見えないし、見えすぎる
SNSをサーフィンしているとたまに見かける。
Twitterでのリプライの制限
YouTubeのコメント欄のオフ
こういったものには様々な事情があると思うのだが
一番の原因は、誹謗中傷対策だろう。
SNSでの誹謗中傷が問題になって久しい。
これが原因で悲惨な事件も起こってしまった。
先日閉幕した東京オリンピックでも
選手たちへの誹謗中傷が相次いだようだ。
なぜ人々は、SNSで悪口を浴びせてしまうのだろうか。
要因の一つに、匿名性がある。
SNSは本名も出さなくていいし
顔も出さなくていい。
だから直接悪口を言うというより
陰口を言う感覚と似ているのかもしれない。
やはり人に面と向かって罵詈雑言を浴びせるのは
どんな人でも気が引ける。
顔が見えないだけで安全性が担保されている感覚に陥り
軽々しく悪口を言ってしまうのだろう。
そう、これが「見えない」ということ。
◇◇
SNSの普及で人々はあっという間につながった。
数十年前だったら出会えていなかっただろう人にも。
それはいい意味でも、悪い意味でも…。
つまりは罵詈雑言を浴びせてくる人々にも
出くわしやすくなってしまったということだ。
きっと数十年前だったら見えていなかった悪口。
現代は見たくなくても見えすぎてしまう。
それも嫌になるほど大量に。
まるで全人類の嫌われ者のアイツのように
わんさかわんさか溢れている。
なぜだろう
誹謗中傷は連鎖する気がする。
誰かが言ったのを皮切りに
自分も加勢してやろうという気に
なってしまうのだろうか。
たしかに禁忌を犯したものは
非難されて当然かもしれない。
しかし必要以上に叩きすぎではないか?
SNSは悪口が転がりすぎている。
そう、これが「見えすぎる」ということ。
◇◇
SNSを作り上げた企業が求めていた世界は
こんなものだったのだろうか
違うにきまっている。
人々の利便性と健全なつながりを求めていたはずだ。
さぁ、一旦深呼吸をしてみよう。
もう一度、よ~く考えてみてほしい。
言葉は「凶器」だから
使い道次第で人を喜ばせることもできれば
傷つけてしまうこともあるということを。
あなたの顔は確かに見えなくても
あなたの「狂気」は必要以上に見えているということを。
あなたが何気なく使った「凶器」と「狂気」で
その人が永遠に戻ってこないかもしれないということを。
まぁ、きっと、なくならないんだろうなぁ…。
サポートしてくれる神がいるとかなんとか…。