですね。



で、何聞いてもまともに答えられないだとかは分かりやすいんですけど、よくあるのがこれ厄介なんですけど全て「一般論」で返してくる人。

一般論で返してくる人は基本的にそつがなくて、つっこみどころもないので問題視されないし、スルーしてしまうのですが、

ちょっと深掘りするとすぐ答えに詰まるのですごくわかりやすいという側面もあります。

これが俗に言う「模範的な人」だったりするので、ここでも先入観的なものは入ってしまいがちなんですけどね。

模範的なのでしっかりした人という印象を受けたりもしますけど、模範的ほど周囲から模範的回答を求められますからね、そういう背景もあるんでしょうけど。


「自分の意見を言う」という事は


順番的に

自分の考えを意識して→理解して→整理して→初めて言語化して伝える


という内部(自分)→外部(他人)という方向性のあるステップが必要。


言語化して伝えるにはまず自分の考えを認識して理解して整理するという行動が先にあるので

ここすっとばして何かに対して返答(言語化)してる人って、自分の意見を持っていない事がすごく多い。


困った事に一般論をもっともらしく言っているだけなのに「自分は正論を言っている」と勘違いしてる輩も居るには居るんです。

そういう人相手にはわざとぶっ飛んだ事言ってやったり、1に対して4くらい返してやると「この人には本心(実は自分に自信がないとか、隠したい弱い部分)すぐ見抜かれる」って思わせたら向こうから必要以上に話しかけてこなくなります。ボロ出したくないから。

それか最初から本音を言うようになります。バレるよりマシだから。
(その後なぜか理解者認定してくるケースもあります)


こういう人は「隠された背景」「表面化されていない事情」「そうなった経緯」など順を追って考えるというプロセスすっ飛ばしてるので


そりゃ、他人が何故そうなってそういう事になったのかという経緯への理解、どういう状況に居るのかという理解、そうせざるを得なくなったような周囲の環境(外的要因)まで想像出来ないので

その人相手じゃ理解してもらえないでしょ、という事に行き着きます。


だから、「理解するという事がどういう事なのかを理解してない人」にいくら話しても無駄なんです。


そこを見ると「この人に言ってもわからんな」という判断が出来るので、自分を理解してもらおうという期待もしなくて済みますし、理解してくれないという恨みの感情も発生しませんし、どれだけ説明しても分かってもらえないという骨折り損のくたびれもうけみたいな、無駄な時間と無駄な労力を最初から消費せずに済むと言うことです。


「何を言うか」もすごく大切ですが、「誰に言うか」という事もすごく大切です。

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