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「ひとのことはいい」

私はテレビを持っていないので、「受動的に仕入れる情報」 というのがあまりない。

だから情報を仕入れるとき (主にネットから) は大抵、「自ら見にいっている」 のだ。


Twitter や Instagram などの SNS も、アカウントは持っているけれどもほとんど活用していないため、発言はおろか、視聴者として見にいくこともほとんどない。

だから世の中で何がバズっているか (この表現も違和感があるくらい SNS 慣れしていない)、何が炎上しているとか、芸能界でのトップニュースなんかもまったく知らない。

一応、LINE ニュースで 「世界のニュース」 的な情報は来るようにしている & パートナーは対照的にテレビばかり観ているため、大きなニュースについてはかろうじて知っているし (本日のエリザベス女王の崩御も)、興味のあるニュースは小さくても毎日のように見にいっている。



そんな生活でも、ひとつ、思うのだ。


何か自分から見にいったりして、

「え、それは良くないんじゃないの?」

と、思ったりすることがある。

それはモラル的な問題で、みんなと話し合って落としどころを見つけるべき問題、とかいうものではなく、単純に 「価値観の違い」 として片づけられるもの。

分りやすくいうなら、犬派か猫派か、という話でもいい。

これを、「面と向かって」 かつ 「お互いが議論したくて」 犬と猫のどっちがいいか、ということを話し合うのはいいと思う。

が、たまに 「この人はこんなこと言ってるけど……」 と、全然関係ない & 知らない人のことを 「いや、こっちの方がいいんじゃないかな…」 とか思ってしまうときがある。

ひどいときにはそれをその人とは関係ないところで主張したくなってしまうときすらある。


そんなときは言い聞かすのだ。


ひとのことはいい。
ひとのことはいい。


「良くない」 と思うのなら、黙って反面教師にしたらいい。

人には自分とは違う考え方があって、それは一方の側面から見ただけで安易に判断してはいけないのだ。


ひとのことはいい。
ひとのことはいい。


何か、口を出したくなったり、他者の境界線を踏み越えそうだな、と思えるときは、立ち止まって考えるのだ。


面と向かって言えば、きっと言い合いになる。
大切な人 & モラル的な問題にかかわるなら、失うのを覚悟で 「それはよろしくないんじゃないか」 ということを伝えるときもあるし、それで (それだけじゃないのかもしれないが) 嫌われた経験もある。

人はコントロールできないので仕方ない。
黙っていれば続く関係もあるだろうが、それがストレスなら離れるか踏み込んでいくしかない。

どちらにせよ、ストレスの強い場所には長くはいられないのだ。


でも、全然関係ない人で、モラル的に問題がない & 本人に向かっていくエネルギーも勇気もないのであれば。


ひとのことはいい。
ひとのことはいい。


そう頭の中で唱えている。


逆に、指摘されると耳が痛いことも多々あるとは思うが、「ぶつかってきてくれる」 というのもなかなかエネルギーのいることだから、何か言われたときは真摯に聞きたいと思う。


ただ、「あなたはダメだ!」 しか言わない、「自分で気づかなきゃ意味がない!」 などと言って、ダメ出しするだけで具体的に 「どこがダメか」 とか 「どんな風にダメか」 などを言わない人の話は、話半分で聞いていていいと思う。

要は、そのダメ出しの内訳が 「私好みに動きなさいよ!」 なのか、「そうしないと最終的にあなたは孤立してしまうよ」 というお知らせなのか、それを見極める必要があると思う。

思いやりを持って言ってくれているのか、ただの (発言者の) ワガママなのか。



ひとのことはいい。


ばっかり言っているとなんだか事なかれ主義みたいにもなってしまうが、境界線を引くのはいつでも難しいから、1 回境界線のどちらの側にも立って考えてみるといいのかもしれない。


あれ、これは 「親切」 かな。
それとも 「余計なお世話」 かな。

という 「両側」 だ。



母親によく 「沈黙は金」 や 「口は災いの元」 というようなことを教えられたが、大人になればなるほどよく分る気がする。
雄弁は銀ですらないかもしれない、と思う。


話が飛躍するが、イジメや虐待など、一番被害者の心をえぐるのは、死に追いやるのは 「言葉」 なのではないだろうか。


「言葉」 って本当に不思議だなと思う。
これまた話が飛躍するのだけれど、昔『かまいたちの夜』というゲームがあった。

私は元々ものすごく怖がりなのに推理小説は好きだったりして、「シルエットだけ (グロ画像があるわけではない) だから & もう 20 代なんだから怖くないんじゃないか」 と思って、安く売られていたという理由で購入したことがあるのだ。

しかしすぐ死ぬので (犯人に疑っていることを気づかれるとすぐ殺されて死んでしまう) 攻略法をネットで調べていた。

ゲームのシナリオとは関係ないのだが、「かまいたちの夜の怖いバグ」 みたいなものをたまたま見てしまって、どうやらある操作と手順を踏むと、おそろしい文章 (文章にもなってないのかな?) が表示されるというのだ。

それを 「ただの文字の羅列なんだからそんなに怖くないだろう」 と読み始めたが、もう、すぐにおそろしくなって慌ててページを閉じた。

イカンイカン、そういえば私はチキンだったのだ。とても読めたものではなかった。


その一連の経緯に 「不思議だなぁ」 と思ったのを覚えている。

たかが、単語の羅列。
たかが、文字。

にもかかわらずおそろしすぎて今でもトラウマで再読しようなどとは思わない。



生きていく上で相互に誰かとかかわる限り、人を傷つけないのは不可能だ。

だけどそれは 「傷つけないように気をつけなくていい」 ということではないと思う。

生きていく限り、食べなければならないけれども、好きなだけ食べたり他人の領域のものにまで手を出してはいけないように、言葉にも 「他者の領域に踏み込まない」 という認識は大事だと思う。


「ペンは剣よりも強し」 という言葉があるように、言葉の影響力というものは一番強力だ。もちろん、物理的に命を狙われることの方が強制力は強いが、物理的問題が解決すれば無力化する。

しかし言葉はそもそも物質として存在しないだけ、時空を超えて影響し続け、人に伝播してより強固なものになっていく。


言葉の影響力に照らしても、昔からあまり 「人を傷つける発言」 に対して法が適切に敷かれているような気はしていない。

「(駅員の) 胸ぐらをつかんだらそれは暴力です」 というポスターも見かけたことがあるが、「〇ね!」 とか 「〇〇い」 みたいなことは、言っていいことになっているというかそれぞれのモラルに委ねられている。

もちろん、「法規制を敷いて厳しくすべき」 ということを言いたいのではなく (厳罰化しても犯罪は減らないという説もあるし)、「それを言われたらどんな気持ちがするのか」 というのを、幼い頃から考えられるような環境を作れることがベストかなぁと思う。


プラス、「それは他者 or 自分の領域か?」 ということも。


『となりのせきのますだくん』という、表紙からしてインパクトの強い絵本がある。

見た目怪獣? 恐竜? のますだくんが 「こっからでたらぶつからな。」 と、主人公の女の子みほちゃんの机に勝手にはみ出して 「境界線」 を引いてくるのだ。

ますだくんは 「みほちゃんの領域」 を侵しているのだ。

勝手に人の領域を侵してきて、自分の領域であるはずの場所に何かを置いただけで、ぶたれるというのだ。

その理不尽さに、子供ながらかなりの憤りを覚えた。

このような場合は、徹底的に戦ってもいいと思っている (多分、そう思わない人もいる)。

しかし、ますだくんが飽くまでも 「オレの机にはみ出すなよ!」 と 「ますだくんの領域を守る」 だけなら、それは尊重すべきことだと思う。


自分の領域が侵害されない限り、「他者の領域」 は侵してはならないのだ。

それで侵しそうになったときは頭の中でこう言う。


ひとのことはいい。
ひとのことはいい。



なんで 〇〇 しないのよ!
〇〇 しないなんておかしい!


そう思ったとき、「本当に自分の領域はそれが原因で侵害されたのか?」 と考えると、多分侵害されていないことの方が圧倒的に多いのではないかと思う。


たとえば私は特にうなぎが好きなわけではない。したがって (例) うな重 5,000 円の価値を見出す能力が自分にない。

「うなぎに 5,000 円も払うならイタリアンのコース食べた方がいい!」

と思ったとしても、「自分の脳内だけで '自分だったらこうしたい' と思う」 自由はあるが、それを 「他者に押し付ける」 ことは許されない。

そして、うなぎに 5,000 円の価値を見出している人がうなぎを食べたら、さぞかしおいしそうに幸せそうに食べるのだろう。

それで私は何も侵害されないはずだ。その人がやりたいようにやっているなら、きっとそれがベストなはずなのだ。


ひとのことはいい。
ひとのことはいい。



芸能ニュースなんか特にそんな気がする。
ひとのことはいいのだ。



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