【記録用】 いちばん大事なしごと。
海の外に出かけられない時期が続いている。
どうにかして、外に出ることに求めていた効果を得たいとずっと考えているけど、なかなかむずかしい。
何を求めているか?
これはひとことでいうと《視点》で、これが逆転したり、おおきくズレたりする体験が、自分を保つための要素として自分には不可欠なのだとおもう。
総じて「自分(のほう)が、違う」と感じさせられる体験は自分をニュートラルの位置まで戻すので、客観的な視点につながる。
そんな2月半ば、ソニーミュージック六本木ミュージアムにたどり着く。
2018年にリヴァプールで開催されたもので、ジョンの没後40年となった2020年の10月から開催となった今回の展示。
夕方からのミュージアムは賑わっていた。
今日はその記録として、考えたことを。
モラルに支配されないこと
こうすべき、という出どころ不明の考えかたを他者に無言で強要することを、同調圧力と呼ぶのだとおもっている。
それが強い環境では、自分としているだけで疲弊する。
頼むからかまわないでくれとおもうことが多すぎると人は混乱していって、合わせることができない自分のほうがおかしい、とおもい始める。
と、おもっているのだけど、判断をモラルに奪われる、というのはとても身近なことで、誰もその理由を言えないのに、「そうすることになっている」というだけでそれが続いているのを目にしてびっくりすることがある。
そして、自分がなくしたくないのは
この驚くという感覚なんだなと気がつく。
人はすべての感情の前に驚いているという。
まず驚いてから細分化されるということらしい。
同調圧力に耐えている人たちはたいてい「同調しなくてもいい」という選択肢を持っていない。
彼らにとって、違うものを違うと声をあげてくれてしまう人が脅威となるのは、自分が必死で《ないことにしたこと》を、「実際にはある」と蒸し返されるためで、これが迷惑なのだとおもう。
一方で、違うんじゃないか、と感じて行動をする人たちは何をしているかというと、自分のアウトプットのために自分を保つということを、義務(やらなければいけないこと)だと理解し、そこにコストを払っている。
BEAR POND ESPRESSO の田中さんは「コーヒーの人」の中でこう言っている。
「バリスタの仕事は日々の充実度を見せること」
コーヒーのために店に足を運ぶお客さんにとって、コーヒーは毎日飲むものだが、
どこで、というか、 "誰の" コーヒーを飲むかは毎日のすこし大事な選択で、そこで毎回自分たちの店を選んでくれるから毎日会うことができる。
その人の生活のなかに自分たちがいる、誰かの生活の一部になるというのはすごいことで、その関係自体に価値があるが、
充実度を感じてもらう、毎日、それを見せるにあたって、
違和感に気がつく自分を保つことがいちばん大事な仕事だと考えている。
これは疑問をもつことができて、それに自分の結論を出すことができるということ。
" 一般的に " 正しいとか、そうでないとかではなく、自分がどうして違うと感じるのかについて、ある程度は解明していることが必要だとおもう。
環境が限定され、意識に変化がなくなるとどうしても発想が狭くなりがちで、それは、生活に予想外のことが減るから。
価値や文化の違いがあたらしい視点を生む。
あたらしい視点はものの意味づけを変えることができる。
そういう意味で、毎年2週間ないし3週間は日本を離れるようにしていたことは、むしろ義務に近いものだった。
それが簡単にできなくなって、あたらしくわかったのは、あくまで代替の方法としてだけど、賛成したい価値観は圧倒的にこれ、というものに触れることで似た効果がある、ということ。
《強みを活かす》 の前段階
「どうやって強みを活かしているのか?」
という質問をこの2週間ほどで2人の方から受けた。
実際に活かしているのかどうかは見ている人の判断に任せるとして、
これはマッチングの話だとおもう。
自分が持てるものの発揮の場を自分で整える、誰かにとって価値になり得る部分をその誰かに出すということだけは、ずっと考えてきている。
これでいい、という確信があるわけではなく、少なくとも自分にとって違和感のないものを採用している、というだけで、もっといいアイディアがあればいつでも変えるつもりでいる。
扱う対象がコーヒーや料理でも、無形のコーチングだとしても、基本的にはいっしょで、段階として、まずはいろんなひとを受け入れたり、受け入れられたり、ということもやりながら絞っていく。
より自分が合うと感じられる人に焦点を合わせて提供の仕方を変え、相手にとっても、もしかしたら自分はそうなのかも、とこちらが感じさせてもらえる人を探す。
その相互バランスがとれた状態をきちんと保てる相手との関係を結んでいく、ということに尽きるとおもう。
私の場合これが成立するのは、「コミュニケーションをとります」という姿勢を示してくれる人で、今も昔も、とにかく《ちゃんと伝えてくれる》お客さんが多い。これが本当にありがたい。
そうしてほしいと頼んだわけじゃないし、理由はわからないけど、本当に「自分から伝えてくれる人」が多くて、
そういうお客さんに育ててもらうと、自分の出しているアウトプットに対して「こういうことでいいんだ」と自分が理解していく。
そのうち「違う人」がわかるようになる。これは自分にとっての、合わせるべきでない人という意味。
「自分が接して嬉しいのはこういう人たち」という設定が先にできたのは何よりの資産になった。
自分の中にあるその設定が、関わる人を自動的に分けはじめるから。
関わる人間が決まる過程がセンサー機能によって楽になるのは、精神的負荷が減ってとても楽。
「こういう人に喜んでもらうことが自分は ”こんなふうに” うれしいんだ」
という体験を重ねさせてもらった時代のお客さんが、自分の感覚を自立させる助けをしてくれたからこそ、いまのお客さんに出会えたし、関係をつくる努力を続けられる。
それはこれで間違えていない、と自分がおもえるからで、この納得感は何物にも替えがたいもの。
自分の表現を喜んでくれる人に出会って、その人に向けた感性を磨く時間が自分を伸ばす。
どうやらこうらしい、というレベルじゃない、実感を伴った確信に近いものは、《こんなふうに》の中に詳細があるとおもっていて、相手の何通りもの反応が自分に蓄積されることで分母が増えるので、結果として答えがシャープになる。
《反応》はあくまで自分の行動に対しての《反応》となるので、同じ数だけ自分も相手に差し出しているアウトプットがあるはずなんだけど、
この行動を省いて世界とやりとりしようとする人が割と多いと感じていて、ここは何と説明していいか正直わからないけど、とにかく、
想像でなく、情報でなく、「具体的に思い出せる体験こそが強い」と自分が信じていられるのは、この蓄積があるからなんだ、としか言えない。
だから、私は完全に「挑戦推奨型」のコーチであり、バリスタであり、調理師なのだとおもう。
どれを出すにしても価値とするものがあまり変わらないので、相手主体のサポートをすることが立ち位置的にすごくしっくりくる。
自分でやってみてどう感じたかという結果や、それを受けて自分がどうしたいか、自分でわかっていることが価値が高いんです、っていうのが芯にありすぎて相手も相当に鬱陶しいだろうけど
言うたらこのウザさが相手にとっては違和感であり判断材料になる。
「なんかこの人の言ってることわかる気がする」みたいなすごくいい人や、すごく変な人だけがお客さんや仲間や味方になってくれるようになるし、
それ以外の(ほとんどの)人に、こいつ何言ってるかわからん、っておもわれるのは、最初は嫌かもしれないし、それが惨めに感じるかもしれないけど、
すでに世界のどこかに自分のウザさをいいって言ってくれる誰かを見つけることができているなら、自分を出すことに迷いなんて感じなくていい。
ほとんどの人にアホと定められても、自分が関係を育てたい人たちが確保できていれば何も問題ない。
そんなに多くの人とはそもそも付き合えないし、
自分のアウトプットを受け取り喜んでくれるというのは、いっしょにその価値を信じてくれているということなので、自分もそれを信じてみるのはどうでしょうか、という話。
長所、短所というものはない。
長所、短所は何ですか?という質問の答えは「状況による」一択だよね、という話を友人とよくする。
強みは、求められている場所に出したときに強みと呼ばれる特性のひとつでしかないので良し悪しはない。
それを価値だと感じる人の存在がそれを、強みにしてくれる。
もともと相対的なもので、まず比較があるし、
見方が変わっているだけで、それそのものが変化するわけではない。
たとえば
好きなことを楽しんでいる人がいたとして、それを見てなんかいい感じだなっておもうのはあくまで周りの人たちであって、本人は昨日も今日も楽しくエスプレッソを抽出しているだけだったりする。
8オンスの量で最初から最後までラテをおいしく飲ませるにはこの温度しかないとか、誰々さんはこれが好きだから絶対これも好きだなとか、明日はこうしてみようって考えて楽しんでいるだけ。
でも、その景色をみたい、とおもう人が増えればそれで店が一軒建つ、ということさえあるのがこの世界の素敵なところだとおもう。
状況と求められているものが先にあり、
そのなかのどれに、自分がより深く関わりたいか、というのが決まった状態で初めて、あくまでその課題に対しての長所、短所が決まる。
たいがい問題はひとつということはなく、複雑に絡み合っているので、逆にいろんな特性を活かせる部分があるのだけど、
どんな人にどの自分を出してみたときにどうだったのか、という体験を自分のプロファイルとして昇華させることができていないと想像がしにくい。
感覚で理解していることを言葉に落とし込むのは作業としてとてもしんどいので、なかなかしっかり言語化されないけど、ここは不可欠なことだとおもう。
他人に説明する必要は必ずしもないけれど、人が絡んでくる領域のことをやりたいとしたら、
自分の中で腑に落ちる程度には言葉になっていたほうがいいとはおもう。
他人に自分や、自分のやろうとしていることを理解してもらう必要が出てくるのなら、という話ではあるけど、
ここをやらずに相手に理解を求めるのは結構ハードルが高くて、それは
伝えたいことがあるのは自分なのに、相手に寄り添ってもらわないといけない、という構図になってしまうから。
「活かしかたがわからない」の、そのわからなさはこのあたりじゃないかとおもっている。
情報(体験からの記憶)が足りないなら、体験を増やしたらいいし、
内省(プロファイル昇華までの過程)が足りていないなら言葉になってくるまで何度でも向き合うしかない。両方を同時にやることが一番効果がある。
当たり前だけど時間がかかるし、楽ではない孤独な作業。
だけど、強みを活かしたい、と考えるなら、そういう時間をこそとったほうがいい。
インスタントなもの、すぐに答えが出ることが標準になってしまっているから、この辛抱ができない人も多いけど、辛さを抱える分、しなやかなものとして自分に残るし、その長期的な価値は、簡単に得られるものよりずっと高い。
大変な作業ではあるけど、やりはじめると、実際には楽しいことも多い。
「自分ならどうするか」「どうするのが自分らしいとおもうか」って考えながら毎日いると、
「これ、同じことを他の人がやってもこうはならないよな」ってある日突然おもうようになるというか、こういうふうにすればよかったのか、とわかるというか。
ダウンロードとインストールに似ていて
ちゃんと自分の中に落としこんだものについては適用ができる。
どこかからのダウンロードだけで解決しようとすると、ずっとどっかから引っ張ってこないといけないので終わりのない作業になる。
自分の中に育ったものは折れにくいし失くしにくい。
そういうのは座学だけでは手に入らないということだけは、なんとなくだがわかってきた。
「その人のどの部分」に投票するのか?
とはいえ、みんな忙しい。
その場を凌いでいるだけでは前に進まない。
でもそれ以上後退しないことも大事。
どっちもやらないといけないからこそ「何かが間違ってる」と気づいた時点で立ち止まることが優先になる。
その選定をするのが違和感というセンサーで、ここが鈍っていて機能しない状態は本当に危ない。
なんかおかしいとまず感じることができないと、そのあと建設的な考えに発展していかない。だって気づいてないんだもん。
考えた量や回数が少なかったり、見ている角度が少ないと、決めたことに納得感がもてない。
納得できない状態でも進めることはできるかもしれないけれど、たまたまうまくいってしまったときに、ざっくりしたイメージで決めていいんだ、という解釈を自分にさせてしまうし、
うまくいかなかったときは悔やみという呪いになって浅はかな自分にかえってくる。
違和感を無視しない自分でいることが、必要な時にちからを発揮できる状態にしてくれる。
それが自分の価値をいっしょに信じてくれるお客さんに対する敬意なのではないか。そんなふうに考えている。
「お客さんは喜ばせてあげたら絶対に帰ってきてくれる。」
これは以前つとめたお店のシェフの言葉なのだけど、本当にそうで、その「喜ばせる」の裏にあるシェフの「めちゃくちゃ考えた感」を強烈に感じながらそこで働いていたので、私はこれを信じきっている。
(これが覆ることがあるかといわれたら、今回の人生では疑わしいとさえおもっている。)
そのお店は毎日予約で満席だったし、2020年、2021年のこの状況でも「ピンチはチャンス」とばかりにあたらしい展開をしている。
無鉄砲さとは無縁の緻密な計画であることは、少しでもお店に入ってシェフの仕事を見ている人ならわかる。
できることを探して工夫をやめない人のセンスに、意志に、そして、「どうせやるならこのほうがおもしろいでしょ」というあたらしい視点に、
たぶん人は投票したくなるのだとおもう。
行動の判断軸がその人本人のもの、固有のものだと感じられるから、信じられる。
それを持つことがどれだけ大事なのか教えてくれるのは、いつも、《自ら創り出している》人たちだった。
そういう人たちはだいたい、同調圧力の対極にいる。
選んだアウトプットの形は関係ない
なにで届けるのかはそれぞれだけど
自分の信じるものがあって、それを保つために必要なコストを払っている人は自分の表現を守っている。
いわゆる芸術とされる範疇になくとも、これは姿勢の問題だから関係がない。
形になったもの、というのはあくまでも結果で、
その形にするまでに下した、《自分に則した無数の判断》がアートということなのかもしれない。
自分を簡単に明け渡さないことの大事さを、そのむずかしさを、本当はみんな知っている。
でも、簡単ではないことだから価値がある、というのとは少しちがって、
どちらかというと、そうあるべきもの、もともともっているものから《離れすぎていない》から、価値があるのだとおもう。
自分も含めて、人は《変えなくていいこと》を変えようとしすぎなんじゃないか、ということを嫌でも考えさせられる体験は貴重で、
それはこれまで自分が定期的に確認を必要として、わざわざ外に足を運ぶことで「やっぱりそうだよね」って確かめていたものと同じものだった。
挑むというのは、単に反発することじゃない。
これに対してこうだと自分はおもうから、こうする、という投げかけ。
無条件降伏を求めるような同調圧力に異議は唱えるが、それ以上相手を否定せずに淡々と自分のことをやる、というスタンスなんだとおもう。
今回は記録用の記事でした。
読んでいただきありがとうございます。
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