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「風街ろまん」と仏教

芸術において重要なのは、なにを語るかではなくむしろ、なにを語らないかである。
郷愁に答えを出さないのが風街ろまんである。郷愁をただ現表した。変化への悲壮感も、恐怖もない。ノンモラル文学である。ある女生徒いわく、純粋の美しさは、いつも無内容だ。

このことは、仏教的な教義と激しく一致する。悟りは、我々が普段物事を理解すことと根本は変わりない。真理を深く考え、深く感じれば、人は成る。仏教の到達点は、真理を包含した無内容である。
芸術家は、美を追求するにあたって、物事を詰め込み、嚥下する段階で飲み込みきれず、窒息する。同じように、仏教徒も多くはそこに至らない。

ブッタは、人生は苦しみだという前提を持っていた。(幸福は、認識として誤謬であり、状態として異常である。)かつ、霊魂も、輪廻も、救いも神の存在も肯定しなかった。
ブッタの教えは、煩悩を持たない超越者になれというのではない。白痴になれというのではない。煩悩を前にしている私を横目に、私が、歩いていくことだ。未来を期待してはならないし、期待しまいと下を向いて歩くのもいけない。どちらも煩悩である。ブッタは極端を断罪する。執着してはならない。煩悩を捨て去ろうと努力すること、たとえば激しい修行をすることは、離欲を貪ることだとされ、それすら煩悩である。
私たちは、ただ、往く。今いる大地を強く蹴りあげ、新しい今へ到達するだけである。それを続けていけば、未来は開かれ、いずれ彼岸へ到達する。漱石の言葉を借りれば、ただ牛のように、図々しく今を進んでいくのである。見果てぬ先を見て、なにになるのか。見れぬ死の先を見ようとして、なにになるのか。ブッタは弟子たちに死後のこと、輪廻のこと、霊魂のことを聞かれ、こう答えた。「人生にそんなことを考えている時間はない。」
ブッタは否定しない。しかし、ナンセンスを放棄する。語りえないものについては、沈黙しなければならない。カント以降になってやっと発明された哲学の、ひいては思考の限界設定は、今から2500年ほど前から、ブッタの中で既になされていた。

仏教の教義を簡単にいえば、一切が縁起の中にあるということである。もっといえば、「私はない。しかし、私でないものもない。」これが仏教における真理である。つまり、本来の仏教はなにひとつ信仰しない。仏壇の前で手を合わせ、南無阿弥陀仏を唱える坊主を見て、仏教徒でもなんでもないのにそれをありがたがる人間を見て、ブッタはなにを思うのだろうか。戒名が刻まれた墓という大きな岩を見て、賽銭箱と仏像が置かれた仏閣という建物を見て、なにを思うのだろうか。私は、その時のブッタの気持ちを鑑みると、全て燃やしてしまいたくなる。もしブッタの教えが後世にそのまま伝わっていたら、仏教は哲学のひとつに数えられたであろう。私は、物欲と情欲と執着を携えた、利欲を貪るBuddhistである。それでいて、少なくとも日本の高僧の誰よりも本来的なBuddhistである。

しかし、既に死んでしまったブッタの気持ちを考えるのも、他人と比較するのも仏教に背くことだ。私たちは、さっぱりと、超然と、極めて当たり前の歩調で歩んでいかなければならない。色即是空、諸行無常を絶望的なものとして捉えているようではいけない。信頼に足る実体は存在しないし、変化は当たり前にあるものだからだ。
煩悩が頭をよぎった時、あの時楽しかったのにいま苦しい時、変わってしまった街の眺めを前にした時、なにひとつ気負わず、気をやまず、此岸を踏みしめ、ふざけた調子でつぶやくのである。ももんが〜


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