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僕の「書くことが好き」という情熱が、社会的意義にあと一歩結びつかない

この記事は僕の独り言です。

今はもうしなくなったけれど、前までよく本を読んでいた。

小学生の頃から今日まで、ずっと漢字と向き合ってきた。

大学生になってパソコンを買ってもらった時は、

ずっと文章を書くのがカッコいいと根拠なしに思っていて、このnoteに辿り着いた。

自分の感情を言語化するのがとても上手くなった。単純に文章も上手くなった。それと一緒に文章を書くことがますます好きになっていった。

とりわけ嫌な事や辛い事があると、良い文章が思い浮かんだ。ネガティブこそが名文を名文たらしめる原動力だというのは、芥川の時代から自明だ。

まあ、それは置いといて。

思えば、そんな風に活字とは付かず離れず腐れ縁な距離感で21年ずっとやってきた。

そういう訳で、これまでの人生経験を通して文字を書くこと・感情を言語化する能力について人並み以上には長けていることを今やっと、何となく自覚し始めた

今ようやくそれが僕らしさだというか、無二のアイデンティティであるということに気付き始めた。

他にとりたてて才能がないから、相対的にその能力が浮き彫りになっているだけなのかもしれないが。

だから僕は、大学生活というモラトリアムのリミットが徐々に近づいている今日この頃において、書く事に携わる仕事がしたいというビジョンをぎこちないながらも描けるようになってきた。

しかし就活においてずっとつっかえていて仕方がないのは、

僕は確かに悪くはない文章を書けるかもしれなくて、書く事に関わることが僕の「やりたいこと」であるならばそれを仕事にするべきだけれど、

その能力が、そして僕という人間が、企業から見た時にどのように役立つのかという「社会的意義」について全く答えられない、ということだ。

僕が良い文章を書けるだとか書きたいだとかいう感情は、今の時点ではただただ自分自身のエゴでしかなかった。

自分の書きたいように書いているだけでしか無くて、そこからもう一段階上にどうにかして上がらなくちゃいけなかった。

自分の為でなく、誰かのために働きかけることができるようにならなくてはいけないようだった。

インターネットの海に記事を沈め放り込んだだけで、もう既に僕の文章は世間様の何かしらの役にきっと立っていると思い込んでいたが、そうではなかった。井蛙の見だった。

では僕は、もうじき終わりの淵を迎えるモラトリアムと、このクソったれ(まあそうさせているのは、僕のせいなのだが)な就活とに対して、どのように蹴りをつけるべきなのだろうか。

幸運な事に最近、東京で仕事をしているというその手の業界の方から意見を頂く機会があった。

そこで言われた忌憚のないコトバや後押しをここに書き出して、今も止めどなく溢れる焦燥と期待とを一旦整理しようと思う。

■君が何の役に立つのかいまひとつ分からない

いきなりタイトル回収。

僕の文章は、若者らしく、そして硬質で面白くはあるが、それがどう役に立つのかイメージが湧かないらしい。

実際問題、好きな事だけ書いてお金を貰って、好きなように生きられる人間はほんの一握りの一握りしかいないだろうし、仕事となれば尚更、理想を捨てなくてはならない。役に立つか?稼げるか?というのは非常にシビアな問題であり、それに比べれば僕が書きたい文章を書けるか?というのは企業からしてみれば二の次三の次でしかない。

僕は僕のためにしか文章を書いていなかった。独りよがりだった。今のままでは、ただ「それなりの文章を書ける人」止まりなのだ。

良い文章を書く――ライターになるために、すぐにその職に就こうとするのではなく、一度遠回りして編集や出版といった選別・校閲する側として仕事をしてみるときっと見えるものがまた増えてくるんじゃないかなと、そんなような事を言われて、大事な決定こそ人の意見を鵜呑みにするべきではないのだが、そう思わざるを得なかった。


■君の文章には、不特定多数の人を納得させるだけの不思議な力がある

日記程度に始めた僕のnoteが段々と沢山のスキを貰い始めたこととか、閲覧数が増え始めたとか、読みやすいとか、凄いと言われるようになったとか、twitterで小規模ながら拡散されたとか、まとめサイトにまとめられたとか。

そんなような成功体験を順を追って伝えたら、そんな言葉を返された。

僕の中のごちゃごちゃを、とても綺麗にまとめて端的に述べてくれたと思った。

不特定多数の人間を納得させるというのは、良い文章を書く上で必要な覇気のようなものだと思う。他人からの承認を直接間接問わず得ることで、僕は僕の歩みがきっと間違っていないだろうという事への客観的な後押しを感じられるように、整合性の証明にもなるだろうし

僕の文章を目に留めてもらう機会がこれからより多くなっていくのであれば、僕は文章を書く際の自分の主張や意識をより明確に、それでいて正しい方へと自分を導いていこうとするだろう。

良い文章と良い思考、その反復が僕をより深い人間へと至らしめるのであれば尚更、書くことへの道から僕はもう逃れられないだろうし、そうするべきではないだろう。


■好きな事を周りに話したり、好きな物があるところにできるだけ身を寄せる

英語を話せない人間がアメリカに放り込まれたら、当然生きるために英語を覚えようとするし、そうでなくても勝手に身に付いていくと思う。

それと似た感じで、自分のやりたい事があるのであれば、それがある場所のそばに身を寄せ、嫌でも身体に染みついてしまう位の距離感で触れるべきだと思う。だらしない性格というのもあって、少し強いられる位でないとやる気も出ないのだ。

つまり、物事に対する精神的距離と物理的距離は比例するということで、その道に進むのであれば、絶えずそれを考え続けていられるような所に身を置くのがやはり良いということになる。

書くことはどんな土地においても求められるとは聞いたが、それが沢山あるのは当然、都会である。

どんな業界も中身を覗いてみれば細かいジャンル分けがなされていて、であるならば、そもそもの人と企業の分母の多い場所に飛び込むほうが、その数だけの道筋と機会を手繰り寄せる確率は当然高くなると思う。

もう一つ、好きな事を周りに話す、つまり自己開示を積極的に行っていくことについても一言頂いた。文章で人を動かしたいと考えてはいるが、それはきっと文章を通じて、僕という人間を知って欲しいという気持ちの表れなのだと思う。

もしかするとそれが新しい経験や出会いのためのファーストコンタクトになるかもしれないし、僕はその「些細なキッカケ」というものが持つ広大無辺の可能性を結構信じている。なぜなら、文章を書き始めたというたまたまが「今の僕は面白い方向へと成長を遂げている」という確信を既に僕に与えてみせているからである。

僕がお話を伺った方も、「好き」を突き詰めて、発信していった結果、その業界に辿りつけたのだそうだ。

僕は、環境から与えられたヒントを元にアウトプットしてきたこれまでの文章から培われた能力を元に、今度は再び言葉として、自らの口からもう一度アウトプットを行っていき、世界を広げていくべきなのだろう。


■自分は普通かもしれないが、間違いなく世の中に必要な人間であると思い続ける

めっちゃ背中押してくれるじゃん。

僕が書く仕事をしたいのは、「自分らしさを発揮したい」という自己実現欲求、そして「文章を書ける人間は世の為に文章を書くべきである」という現代的なノブレス・オブリージュに基づいていると思う。

僕は今、若者特有の無根拠な全能感を少なからず抱いている。実現可能性については無視して、できることならば自分自身の文章で世界を塗り替えたりできたらいいと願っているように。

しかし現実を目の当たりにしたとき、程度に差はあれど必ずその理想は揺らぐだろうという事も分かっている。その時に最も恐れるべきは、自分は何者にもなれず、何の役にも立たないと思い込んでしまうことである。

そうならないために、自分は世の中に必要な存在で、必ずどこかで誰かにミリグラム程でも必要とされているという明確な根拠というか、ブレない軸や芯を持ち続けていたい。

それは身の程知らずであるとかナルシストであるとか、それとは違っていて、信念の問題である。自分自身が崩れてしまわない為の、その世界に居続ける理由に相当するだけの信念を心の拠り所にして、いつまでも消えない自己肯定感と青さを持ち続けていようと思えた。


■人の文字には、人の数だけの色や温度がある

自分の好きをただ一人で突き詰めているだけでは見えないものが、仕事をしてみると書く事だけでなく人間への尊敬が湧いてきて、視野が広がったと同時に「分かってきた」のだという。

文章を書くという行為を、今僕は僕の中の小宇宙のみに留めているけれど、様々な質感の文章と人間に触れることが自分の力になってくれるのであれば、好き嫌いだの選り好みだのなんだの言っている場合ではないだろう。

そう思うと、無駄な事、寄り道する事どちらも長い目で見た時に自分の経験として役立ってくれるかもしれなくて、物事の表面ばかり見て決めつけるのはもう辞めようと思った。

日常生活のありふれたやり取りでは僕がどんな人間か理解してもらう事はできなくて、その事を僕は悔しく思っているのだけれど、同じようにそう思っている人間がいるはずで、それが目の前で話している人かもしれないという可能性について考えると、

まだ僕は足りないものが多すぎて、自分の色や温度の主張ばかり気にしていて、それなのに他人の事はモノクロームな目で見つめてばかりだった。

という訳でその人の言葉は、事あるごとに僕という人間の未熟さを浮き彫りにさせてくれたのである。


■あとがき

若気の至り、その言葉に肖ろうとする一方で、同時に僕は書く仕事に就くことをとても恐れている。

それはなぜかというと、今認識している僕の特殊な能力、あるいは僕らしさが実は誤りで、そのことについて、仕事をし出して進路変更ができなくなってから気付いてしまったら?という危惧のためである。

だからこそ今の時点から僕は、弛まぬ文筆活動によって、僕の進もうとしている道の先が岩に塞がれた行き止まりでないことを明らかにしなくてはならないし、もうこんなこと書いてないでさっさと就活を頑張らなくてはいけないのである。

モラトリアムのバカヤロー!

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