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THE BLUE HEARTS「月の爆撃機」解説(甲本ヒロトの詩について)

はじめに、ブルーハーツの詩について

私は、ブルーハーツの最高傑作(少なくとも詩において)を、「月の爆撃機」だと考える。
この詩は、戦争と自我を多様な視点から、同じ表現で抽象的に表したものである、と私は解釈している。

まず、ブルーハーツの詩の凄さは、その抽象度にある。抽象的でありながら、詩的であり、かつストレートである。なんといってもここが素晴らしいところだ。

例えば、「夕暮れ」という楽曲は、幸せや生きていくことについて歌っており、おそらく自殺を防止することを目的に作られた楽曲である。しかし、甲本ヒロトは、「自殺をやめろ」とは決して言わない。
もちろん、それを言ったら終わりであるから、という理由もある。反戦ソングであれば、「戦争をやめろ」と言ったら終わりであるし、恋愛ソングならば、「君を愛してる」と言えば終わりである。ここをいかに迂言するか、詩的表現に昇華するか、ということが芸術の表現の本質である。
それを当然理解した上で、彼は、他人の命を所有しない。無粋なことをしない。他人が、"私"の半径に、土足で踏み入ることを許さない。
それでいて、それゆえに、最も効果的、かつ最も心に突き刺さる詩を紡ぐことが出来る。

ちなみに、ブルーハーツはラッパーやHiphop好きにも多くファンを持つ。
他人を顧慮することによって他人と距離を保ちながら、抽象的かつストレートに伝えるブルーハーツ。他人をほとんど顧慮せず、己とその周辺についてのみを語るこによって他人と距離を保ちながら、抽象的にかつストレートに歌い上げるHiphop。
ブルーハーツとHiphopの接続は、ここにあるのではないか。

こういった理由から、ブルーハーツは、芸術性と文学性、共感性とメッセージ性を絶妙なバランス感覚で統合した詩をもちえたのと同時に、ロック調でありながらキャッチーな音楽性、解放的なパフォーマンスによって爆発的な人気を得た。と私は考えている。

そんな彼らの良さが全面に表れた「月の爆撃機」の詩は、音がなくとも成立する程の完成度である。そのため、できれば詩に注目しながら聴いて欲しい。
では、私の解釈を説明する。(これも無粋であるが、仕方ない。)

「月の爆撃機」解説

ここから一歩も通さない
理屈も法律も通さない
誰の声も届かない
友達も恋人も入れない

この一節を素直に解釈すれば、強い自我を持つある人間が、誰にも邪魔されないほどの強い意志で人生を突き進む、という意味にとれる。
しかし、後述のコックピットの中にいる「僕」の視点では、誰も入れない、誰の声も届かない物理的な閉塞感と、倫理や法を無視した戦争、とりわけ民間人への爆撃をすることに対する疑念と、今から自分がそれを行うという状況で、友人や恋人のことなどとても考えられないほど精神的な苦痛を受けていることも読み取れる。

また、爆撃される側の視点でも、倫理を犯した戦争に対する憤り、空を飛ぶ無機質な爆撃機に誰の声も届かないという虚無感、悲哀も読み取れる。
ここだけでも、2つの視点と3つのメッセージが込められているようにみえる。

手掛かりになるのは薄い月明り

ここで爆撃する側とされる側の二者を結ぶものは"薄い月明かり"だ。
これはお互いの共通倫理、お互いのお互いに対する理解の比喩である。戦争は、全ての闘争は、ただお互いが分かり合えれば解決するのだ。
しかし、後に喩えられるように、それは簡単なことではない。解決のための月明かりは、あまりに薄く、か細い。

また、"薄い月明かり"は、意志の決定をする時の手がかりであり、その意志によって開かれる未来を暗示するものでもある。

あれは伝説の爆撃機
この街もそろそろ危ないぜ
どんな風に逃げようか
すべては幻と笑おうか

"伝説の"という修飾を受けた爆撃機は、自我の中に生まれた空中楼閣という意味にもとれる。この一節では、ありもしないものから逃げようとしたり、狂いそうになるほど強い杞憂を表す。
そして、私たちはそんな疑念から逃走しようと考える。その究極の方法として、全てを幻として笑ってしまおう、と考える。
当然これは、精神的に追い詰められた状況下で正気でいるための最後の選択肢ではあるが、単にネガティブな意味を持つだけではない。
笑ってしまおうという諦観は、実際に、気持ちを楽にする。
不幸も苦しみもどうにもならないのだから、笑ってしまおう、という考えは自暴自棄にもみえるが、そういう境遇に生まれた人間にとって、この考えは、生きていく上で唯一の正答である。
また、ペシミストのシオランがいうように、"笑いは、生と死に対する、人生に対する紛れもない勝利だ。"

さらに、戦争というテーマで詩を追うと、これは爆撃される側の視点であり、"伝説の"という修飾は、言葉通りの修飾になる。
伝え聞くほどの爆撃機が、今にも自分の住む街を襲うという状況下で、あれこれ逃走方法を思案するが思い浮かばず、いっそ狂ってしまおうか、という意味になる。

手掛かりになるのは薄い月明り

そんな自我による不安から逃れる手がかりは、希望や他者からの救い、喩えるならば、"薄い月明かり"である。
暗い夜の爆撃から逃れる手がかりは、文字通り、"薄い月明かり"である。

僕は今コクピットの中にいて
白い月の真ん中の黒い影

孤独に隔絶されたコックピットの中に、"薄い月明かり"は届かない。同時に爆撃機は、月の影になり、地上に降る"薄い月明かり"を遮ってしまう。
皆平等に降り注ぐはずの"薄い月明かり"を二重に阻む爆撃機。希望や理解を阻む爆撃機。

何物も通さないが、どこか不安で孤独、理解や社会性を拒む自我の比喩にもなっている。

錆びついたコクピットの中にいる
白い月の真ん中の黒い影

コックピットが錆び付くほど時間が経っても、戦争は終わらない。"私"は変わらない。
コックピットに閉じこもっているような強い自我を持つ人間にとって、例えば「全ては自分次第」などといった言葉は、絶望的な意味を持つ。

いつでもまっすぐ歩けるか
湖にドボンかもしれないぜ
誰かに相談してみても
僕らの行く道は変わらない

この一節は、そんな人間へ向けた、強い意志で独り歩きを続けることへの婉曲的な忠告だ。
その上で、相談は、ありえない。"私"と他人の間には、無限の隔たりがあるのだ。甲本ヒロトは、これを知っている。
だから、それでも結局一人で真っ直ぐ歩いていかなければならない、というメッセージでもある。

また、コックピットに乗ってここまで来てしまった「僕」はもう爆撃するしかない。爆撃される「僕」も、誰かに相談したところで、もうどうしようもない。戦争という集団圧力と、それによる判断力の低下、物理的な被害、被爆者の絶望が、無感情に表されている。

さらに、ポジティブな意味にとれば、現代人に対して、反戦という意志を曲げずに持ち続けられるのかという問いかけと、それに呼応する強い意志にもとれる。

手掛かりになるのは薄い月明り

そんな争いや不安に溢れた生を、"薄い月明かり"を手がかりに、もがいていこうという詩である。と私は解釈している。

おわりに

ここまで想像させるほど懐の深い詩は、近年あまりみられない。しかし、甲本ヒロトは以前、今の音楽に対して(みんな良いと思う、と肯定した上で)、「今の若い人は歌詞を聞きすぎ。」と言っていた。
こんなにもいい歌詞をかける人間がこれを言うのか、とは思ったが、彼が言いたいことは、抽象度の話なのではないか。
歌詞は当然出来るだけ婉曲で、説明しない方が良い。そこをさらに煮詰めれば、音楽は、音だけで良い。
むしろそういった考えだからこそ、伝わらなくてもいいと思っているからこそ、抽象的な表現に、詩的表現に思いっきり舵を切れるのではないか。

甲本ヒロトはこう言うが、私は音楽の歌詞の意味も知りたい。それがアートの消費者として、アーティストに対しての敬意であるとも思う。
それでも甲本ヒロトは、自身と相反する私の考えを、勝手な解釈で無粋に説明しまったこの文章を、「良いと思う」と笑顔で言ってくれるだろう。


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