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"天才"鴨居玲と芸術家の不幸

よく言われるように、鴨居玲の画業には時間性が埋葬されている。動的であるがまま、もしくは動的であるが故に静的である。
その遺作「勲章」にみえるのは、立ち返ったチープさだった。世俗への帰還であった。
鴨居玲は元々絵のテーマ性に重きを置く画家ではないが、この作品はあまりに分かりやすい。また、普段の絵に見られる血を吐くような激しい線画も見られない。ただほの暗いぼんやりとした呈色は、もはや絵の内容なしに死を予感させる。
鴨居玲の仮面を外した鴨居玲は、自意識を捨て去った鴨居玲は、この作品を最後に自らの苦しみをも永遠に捨て去った。腰を下ろしかけた世俗に別れを告げた。

鴨居玲は、自らの魂以外の何物にも接続しない。事実、晩年に書いたのは専ら自画像であった。(画家が、芸術家として優れているかどうかは、畢竟自画像の完成度の如何で決まる。)私は、形而下に依拠する芸術を歓迎しない。風刺に芸術性をみない。ビゴーはもちろん、小山田二郎や石田徹也、今日でいうバンクシーにも興味が持てない。反対に、シーレや深井克美、ルドンやサビエを愛好する。

このことは小説にもいえる。例えば太宰治の短編における、この意味での芸術性における最高傑作は「ダス・ゲマイネ」である。あえて風刺という言葉を使うのであれば、最初から最後まで自分自身への風刺である。(君主制への風刺であるとする意見は、的外れだ。)小説における芸術性も、ここにしか保証されない。
また私は、形而下に直接作用する形而上学にも興味が持てない。形而上学は、意味がないことに意味がある。形而上のことを考えつくすことで形而下の思考から逃れるためにある。例えば"役に立つ哲学"は、-役に立つという語の議論が必要になるが-言表から矛盾に近い。
音楽については前述である。

これまでで私の考える作品の芸術性の条件について述べたが、芸術家であることの必要条件は不幸であることだ。ここに可逆性はない。十分条件ではない。自らの不幸に宿命的な意味を見出して、芸術的な才覚を無意識のうちに自らに認めることは危険だ。意欲の元に才能は宿らない。進みたい方向にゴールがあるわけではない。人生は、不幸と意欲に溢れた凡人を、幾人も葬った。このことについて、ラッセルが素晴らしい言葉を残している。"モーツァルトやシェイクスピアのような才能がない限り、創作の衝動は恐ろしい呪いである。"

鴨居玲は、ずっと不幸だった。57年も生きてしまった。しかし、幸運なことに才能に恵まれた。いや、才能がない方が幸運だったのかもしれない。57年間も生きる必要がなくなっていたのかもしれない。
鴨居玲の不幸を、ひいては芸術家の不幸を敬意もなしにしゃぶるのが我々である。それどころか、芸術家に憧れ、そうなりたいと思ったりする。そんな健康で健全な不感症患者たちには絶対に分からないが、私が芸術に触れて思うことは、「この人に生まれなくて良かった」という安堵である。
私はこれから、鴨居玲に、芸術家に、なんの感傷も抱くことなく接したい。ただ作品のみを享受したい。それが、他人の不幸と死と人生の所有権を永久に放棄する潔白な、そして他人を最も敬う態度である。

そして、幸不幸は精神病の有無、家庭環境、セロトニンの受容体がどうだとかで決定されている。初めから不幸に生まれる人間の存在を認めなければならない。このことは、否定も肯定も出来ない。なぜなら、私はあなたではないし、あなたは私ではないからだ。
たとえそう生まれた人間でも、簡単に死ぬことは出来ない。生きていかなければならない。生きていかなければならないという言葉は、道徳でも倫理でも強制でもなく、単に事実だ。死の不可能性について殊更に語らなければならないのは、人生の理不尽の大きな一つである。憎しみでさえある。
我々はそうであるからそうであるし、そうしなければならないからそうする。我々は、ありのままで良いわけがない。ありのままで良いはずがないが、ありのままでしかいられないのだから仕方ない。このことが受け入れられる人、受け入れられない人がいるのも仕方ない。なぜなら、そうであるからだ。創作の衝動などなくとも、我々は皆初めから呪われている。

本当に天才的な芸術家に、会社員、学生、主婦、フリーター、ホームレスに指差して、「あいつになりたいか」と聞けば、仮面を簡単に取り去り、必ず首を縦に振るだろう。その真意はこうだ。
"ああ 僕であるまま おまえになることができたなら!"
-フェルナンド・ペソア-

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