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小説:おとうとをさがしに④

 走った後、いつの間にか白い円形のホールのようなところにたどり着いていた。そこのベンチに僕は老人を降ろし、自分もその横に座った。自分の息が整うまで僕は何も考えずにいたが、だんだんと今の状況と自分の行動が滑稽に思えて笑えて来た。さっきまで老人に生きたくないなんて言っていたのにな。
 横を向いてみると老人が両手で顔を覆い泣いている。
 
 「大丈夫ですか?肩が痛みますか?」
 
 老人は何も反応せずにただ泣いていた。僕は老人の肩に手を置き、背中までゆっくりと撫でた。老人は驚くほど瘦せていた。
 
 「きみのおとうとを知っている」
 
 老人はしわがれた声で言った。どこか遠くからの風が偶然のどを通ったような、小さく奇妙な声だった。
 
 「僕のおとうとですか?」
 
 老人はうなずくとそのしわがれた声でゆっくりと語りだした。
 
 
 ☆☆☆☆☆
 
 昔のことは覚えていない。私は気づくとこの世界にいたし、若かったころの記憶がない。ただあるのは、なにか大切なものをなくしてしまったというような喪失感、そして悔恨の念だけあった。私は記憶がなく、ただそのような気持ちだけに苦しんでここで暮らしている。
 ここでは私のような人たちが何人もいるらしい。見たことはないが気配でわかる。そして、なにかのタイミングで彼らは消えてしまうらしい。
 
 「それは死ぬ、ということですか?」(僕は口をはさんだ)
 
 わからない。ただ気配がなくなってしまうのだ。ここでは一日三食食事が出る。食事といっても味のないゼリーのようなものだが。それで生きていく(この生活を「生きている」といえるのであれば)ことはできる。
 そういう生活を続けているときにきみのおとうとが現れた。きみのおとうとは明らかにここでは異質の存在だった。たぶんこの病院のようなシステムの中の人間ではないようだった。多分システムは彼のことを認知していなかった。どうやってここに来ていたのかわからない。でも、彼はここに世界と君たちの世界を行き来できるようだった。
 彼は私の横に座って、詩や短い小説を朗読してくれた。全部彼の自作だ。正直言って、私はそれらの作品の良し悪しはわからない。でも私は彼の朗読が好きだった。朗読を聞くと、私の心に熱いものが灯ることを私は感じないわけにはいかなかった。
 私は自分でも作品を作るようになっていった。作品といえるようなものでもないが。一文か二文くらいの短い詩をメモ帳に鉛筆で書いて、きみのおとうとに見せた。それを見ると、彼は嬉しそうに笑った。私も嬉しかった。
 私の生活はただの無というようなものから、徐々に感情の機微のあるものになっていった。私は自分の心を観察して文章にし、きみのおとうととの会話を楽しんだ。その生活に私は幸福を感じていた。

(つづく)

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