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<私>の成立――哲学 科学の究極の問いへ 『哲学的洞察』by 永井 均 を巡って 増補改訂版

Introduction

ふと思ったが、確かに「我々」は(例えば何らかの他者の危急の事態において)「意識はありますか」と聞くことはあっても、「私はありますか」と聞くことはない。 

ここには哲学的洞察が潜んでいる。しかしそれがその姿を露にすることはない。いわば裏返されて不可視になった哲学的洞察だといえる。

<私> <今> <現実>

前掲書115頁「<私>の成立にも<今>の成立にも<現実>性という要素が不可欠」

やはりここが最大の肝であり究極の謎だ。今に至るまでこの究極問題は十分に解かれていない。《私》の成立でも「私」の成立でもなく「<私>の成立」への問い。これは哲学の究極の問題だろう。

「でもなく」ではあっても、相互関係性が維持された同時成立(時間は除去不可能)への問い。しかしそこには深い<隙間=裂け目>が穿たれている。

実のところ、この「<私>の成立」への問いという「哲学の究極の問い」は、最先端の理論物理学の探究をも含んだ「科学の究極の問い」でもある。

ここでの「相互関係性」も「同時(性)」も「隙間=裂け目」も、実在的(事象内容的)には存在しない。それらは<現実性>という全体領域に含まれる。つまりこの<私>の成立への問い自体がトポロジー的に<隙間=裂け目>を内包しつつ循環している。

前掲書132頁「無内包の現実性が中心性に概念化されるというよりは、じつは無内包の現実性が(予め)概念化されて中心性という概念を構成している」 まさにトポロジカルな循環構造(クラインの壺的入れ子構造)。

 実のところこの哲学 の究極問題は多世界解釈(一般に量子論の解釈問題)に見られるように最先端の理論物理学を含む科学の究極問題でもある。全く恐るべき問いだ。

それにしてもこの哲学的洞察が言葉によって記述されているということ。それを私が読んでいるということ。実に不思議で驚くべきことだ。類例の無い出来事としての「職人の明るさと自由」「落ち着いた、晴れやかな気分」(181頁参照)に満ちた哲学的洞察の記述である。

メモ『哲学的洞察』162頁「実際にするということは根拠(=理由)の外にある(中略)行為が理由で説明されるというのは仮構にすぎない(中略)生じた後では(中略)理由とかが働いたかのように、内的関係に取り込まれて理解される」

誤植についての本記事筆者と『哲学的洞察』著者永井 均氏のツイート

@hitoshinagai1 谷口さんにもお伝えしましたが、瑣末とは言え(意味が逆転する)誤植を見つけましたので指摘しておきます。153頁上段10行目の誤「公的言語の(属する私的語)」は正しくは「公的言語に(属する私的語)」だと思います。同頁下段は正しく「(公的言語)に」と印字されています。

永井均@hitoshinagai1
ご指摘ありがとうございます。153頁上段10ー11行目の「公的言語の属する私的語」は「公的言語に属する私的語」の誤りです! これは重大な誤記で、このままだと公的言語が私的語に属することになってしまい、とんでもない誤解を引き起こしかねません。 


カント『純粋理性批判』「誤謬推理」論から道元『正法眼蔵』「非思量」へ

104頁の「最も先鋭的な」 カント 『純粋理性批判 』の「「誤謬推理」論」の読みに同意。さらに105頁から106頁にかけての、「暗黙の(超越論的観念論の)出発点が非自己意識的に独在する<私>」という主張に強く同意。この論点は私の探究の出発点だった。

上記「非自己意識的に独在する<私>」は道元の語っていた「非思量」に関わる。道元は「不思量底を思量するには、かならず非思量を用いるなり。非思量に誰あり、誰我を保任す」(『正法眼蔵』「坐禅箴」の巻)と語っていた。

参照箇所

『正法眼蔵』「坐禅箴」の巻(一部)

以下引用開始

不思量底を思量するには、かならず非思量を用いるなり。非思量に誰あり、

誰我を保任す。

-----------------------------------------------------------------------------

以上引用終了

以下引用個所の試訳

「思量しないということ(Not-thinking)」を思量するには、必ず「思量ではないこと(非思量Non-thinking)」を用いる。「思量ではないこと(非思量という次元)」には、「誰(か)」が存在している。

この「誰か」(という次元)が、私を支え保っているのだ。(誰我を保任す)

以上試訳

この論点は、特に124頁の(デカルト 『省察』のコギトを巡る)記述(「コギトは間違いなく思考でも思惟でもない」「それはthinkではなくseem」「私は(演劇でいえば)舞台(映画でいえば)スクリーン」)にダイレクトに関わる。

それでもなお、「誰か=非思量(という次元)」が、<私>を支え保っている限り、一人称は除去不可能である。



附記 クリプキ クワス算 ローレンツ変換


クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス ――規則・私的言語・他人の心』におけるクワス算へのプラス算の変換で連想したのがアインシュタインの特殊相対論におけるローレンツ変換へのガリレオ変換の変換である。

「彼が依拠している懐疑の根拠を一般化するなら、それは彼の首を絞めることになる」(永井均『転校生とブラックジャック』41頁)

であるなら「彼」はプラスとクワスの変換規則をガリレオ変換とローレンツ変換のそれと同様に既に前提している。だからこそクリプキは全体構図を説明するあの本を書けた。



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