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"わからないのグラデーション"に付き合う


こんにちは。

前回、「いちばん大事なしごと」と感じていることを書きました。



それは《自分を保つ》こと。

普段意識することは多くなくとも

誰かやってくれたらいいのに、とどんなに願っても替わってもらうことができない、自分自身のいちばん大事なしごととして、それが、そして、そのためのいろいろがあります。

今日はそのいろいろのひとつについて書きます。


自分を保つ仕組み


どんな形かに関わらず、表現をする人にとってどんな仕事よりも先にやらないといけないことがきっとそれで、

無限に押し寄せる自分の中の「これでいいのかな」に「これでいい」と答えるために、それが必要になります。

では、自分を保てている状態とはどんな状態でしょうか。

これを具体的な行動として説明すると、自分の場合書くのも恥ずかしいくらい、大したことはありません。(でも書く)


◎プランB(代替案)を考えられる

◎失敗してもそれで終わりではないとおもえる

◎敬意をもって断れる

◎相手のことを積極性をもって考えることができる

◎いろいろあるけど おおむね楽しんでいる


これは一部ですが、そういった自分にとって大事なことがちゃんとできる状態が(その人にとって)自分を保てていると言っていい状態ではないでしょうか。

これってむずかしいことでなく、単に【余裕を持てているか】どうかということだとおもいます。

自分が自分の基準(としておきたいと考えるライン)でちゃんと判断ができる。そういう余裕がある状態。

私も、この基準を守れる程度には生活に余裕を組み込むようにしていて、
とにかくむちゃくちゃに忙しかったり、いろいろ重なったり、圧されて望まない関係ややりとりが多くなったりして、

基準が蔑ろにされていくような感じがしたら、センサーが機能して自分を立ち止まらせる仕組みになっています。
(違和感の程度がここを超えたら、それを無視しない、と決めている)


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ただ、これは、今は普通のことにおもえますが、そうできなかった時期もあって、その間って本当に心ここにあらずみたいな状態だったとおもいます。

傍から見たら誰でもおかしいとおもうようなことでも渦中の人は気がつかないので意志による打開がむずかしく、状況を変えられないまま時間がすぎます。

ただ考えるのでなく、何か手を打つために考える、変化を必要とする場合の思考には、身体的なコンディションが良くないとまずダメだし、ちょっと休んだくらいではなかなか自分が戻ってきません。

いつからか、ちゃんと基準を保って異常がわかる仕掛けをつくろうとおもうようになりました。

というのは、自分が【状況に左右されない、ということはない】とおもっているんですね。

【自分だけは大丈夫、ということはない】と。

例えば何かを見て「こうなってしまったら嫌だな」と感じるときにおもうのは、

たまたま今そうなってないだけで、同じ生活スタイルで、同じ人間関係で、同じストレス環境に身を置いたら、きっと自分もそうなるかもということだったりする。

だから、その環境に身を置かない、という《対策》を前もってしているだけなんです。


意志が弱い、という言いかたがありますが、意志による行動の管理はそもそも難しいと私は考えています。
(何度か書いていますが、ヒトは自覚している以上にベースが動物だからですね)

意志が弱いことが、行動のできない要因となると【本来は努力で何とかなるもの】というニュアンスがありますが、そうではなくて、

どんな状況でも自分を守ることが先になるので、場に適応するために自分を変化させていくのは当然だし、それが常になると変化そのものに慣れていきます。

本能に近い欲求ほど逆らえないし、誤解を恐れずに言えば、逆らうべきでもない、とおもっています。

理性よりは感情のほうが本能に近いので、恐いからとか、不安だからとかいう強めの感情によって、行動を決め続けてしまう。

でも、実際には感情ってひとつじゃなくて、あれがしたいとか、できるようになりたいとか、ダラダラしたいとか、知らないことを知りたいとか、多少困りたいとか、いろいろあるんですよね。

不安以外の感情に蓋をして不安の処理をしてしまって、それ以外の感情との綱引きに戸惑っている人がとても多いようにおもいます。

2007_1229☆うんち☆0156_Original


決める準備をする


「自分が自分として判断ができる状態を保つ」


自分として、というのは《自分が好ましく感じる自分》ということで、《こんな自分嫌だな》という状態で日々の大事な判断をしたくないですよね。


どうしてこう考えるようになったのかはわかりませんが、育つ過程で周りの大人を見ていて考えたことが大きいのかな、とおもっています。

大人が力をこういうふうに使うとこうなるんだな、というのを見て、そういう使いかたを選ぶ理由って何だろう、と考えることが多かったのかもしれません。

答えはわからないのだけど、自分が大人になったらとにかくこうならないようにしたいし、しないといけないな、という考えかたになっていったのだとおもいます。

じゃあそのためにどうするのか?

その答えのひとつとして、余裕を失わないこと。
そのための手段が、取り掛かることを絞ること。
絞るために必要になってくるのが、自分の優先事項、選別
選別のために必要なのが、一般的な情報でなく、《自分の場合、どうか》という、これまでに獲得した自分に関する情報。

今はそういう考えかたなんですね。

必要(というか不可欠)と感じるもののために、もっているものをつかうことが先で、それ以外は後。


少しミニマリスト的な思考かもしれません。
単純にキャパシティが大きくないのだとおもいます。

とにかく自分に自信がなかったこともあり、これまで、自己理解のために時間を惜しまず使ってきたとおもいます。

コーチングを始める前から同じ考えかたでしたが、手法として学んで実践を繰り返すと、幾分シャープになってきた実感があります。

でも、すごく尖っていてそれしかないというのとは違って、むしろ柔軟にそのときどきの自分に順応できるというか、

基準のグラデーションがより細かくなった状態、かつ、それが保たれるようなシステム(というと大袈裟だけど)になってきたと感じています。

その大きな効果は、

「決める準備ができた状態で、決められること」

自分がなにを大事にするのかわかった状態で、決められることです。

これはそのまま、コーチングを活用することの大きな(いちばんと言ってもいいくらいの)効果だと考えています。

判断の対象によらず、比較的いい状態で決めることができる。

自分が今、何を大事にしたいのかを確認するからです。
コーチングセッションは個別対応なので、同じ依頼者でも毎回流れも事情も違います。あくまで、そのときのその人が主導です。

その時点での本人が、何を大事にすると決め、現実的に何をするのか。

絶対に離しちゃいけないのはその1点です。

普段の生活の中での判断は、自身から距離があるところで下していることも多いため、この時間はそれらとは一線を画します。

そもそも自分のことを自分で決めるという意識がない人も多いと感じています。

その場しのぎ、対症療法をしているな、と感じる場面も多く、あるいはもっと反射的に決めてしまっている。

本人は自分で決めている認識でいるけど実際にはいろんなバイアスだったりマーケティングが巧妙に作用していたりするので、


「他人の目を気にした状態の自分」

から

「自分の目だけを気にすることができる自分」

になって決めることは重要です。


実際にはセッション中でもコーチの目はあるのですが、コーチは依頼者と目標と戦略と方向性を共有していて信頼関係もあるので、依頼者が依頼者本人の価値観を優先できる、という状態は担保されている。

コーチングは《緊急ではないが重要な課題に向く手法》なので、普段の生活ではそこまでその課題を考え【ないといけない】場面は出てきにくいかもしれません

緊急ではないから、「今」取り掛からなくても痛いおもいをすることはないからです。

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自分の変化を自分に見せる


コーチングの価値は《成果の確実性の向上》にあると考えています。

自分の場合、セッションは基本的に60分としています。
流れとして、まず60分をどう使うか(この時間で得たいこと、60分後にどうなっていたらいいか)の共有があり、

そのために、何から話すかをまず決めてもらいます

事前に聞いていることもありますが、それを聞いた時点から変化があった可能性もあり、今も同じように考えているかはわからないので、ここは確認します。(確認することで、”今”の依頼者を尊重する)


話したいテーマが複数あれば、そのどれから話すか、ここも決めてもらいます。


ちいさなことでも、とにかく主導権は依頼者にあるということを理解してもらわないといけないのですが、そんなにも自分自身のことについて「どうしますか」というASKに慣れている人も多くないので、最初は戸惑う方もいます。

こちらの記事にも以前書きましたが、


「あなたはどうするの」ということを訊かれつづけると、自分がどうするか、自分から考えるようになっていきます。


どんなにちいさなことでも積み重ねていくことで変容につながる、というのを私は実感として持っているので、コーチングの手法だから、という理由だけでなく、行動に焦点をあてるのは自然だと考えています。


劇的な解決なんてない、いや、あるかもしれないけど、それを待ってはいられない。そうして行動を重ねてきて今があるし、それは一足飛びでなく地続きです。時間もかかっている。

だからこそ

何の後ろ盾もなくても、自分が行動をすることで起きたことを自分に見せ続けていけば、疑心暗鬼だった自分が、少しずつ自分を信じるようになる、と知っている。それは実績ができるからだ、と。


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セッションにおけるコーチと依頼者の関係性についてよくいわれるのが、双方向性、現在進行形、個別対応、の3つの軸です。


ここは自分の言葉で説明します。


《双方向性》


コーチは話を聴いてくれる人、と認識している方もいるかもしれません。
話も聴きますが、これは目的のある傾聴で、相手の思考を促進するために聴きます。

必要を感じれば自己開示をしたり、フィードバックをして《知っていること》《感じていること》を伝えていく。

共通の体験であれば共感として作用したり、意外性のあるフィードバックであれば客観的な視点となり、依頼者が気づきを得たり、疑問がわいてきたりと動きが出てきます。


流れが澱んでいるような場面では、そういった《コーチからの働きかけ》がきっかけとなって、依頼者のなかにあるものがまとめあげられたり、言葉になってきたりするんですね。

思考を促進する目的は、依頼者自身がより効果的で納得感の高い意思決定をすることです。

考えるサポートは、決めるためのサポートでもあり、決めることができるから、動くことができ、状況に変化が起きていきます。


《現在進行形》

セッションの冒頭に決めた戦略を踏まえつつ、今目の前で起きていることを重視します。

言葉となって出てきたことに囚われずに、実際に起きていることを観察、判断して関わりを決めていく、とっても柔軟な姿勢を維持することが求められています。


《個別対応》

一般化せず、決めつけずに、どこまでも依頼者個人の事情や価値観として受け取り、理解「しようとする」こと。

「理解そのもの」がそうそうできることではないからこそ、しようとする姿勢が必須になります。

その場に共にある、というのはコーチのコアコンピテンシー(行動特性)としてありますが、本気で関わりながらも自分個人を相手と分けるというか、切り離して客観視することが上手にできないといけません。ハードワークです。


この3つの軸を踏まえて、ひとりで行うこと(セルフコーチング)もできますが、


セッションのメリットは、ふたりでやることで漏れがなくなったり、思い込みに左右されなくなったり(セルフコーチングはあくまでも自分の視点しかない状態)

行動をリクエストされることで約束ができたり、報告という一種の強制力を発揮できたりして、結果的に「実際に動くあれこれ」ができていくので、成果が出やすくなるところです。

単純にふたり分の頭で考える、というか、役割分担ができる。


わからなさを受けとる


依頼者本人が存分に自分の思考を深めてあっちにいったりこっちにいったりできるのは、コーチが方向性をしっかり握っているからです。


「ここにいるんで、好きなだけ好きなところに行っていろいろ探してきてください。迷ったら戻ってきてください

みたいな感じです。
コーチが現在地にいるので、最悪でも今いるところよりわからないというところに行かなくて済むんです。

この安心感が依頼者に冒険をさせます。
これまで(自分だけでは)踏み込んでこなかった領域に踏み入れて考え出します。

それから、頭の中にある拾ったものを外に出していく。

基本は言葉として出していくけど、言葉になる手前の状態というのはあって、確実にあるのだけど、可視化までいけない、という状態は、必要なんだけど本当にしんどい。(実感)

でも、そのキツさを補って余りあるほど、
自分が考えていることが  ”自分でわかる” というのは、他のものでは代替できない価値だとおもいます。


そのための素材を取りにいくことは潜るようなタフな作業で、しんどいからある程度で諦めている、という構図が、【普段の生活の中の自分】が《主にやってしまっていること》なんですよね。

そこを超えていくために、他人の力を借りる。

言葉になりたてのものは、とても断片的です。
まだ本人もわかっていないから当たり前です。
いっしょに拾ってきたものを確認する段で、本人も「なぜ自分はこれを拾ってきたんだろう」ってなってます。

私はこの、相手がもしかしたら最もしんどいかもしれないところをいっしょにやるのが好きです。

自分がいる意義を感じられる、というのは1人だとほとんど不可能な部分をやっている、と経験上知っているから、その価値がわかって、自分に価値があるとおもえるんでしょうね

それに、自分の中のものを出してみようとしている時点でその人がもうさっきの場所より進んでいるっておもうからです。


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無駄にならないことを知る


「考えてもわからない」「頑張って考えても、わかるかどうかわからない(報われないかもしれない)」という声を聞くこともあります。


すぐに何でも調べられて、実際にやってみたり、その場所に行く前に評価がわかることに慣れすぎていると「やらずともわかる」と錯覚してしまっていて、

「失敗しないか」「無駄にならないか」というリスクを引き受けてまで行動をしようとおもわない人もいます。

行動抜きに答えだけを速く確実に知りたい、という人にはコーチングは向かないとおもいます


でも、実際には【考えたことが無駄になる】ということはあまりなくて、というのは、コーチングという手法が、短期的に明快な答えが出るようなテーマを扱うこと自体が多くないからだとおもいます。


今答えが出ないことも含めて、その課題の解決への過程、というようなテーマが多いんですね。

1+1=2

のように、この問題の答えはどう転んでもこれ(しかない)という考えかただけでなく、

《少しずつ積み上がっていくような答え》みたいなものもあって、その場合の答えは、答えだ、とわかる時点までそう感じられないので、進んでいるように感じられないこともあるんですよね。


コーチングの関わりにおいて大事なことは、唯一無二の答えを見つけるというよりは、依頼者自身が今より前に進めることだったり、本人の望む、より良い状態へと変化することなので、わかりやすさを重視して答えを出す、というのは本末転倒になる危険もあります。
「答えを出す」が目的になってしまう。

普段から、答えを出せていないといけないバイアスって強くありますもんね。

実際には、わからないな、とおもって帰る、Zoomを終えるような日もあります。

でも、その「わからない」は、セッションの前のわからなさとは別のものなんですよね。


「わからない」を持ってきて、一緒にいろんな面を観察して、「どうわからないのか」が少しわかる。


「わからない」と《言って》いるのは、その状況を細かく観ていないからで「わからない」という大雑把な答えしか持てないだけなんですね。

いっしょに「わからない」を扱うと、ほとんどの人が、わかる部分を少しずつ言葉にしてきます。
そうしないといけない、とおもうんだとおもいます。相手がいるからです。

いっしょにやってみようよ、という姿勢をもった人が目の前にいるから、それはそうなるんですが、この状況を普段の生活で作り出せる人がどのくらいいるでしょうか。


私はこれを、コーチ側から見て「わからないのグラデーションに付き合う」という言いかたをしています。

わかっているのはどのへんまで?
その周りには何がある?
その認識は何で、どこからきた?

みたいなところからいっしょにやっていく。

本心に焦点を当てる

「本心にアクセスする」という言い方で説明することもあります。

「これは本心じゃない」というとき、その人は、自分の本心が何かわかっているとおもうんですね。だから、「それじゃない」とわかる。

言葉で説明ができないけれど、目の前にそれが現れたら、これ、とわかる。

本心というのは《本当におもっていること》だとおもうけど、その周りにいろいろ《それじゃないもの》がありすぎる状態が厄介です。


そして、その厄介な状態だと自覚があるとき。これがコーチングを活用するタイミングだとおもうんです。

「いろいろ混ざっちゃって、整理せずに放っておいたら、大事なものがどれかわからなくなっちゃった。」
という状態。


《この中に絶対にあるんだけどな、とわかっている探しもの》に似ていて、ただ、膨大な堆積物があって、手をつけることをあきらめている。
取り掛かるタイミングがなくてできていないけれど、それが必要なことはわかっている、という。


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持続可能なアプローチだからできること

先に述べたとおり、コーチングは《緊急ではないが重要な課題》に作用するので、緊急でないことは後回しにできるシステムで生活している人ほど、ここを見過ごしやすいんですね。

具体的には、忍耐に慣れていたり、器用だったり、責任感が強かったり、という人が多い気がします。

この世では時間が止まるということは一応ないので、これが見過ごされているほど、《探しもの》が見つかるタイミングも遅くなります。

本人が納得の上でそれを選んでいればストレスは少ないとおもうのですが、

《探しもの》が見つからないとどうなるか、というのは一度考えてもいいテーマなのかなと「個人的には」おもいます。

そもそもそれを探しているのはなぜで、どう必要なのでしょうか。

で、こちらは個人としてでなく、コーチとして伝えたいのですが、

一般的なアプローチが、「それが ”ないとどうなるか”」という視点だとすると、

「それが "あったら何ができる?"」というのが、コーチングのアプローチなんですね。

同じじゃん、と感じるでしょうか?

確かに、とる行動は同じかもしれません。
でも、同じことをするにしても、不安が主導なのか、モチベーションが主導なのかでまったく違ってきます。


取り組む時間も違うものになるし、短期的な結果はもしかしたら同じものに着地するかもしれませんが、長期的にみてもたらす変化が俄然違ってくるとおもうんです。

問いは考えかただからですね。

不安が主導のほうが動機は「強い」でしょう。
生存本能に作用するというか、不安を解消したいという欲求のほうが行動には強く出ます。

でも、そのストレスの強さから、短期的に解消しようとしがちですよね。
インスタントなものを手にしたくなり、《とりあえず何か》やる、という構図が生まれやすい。冒頭に述べた《対症療法》の場面です。


一方で、わくわくするようなアプローチ、と書きましたが、これは《自らやってみようとおもえる状態をつくること》だとおもうんですね。

こちらは危機感としての即効性はそこまでありませんが《長続き》します

手にする結果が同じだと仮定して、不安に追い立てられながらそれをするのと、自らやってみようとおもえる状態でそれをするのでは周囲に及ぼす影響も違ってきます。

何のためにやっているか意識的でいる時間が増えますし、何につながるのかに自覚的になります。


不安の解消のために選ぶ行動は、最適(と感じている)というより、急を凌ぐ意味合いが強く、差し迫ったものに動かされている状態。


わくわくする、という言いかたはすこし曖昧ですが、これ以上の表現はいまのところしっくりくるものが自分になくて、今は書けないのですが、よろこびとかうれしさ、溌剌さのような、能動的なニュアンスがある。


本心、という言葉を使うこと自体が、生活の中にどのくらいあるかを考えると、自分がいかにそれを後回しにしているか見えてきます。

何か変化を伴うような行動には、それまでと同じところを見ているだけではむずかしくて、本当におもっていることに焦点を当てることが大事なんだとおもうんです。

本当におもっていることって自分以外の人にはやっぱりわからなくて、想像に長けた人が言い当てたりできることはあっても、《わかっている》のとは違うとおもいます。


そこに、ごまかさないで時間をかけてみること。
自分が取り組み続けることができるような手法や手段を自分にインストールしていくこと。

セッションはそのための行動を確認し続けていく時間なんですよね。


そして、わからなくても、すぐにわかろうとしないこと。

特にコーチ側が、ですが、焦っても意味がない部分を扱っていることに自覚的でないといけません。
常に冷静に、目の前で起きていることを観られなければいけないとおもいます。

依頼者本人がじっくりと向き合って、そこからの自分に活かしていくための何かを認識したり、確認したり、構築するような時間。それを重ねるサポートをすること。

わからないのグラデーションに付き合うのは、簡単ではないですが、やっぱりたのしいことです。

その人のことを本当にサポートしたいとおもっていないと不可能で、その分、コーチにとっても毎回が特別な時間になるからです。

こんな冒険は他にはなかなか、ないような気がします。


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今日は《わからないのグラデーション》について書きました。

読んでいただきありがとうございます。

ここまでの言語化ができるのに自分も時間がかかりました。

コーチングって、使わないほうがいい言葉とか、言葉としてかけられる励ましに制約があったり、承認以上の称賛とかあまりできなくて、勇気づけたいけどその仕方に迷うことも多いんですが、そのぶん、

《黙っている》という反応にバリエーションがつけられるようにコーチ側が非言語の部分を鍛えるのって大事だなとおもいます。能動的な非言語表現というか。

これまで経験してきた、言葉に頼らない(頼れない)仕事や生活のなかで学んだことが本当に活きているとおもうし、もっともっと磨いていきたい部分です。


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