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「Let It Be」「Runaway」「Alright」という内的闘争の帰結、"かるみ"について

はじめに

今回は、The Beatles「Let It Be」、Kanye West「Runaway」、Kendrick Lamar「Alright」という3つの楽曲を中心に、ドストエフスキー 、ビリー・ジョエル、ブルーハーツ、夏目漱石、太宰治、ピカソ、スタンリー・キューブリック等にも通ずる"かるみ"について、芸術家が導き出す人生に対する解答がほとんどその一意に定まること、そしてそれが過度に感性的、もしくは過度に理性的に生まれてしまった人間にとって(死を除く)最良の解答であることを証拠立てたいと思っている。

まず芸術家は、前提として感性的であり、例外はあれど、ある程度には理性的である。その上で芸術家とは、強烈な自我を持ち、それを表現しなければならない必然性に呪われた境遇の傀儡である。
また創作の衝動に呪われることがなかったとしても、感性的であることは、つまり外的要因なしに悲しみや苦しみが創造されうることは、世界に対して広く目が開かれていることは、自分と直接関わりのない事柄に懊悩するのは、不幸である。
理性的であるということは、つまり常に自己懐疑的であるということは、世界の複雑さに正しさと整合性を持たせようと躍起になるのは、不幸である。
そしてそのような強烈な自我に囚われることは、不幸である。
しかし、そう生まれたのだから仕方がない。私たちは、ありのままで良いのではない。ありのままでしかありえないのだ。"あなたはそのままではまずいが、そのままでしかありえないのなら、しかたのないことだ。"
こういった諦観を、もしくは単なる事実を美に昇華したのが前述の3曲であり、もはやここにたどり着くまでの道程やその葛藤、この帰結を美に昇華させることこそが芸術の営みであるとさえ思える。
そしてこの諦観は、世界の醜悪さを諦めることではない。世界の醜悪さと絶えず戦うことを宿命づけられた、世界より重大で宇宙より広大な自我と戦うことを諦めることだ。芸術家は、強いから戦うのではない。優しいから戦うのではない。戦わざるをえないから戦うのだ。
例えば特にロックやHiphopという音楽ジャンルに身を置くアーティスト、そしてそれに心惹かれる人間は、その成り立ちと有り様からして、激情に駆られながら、時に鬱々としながらも戦い続けることを決定させられている。
つまりこの諦観は、そういったままらない自我を受け止めることだ。

またこれも前提として、そういった自我を持つ人間に生まれること自体が最も大きな不条理である。
広い視野と慧眼を持たされてしまった人間は、例えばこれほど娯楽に溢れた時代にわざわざ本を読む人間は、映画や音楽を(娯楽を離れた)芸術として鑑賞する人間は敗者かつ弱者である。
他所の戦争や差別なんて全く気にせず、人生を人生のみで楽しめてしまう人間の方が強者かつ勝者である。
"人生楽しんだもん勝ち"は、どうしようもないほど不都合な真理である。バタイユ「眼球譚」の有名な一節"他の人間にとってはこの世界はまっとうなものに思われる、そのわけはまっとうな人間は去勢された目をしているからだ。"
人生が苦であるという前提を持っている人間と、そうでない人間は分かり合えない。"幸運の星の下に生れた人は、夜の夢の中でも幸福であり、悪しき星の下に生れた人は、夢の中でさえも、二重にまた不幸である。"
その後者に生まれてしまった不条理に、憎らしい感性を持って、"苦々しい"美という人間的な仕方で抵抗したものが芸術なのである。
そしてその芸術の果てにある諦観とは、こういった本質的な不条理を、咀嚼なしに嚥下してしまうことだ。

鬱、PTSD、ネガティビティの極地に、闘争の果てに、諦観という死以外の救済がある。これを"悟り"ともいう。それを美的な仕方で証拠立てることが芸術の営みであるとさえ思える。
ではその意味で、上記の楽曲について話す。

The Beatles「Let It Be」

この楽曲は、ポール・マッカートニーによって書かれたまさに諦観を表す楽曲である。ビートルズが瓦解しかけた時期に制作されたこの楽曲には、ポールの複雑な想いが詰まっている。

しかし、他メンバーからは不評であった。特にジョン・レノンから不評であった理由は、キリスト教的な意味に、世界の有り様に異議を唱えないような、悪を見て見ぬふりをするような大人びた優等生的な態度、つまるところロックとはかけ離れた意味に解釈したからであろう。
例えばジョン・レノンの代表的な楽曲「Imagine」は、平和やユートピアへの信仰といったパブリックイメージとは異なり、ユートピアの実現に肉薄した、つまり祈りを離れた平和のための闘争の歌であるように思われる。「Imagine」は、物質主義、ナショナリズム、宗教という、イギリスの構成要素とさえ思える部分を真っ向から否定した、過激な歌である。
例えば物質主義、ひいては資本主義は、悪である。悪ではあるが、最悪ではない。むしろ社会システムにおいて最良である。そして資本主義という悪でありながら最良でもあるシステムそれ自体を批判しようとするジョン・レノンのユートピア的な左翼思想は、芸術的である。
脱線するが、人間の言動を帰納的に基礎づけることを目指す試み、例えば精神科学や心理学も、芸術的である。実証主義的に、唯物論的に私の外側に客観世界を作り出そうとする試みも、芸術的である。"なぜ何もないのではなく、何かがあるのか"を探究する試みも、芸術的である。前述のように、芸術は不条理に対する人間的な抵抗としてあるように思われる。
そのため、三島由紀夫が述べたように、それらは実現しないから芸術的なのである。不条理に対する終わりのない闘争であるから芸術的なのである。

同様に、宗教も悪だ。人の生き方を定めるということが、もはやいかなる理由をもってしても許容されない時代が到来しつつある。近代とはそういう時代だ。実際にジョン・レノンも、"キリスト教はなくなる。いつか衰えていって消えるだろう。"と1966年の時点で述べている
差別や戦争、多くの犯罪が悪である理由の大きなひとつは、誰かの生き方を定めてしまうからだ。同様の理由で、宗教教義とその副産物は、社会全体から見れば明確に悪だろう。多様性や反差別を訴えるにあたって、反宗教教義的であることはもはや必須である。
例えば福音派の、キリスト教原理主義の、権威を持った教会の保守的な思想は、ジョン・レノンにとって、また私にとっても格好の仮想敵である。私は"Gimme Some Truth"を口ずさみながら、"古きものを、古きが故に正しとみる蒙昧の失われんことを"切に願う。

その点で、ジョージの宗教に対する態度は素晴らしい。一般にヒンズー教徒とされるジョージであるが、妻オリビア曰く、"彼はいかなる宗教団体にも属していませんでした。罪や神秘を信仰に掲げる宗教団体の教えや教義を受けつけることなく、すべての宗教の神髄を信じました。"とある。
私もこの態度でありたい。時代遅れで間違った文言、神話や信仰に対する文言は取り去って、様々な宗教の優れたところだけかいつまんでしまえばいい。神への冒涜だといわれるかもしれないが、結構である。
私たちが懸命に、そして幸せに生きようとすること以上に尊いものはない。それを実践すること、信仰することにおいて必要とあらば、神や宗教教義なんてものは踏み潰されるべきだ。
キリストがジョン・レノンやジョージが解釈するような人物であるならば、これを是とするだろう。

また念の為に注釈しておくが、私は反宗教教義、もしくは反宗教権威であって、反宗教信者ではない。思想や言動のコンテクストを考えることの重要性については過去何度も触れた。例えば私が敬虔なクリスチャンの家系に生まれたら、私は確実にクリスチャンだっただろう。
私は論理的観点からしても、倫理的観点からしても、人を憎まないことが正当であると思う。
だからそうあるよう努めている。ただこれは険しく困難な態度だ。これが実践できた時、私こそがキリストなのかもしれない。

話がだいぶ逸れたが、この楽曲を理解するにあたって、当然ポールの宗教観にも触れておきたい。ポールはその宗教観を公にすることはほとんどなかったが、神を信じていないことは公にしている。また、組織化された宗教を多くの問題の原因であるともしている。(世界の歴史と現状を見れば、これに異議を唱えることは不可能だ。)さらにポールは、"Mother Mary"が聖母マリアではないことにも言及している。
そのため私は、この楽曲が、ポールがカトリックの洗礼を受けているというだけでゴスペル的な文脈にとることは根拠に欠けるような気もする。(もちろんその影響を受けていることは確かだが)
つまりビートルズは、1965年に述べたように、全員が神を信じていない。そして同時に、全員が反宗教的な訳でもない。ロックの文脈にはロジャー・ウォーターズ、ノエル・ギャラガーなど明確に反宗教的なアーティストもいるが、ビートルズは反宗教であることもグループとして否定している。

ゆえに「Let It Be」は"叡智の言葉"なのだ。人生に疲れ果て、試行錯誤し続けた理性的かつ感性的な人間が到達する生のうち最期の座標なのだ。
奇しくも"牧師"ジョセフ・マーフィーの金言"考え疲れた時点で、結論となる。"
戦い尽くし、考え尽くした先にあるものは、やはり諦観なのである。己の大きさを知ることで、己の無力さを知るのである。己の思うままに、闘争を止めることを諦める。諦めることを諦める。
こうしたデカダンな態度は、生きていくほとんど唯一の動機になりうる。己が身を虚しく、そして諦めた時、ふと笑いたくなるような涼風が身体を抜ける。なるようにしかならないのだから、なんでもできる。これが「Let It Be」であり、ポールの"悟り"、といえばなにやら宗教的で重苦しい。
これを松尾芭蕉が素晴らしく言い換えたのが、"かるみ"である。
この諦観が、"かるみ"なのだ。

しかし、カニエの「Runaway」とその考え方は宗教と切り離して語ることは出来ない。
では、ポールと異なる極めて信仰的な諦観に至ったカニエの闘争の帰結を見ていこう。

Kanye West「Runaway」

この楽曲はあの乱入事件のおかげで、キャリア最悪の風当たりの中制作された、誰もが認める2010sの大傑作「My Beautiful Dark Twisted Fantasy」において、カニエの大仰で傲慢で自分本位な謝罪、そんな強烈な自我に対する結論として提示された。

まずカニエは、彼の完璧主義と憂鬱を丸ごと肯定するように、自分とこの世界の醜悪さに"乾杯し"、世界に、愛してくれる女性に、そして自分自身に"出来るだけ早く逃げろ"と告げるのだ。
自らの下劣さとそれに伴う誠実さが同居するリアルな1stバース、実際的な物質主義を肯定的に捉えるPusha Tの2ndバース、不完全な自分を反省しながら孤独への不安感を吐露する3rdバース。
そしてアウトロの言葉にならない吶喊、カニエの苛烈な自意識に、世界の淀みに、つまり不条理にかき消された言葉たち。ここでの機械音は心からの謝罪かもしれないし、開き直りかもしれないし、自殺願望かもしれないし、不条理に対する呪詛かもしれない。
カニエは全てを受け止めるのではなく、逃走という"かるみ"を目指した。なにもかも仕方がないと開き直ったような"かるみ"を目指した。

そこで見出されたのが神なのだ。
サルトルが"人間は自由の刑に処せられている。"と述べたように、少しも規定されないことは自我に囚われることでもあるため、もはや不自由である。
つまりカニエは、"The World Is Yours"を、絶望的な意味にとった。そして自我からのRunawayを、神に見出したのだ。金の奴隷、システムの奴隷、自我の奴隷から解放されるために、神に仕えた。神の奴隷になる選択をしたのだ。

そもそも私たちはみな境遇の奴隷だ。
服従することで得られる自由。自分自身からの解放。真の自由。自分の中に他人を住まわせる自由。「Off The Grid」は、窓の外と中との入れ替えによる自由であった。その他人は、私たち奴隷の主人は、境遇であり、システムであり、確率論的決定論であり、力学である。
ここでその主人を選択するにあたって最も優れているであろう、全幅の信頼をおけるであろう、かつその奴隷であることを厭わない存在こそがカニエとって神であった。それがカニエの考えうる自由の最大値であった。

しかしカニエのナルシスは、神への信仰を容易に超えてしまった。カニエの強烈な自我は、首元の鎖を引きちぎってしまった。そのことはこのアルバムの進行においても提示される。
そこで「Yeezus」が生まれ、「The Life of Pablo」で決してクリーンとはいえないが敬虔な信仰に立ち返り、「ye」、「KIDS SEE GHOST」で激しい憂鬱と疲労を吐露し、「JESUS IS KING」でまた救いを求めて正当な信仰を目指すのである。
そして「DONDA」の「Come To Life」に代表されるように、神へ仕えることによる自由を説き、同時に"Floatin' on a silver lining"、つまり絶望それ自体の美しさを肯定的に捉え、雲に乗って空を漂っているような"かるみ"に到達するのである。

しかし、カニエの悲劇からの、自我からの逃避行はいつも短く終わりを告げる。今回もそうだ。カニエの尊大さに世界は追いつけない。カニエの自我に比べれば神すら矮小である。
そして今でもカニエは"かるみ"を忘れたまま戦っている。カニエに救いはあるのだろうか

そしてケンドリックは、そんなカニエともポールとも異なる仕方で、"かるみ"に接近した。

Kendrick Lamar「Alright」

この楽曲は、前述の「My Beautiful Dark Twisted Fantasy」と双璧をなすほどの大傑作「To Pimp a Butterfly」に収録された。ここでこの楽曲が前述の2曲と異なるのは、「Alright」が正確には結論でないということにある。(実際同アルバム収録の16曲中7番目のナンバーだ。)
結論というよりむしろ、「To Pimp a Butterfly」というお手本のようなコンセプトアルバムの流れにおいて、「u」で強い後悔、自己嫌悪、憂鬱、PTSDをスピットした直後に流れだす「Alright」は、起承転結喜怒哀楽のどれにも属さないような、自暴自棄で狂気に満ちた諦観なのである。
この諦観が意味を持つには、アルバムの結論としてある「i」が流れだすまで待たなければならない。

「Alright」という楽曲だけでは、少なくともBLMのプロテストアンセムになるほど強い楽曲でもなければ、前向きな楽曲でもない。歌詞を頭から最後までしっかりと聴けば、単に私たちをエンパワメントするような意味にとることは難しい。
実際に私たちは、"Alright"でなかったからいま不幸であり、"Alright"でなかったからいま反抗しているのだ。"Alright"だけでは、戦いでも逃走でも諦めでもなく、無為な祈りである。
私たち皆が、過ちを犯さない神による計画の上にあることを無理矢理信じ込もうとするような態度である。
ゆえにケンドリックは、「i」において、"I love myself"を説いた。例えばBLMの前に、黒人たちの意識改革から始めなければならないことを、自尊心を持つことの大切さを説いた。これはKanyeの悪名高い"奴隷制は選択だった。"という発言にも通ずるものがある。

ここでやっと、"I love myself"という上昇的な機運を極限まで高めてくれるキーワードを持ってして、"Alright"は意味を持つのだ。
"権力者と抗議のプラカードに溢れるゲットーのような世界"で、今にも空が落ち、風が泣きだしそうな"時でさえ、ケンドリックは"強い心を持って笑う"ことができる。
つまりケンドリックは自我を諦めるでも逃げるでもなく、自我を強固にしてしまうこと、味方につけてしまうことで"かるみ"に接近した。相対的に世界を無力化しようと試みたのだ。これは「Imagine」を歌い、"全ての人が平和を要求したら、そのとき平和は実現するだろう。"としたジョン・レノンに近い考え方だ。
しかしこの考え方は、"Mad city"で"Good kid"であり続けた異常なほど強靭な自我を持ったケンドリックだからこそ達することができたものであるだろう。そのため一般人が安易に真似ることは危険だが、そういう強い人間の存在は私たちに勇気を与えてくれる。

例えば差別という不条理に対して私たちは、現状が良くなることを祈るばかりではなく、明確な目的意識と強い自尊心を持って行動し、開き直るような楽観的な諦観で、その強き"かるみ"を持って、世界に雄々しくこう叫ぶのだ。“We gon' be alright.”

他アーティストの例、"かるみ"の定義と有効範囲

これまでで、その仕方は三者三様ではあるものの、彼らのいずれもが"かるみ"に接近しようとしていることが分かるだろう。
ここで、ドストエフスキーの"かるみ"にも触れておきたい。ドストエフスキーは、芸術家全ては、不条理への抵抗の副次的な目標として、(意識的でないにしろ)美による人類の肯定を目指している。例えば芥川龍之介の「羅生門」も、スタンリー・キューブリックのほとんどの作品もそうだ。
しかし、現代の発達しすぎてしまった理性はこれを否定する。例えばヴィーガニズムアンチナタリズムというほとんど完璧な論理的正当性を持ち、かつ合理化と整合性のノイズとしてある、芸術において内在的な人間性を否定せざるをえない思想に対して、ドストエフスキーは沈黙することしかできない。
人類の肯定、すなわち芸術への賛美と、"肩の上にある"理性とのせめぎ合いで、本当に人間的かつ理性的な人間は、何も答えることができない。何ひとつ為すことができない。"かるみ"に到達できない。ドストエフスキーは、"安っぽい幸福か、高められた苦悩か"という答えの分かりきった愚問を、自己肯定のためのありもしない形容を、自ら諌める心を持たないほどに敗者だったのである。その結果が、地下室で手記をとるという世界と不条理に対する最も強力な抵抗だった。
つまり、怠惰、厭世、退嬰という、ニヒリズムという逆説的で異形の"かるみ"だ。全否定による"かるみ"だ。
そしてこれは、意外にも生きていくことを容易にする。幸福でさえありうる。ブッタやニーチェ、ショーペンハウアーなどニヒリストの帰結はここにある。
そしてニヒリズムによる"かるみ"も、闘争をやめることではない。彼らにとってなんの価値も意味も持たない苦痛があるだけの最悪な人生を、生きていかなければならないからだ。ニヒリストを怠け者だと思う人間は、強烈な自我を抱えたまま、ただ生きるという激しい闘争を知らないのだ。

しかしドストエフスキーは、キリスト教への信仰も相まって、人生の美しさ、人間の素晴らしさを諦められなかった。そこで最後に到達したのが、"Ура Карамазову!(カラマーゾフ万歳!)"に集約される、全肯定による"かるみ"だった。私にはこれが最も芸術的で美しい"かるみ"であるように思われる。これは全ての形式の"かるみ"の産みの親である。全否定による"かるみ"でさえ、これの裏返しだ。

ここに、私が考える"かるみ"が全て出揃った。
自我との闘争を諦める"かるみ"、自我からの逃走を図る"かるみ"、自我を強固にしてしまう"かるみ"、全否定による"かるみ"、そして全肯定による"かるみ"。これら全ては根本で繋がっており、大した差はないが、細かくカテゴライズするならこの程度に落ち着くのではないか。
では、今回取り上げた3曲、ドストエフスキーを離れて、まずは音楽アーティストの"かるみ"についても触れておきたい。
ここで、ロックとHiphopの文脈にあるアーティストにはあえて触れないでおく。なぜなら冒頭で触れたように、ロックとHiphopはそもそもその思想として、自我やシステムから物理的にも精神的にも脱するために、まさに"かるみ"を希求する形態であるからだ。そのため名前を出すとなれば枚挙に暇がない。

ただ以前その詩性について語ったように、ブルーハーツにはぜひ触れておきたい。なぜなら、今でもロックを真っ直ぐな強者によるものだと思っている人が多くあるように思われるからだ。そこで私は、特にブルーハーツは、偏屈な弱虫による、偏屈な弱虫のためにあるものだと主張したい。
ブルーハーツの"かるみ"についてはいうまでもないが、ブルーハーツは、死んでしまった方がいいと思えるほどの苦悩も、世界の意地汚さも一切否定しない。それどころか、醜い世界と自分の崩壊の予感に何度も胸を踊らせる。ハイロウズでも例えば「即死」「モンシロチョウ」「スーパーソニックジェットボーイ」にもこの傾向は見られる。
そんなニヒルな厭世観こそが、人々をロックへ向かわせるのだ。

"かるみ"が重要なものとなるには、どうしようもない不条理を孕んだ世界にいま生きていることがまず必要だ。世界が崩壊するのであれば、つまり死ねるなら、それで良い。むしろそれが一番良い。例えばMac Millerが「Good News」で提示したように、死それ自体、死という状態は、少なくとも現世を生きるより悲しいものでも苦しいものでもない。死は少しも悪いことではない。
この前提はおそらくほとんどの芸術家が、ここまでこの文章を追うことができた人間のほとんどが認めるだろう。以前触れた鴨居玲は、その遺作「勲章」に表れるように、"かるみ"ではなく死によって自我から逃亡した。
同時に"かるみ"は幸福のためにある。生きていくためのものではない。"かるみ"などなくとも、幸福などなくとも、人は生きていけてしまうのだ。しかしどうせ生きていけてしまうのならば、幸福でありたい。そこであるのが"かるみ"だ。

また以前、Playboi Cartiの軽さについて触れたが、これはいわゆる"かるみ"とはまた別種のものだろうと思われる。あえて言表するのであれば、無意味による軽さだ。ノンモラルによる軽さだ。例えば爆音のギターリフ、マーク・ロスコの作品、童話「赤ずきん」、坂口安吾の小説の軽さに近い。
さらにいえば「Alright」それ自体の軽さや、いわゆる鬱ロック、サウンドクラウド世代のラッパーたちの楽曲、祈りの軽さにも遠くはないだろう。
それらは"かるみ"とは異なるが、美の本来に限りなく接近している。"純粋の美しさは、いつも無意味で、無道徳だ。"

やっとロックとHiphopの文脈を離れ、私が第一に思い当たるのはビリージョエルの「Piano Man」だ。これほどビターでかつ心を晴れやかにしてくれる楽曲はそうないだろう。これは全肯定による"かるみ"に近い。

ボブ・ディランの「Blowin` In The Wind」もそうだろう。これはケンドリックやジョン・レノンの"かるみ"に近い。
またこの楽曲は、人間と世界の複雑さの中ではっきりとした答えを出すことの危うさも説いている。Nasが東洋哲学から学んだように、全てはバランスだ。極端を避けなければならない。"グレイゾーン"にいなければならない。それは生存のためではない。幸福のためだ。"答えは風に吹かれている"のだ。

また文学界において、漱石は明確に神を見立てることこそしなかったものの、遺作「明暗」に代表される晩年の則天去私という思想は、カニエの目指した自我からの逃走を図る"かるみ"に近い。

ピカソは"芸術は悲しみと苦しみから生まれる。私の創造の源泉は、私が愛する人々である。"と述べた。これは明らかにドストエフスキー的な全肯定による"かるみ"だろう。

キューブリックの遺作「Eyes Wide Shut」は、「Alright」に似た諦観でありながら、情欲という自我に呑み込まれるような、自我との闘争を諦める"かるみ"。またはセックスの奴隷になることで、自我からの逃走を図る"かるみ"でもあった。

このように、芸術家は"かるみ"によってなんとか不条理に抵抗するのだ。不幸に生まれてしまった人間の解答もここにある。

おわりに

再三いうように、私たちは、死ねない。生きていかなければならない。これは倫理でも道徳でもなく、単に事実である。人生の苦痛について、死の不可能性について、殊更に語らなければならないのは、この世界に言い尽くせぬ不条理のひとつだ。
他人は、許しがたい正常さを持って在る。社会は、解しがたい異常さを持って在る。人生は虚しい。生きるのは苦しい。しかし、私たちは、他人と他人が構成する社会を内包した、いずれきっぱりと終わってしまう人生を、苦しみながら生きていかなければならない。
だから"かるみ"だ。太宰治が解釈するところの、“理窟も何も無い、すべてを失い、すべてを捨てた者の平安”を目指すのだ。
意味を捨て、責任を放棄し、ただ前を向いて生きるのだ。

太宰の文学は、芸術の表現の本質である婉曲と迂言をほとんど無視した禁忌ともいえるようなおしゃべり文学が多い。これは読者を信用していないからなのかもしれないし、自分の意図を誤解されることを拒む態度、もしくは自分をはっきり分かって欲しいとせがむような態度である。ピカソとは違って、寂しがり屋の弱虫だったのだ。
しかし太宰の凄さは、語りすぎることを、そのおしゃべり自体を芸術まで高めてしまうほど優れた表現力にある。
太宰はそのパブリックイメージとは異なり、日本近大作家の中では比較的明るい作品を多く書いているように思われる。太宰ほど明るいニヒリズムに、"かるみ"に憧れた作家はいなかっただろう。
それが凝縮された一文でもって、煩瑣で混沌としたこの駄文を締めくくりたいと思う。

“あとはもう何も言わず、早くもなく、おそくもなく、極めてあたりまえの歩調でまっすぐに歩いて行こう。
この道は、どこへつづいているのか。それは、伸びて行く植物の蔓に聞いたほうがよい。蔓は答えるだろう。
「私はなんにも知りません。しかし、伸びて行く方向に陽が当るようです。」”

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