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賭・広場・貨幣 version2 《生き物》と《別のある者》へ

 二人の者が出逢い、例えば、牛と馬を交換する。いつの日か、彼らはある開かれた、しかし約束された場で、牛と馬を売り買いする者たち、すなわち博労/馬喰/伯楽と呼ばれるようになるだろう。

ここで〈博〉とは、規定された交換の一歩手前に生成する分散の反復を表現している。牛と馬を交換した二人は、まだ可逆的で可塑的な相互関係を維持している。彼らの生きる場は、まだ変容する生命を持っている。

 確かに博労たちは、この交換に対して超越的なある尺度にいたる一つの道筋をつけたと言えるかも知れない。彼らはどの馬/牛とどの馬/牛とが、現実に交換できるのか、交換されるに値するのかを吟味する能力を持つのだから。だが彼らの特異な身体的力能に内在するその尺度は、交換に対してまだ超越し切れてはいない。この博労たちの交換から、普遍化された超越的な尺度として機能する貨幣を媒介にした交換へといたる無限に思われる距離のすぐ傍らに、賭が位置しているはずなのだ。すなわち、博労たちは、賭の民として生成することによって、分散の反復を規定された――その都度二項を対立させ、それら二項をもう一組の二項に一対一に対応させる――交換の枠の中へと誘導していくことになる。言い換えれば、避けがたい偽装/裏切りとしての等価交換の受胎告知。

 貨幣と賭との間に生まれた特異な関係という問題は、賭がまさに貨幣の交換という形を取って生成してくるという〈出来事〉の問題でもある。関係は、〈出来事〉から生まれてくる。 

 賭は、無限反復され得ることをあらかじめ予想されている。賭は、それが無限に反復され得るという予想がその都度生まれるのでなければ賭として成り立たないのだ。さまざまな獲物を携えた者たちがその都度出逢い、それら獲物をいったん宙吊りにする。広場に彼らの獲物がばらまかれるわけだ。
賭が始まり、反復される。それは無限の反復が予期された、その都度の反復である。無限の反復が予期されることで、賭は獲物たちの分配という形での交換を生み出すことになる。ある時すべてを失うある者が、別のある時に別の者としてすべてを奪い返す可能性が常に保留されていることが、賭けられた獲物と一つの破滅の交換でさえ、彼らの間での獲物の分配にしてしまうのだ。ここで破滅とは、自らの存在=身体そのものを獲物として差し出し、犠牲になること――さまざまな苦痛、破壊、さらには抹殺の対象となること――である。すなわち、〈経済〉という名の、終わりなき残酷の反復。

 賭の反復――決定的な終わりを欠いた、言い換えれば、未完であり続けるこの交換=分配の生成という〈出来事〉の直中で、《広場》は変容する。すなわちそれは、賭の反復における《市場》の生成という〈出来事〉なのである。無限の反復が予想された賭は、自らのその都度の反復を《市場》の内側へと誘導していく。すなわち、さまざまな方向から、さまざまな獲物たちを携えた人々が誘導された賭とともに集まってくる。そこではつねに、何が起ころうとも、獲物たちの賭が反復されることが人々の間で予想されているからだ。それは、〈外〉への通路の不断の折り畳みとしての〈内側〉の生成であり、人々は絶えず入り交じりあいながら、賭けられるもの、すなわち獲物たちとともにそこへと、あるいはそこから出入りすることになる。この〈外〉への通路の不断の折り畳み、つまり一つの〈内側〉の生成としての人々の出入りと賭の無限反復の予想とは、互いに切り離すことができない。その都度の人々の出入り――《市場》の生成は、その都度の賭の生成なのである。

 賭が無限に反復されるという予想は、その都度の賭の直中へと巻き込まれる。よって、人々が共有する賭の無限反復の予想は、それ自身が賭である以上、実は賭に先立ってなどいなかったのである。
それは予想ではなく、賭そのものであった。

 ここで賭けられている獲物、同時に賭の直中で獲物として生成してくるもの、それこそが、《我々=人間》なのだ。

 こうしたことに、一体どんな終わりがありうるのか。これを限りの、一つの終わりというものが。

瞬時に凝集する賭けられるもの――獲物=《我々=人間》――は、次の場面で他の時空へと旅立ち、移りゆくためにのみ、そこに場所を占める。だが「そこ」とは、その都度破壊され、生まれ出る時空の狭間である。その狭間は、次の、もう一つの時空へとたどり着くことはない。別の者の掌の上の砂は、いつしか指の隙間からこぼれ落ちている。賭は、賭そのものを没落させる終わりのない分散の反復へと永遠に回帰するのだ。

(いつものコンビニエンス・ストアの裏に棲みついている例の落書きは、奇妙なことに、いつしか、
あの浜辺の砂の上に転写されていた。そのことを俺は、なぜか街角に転がる乳白色の貝殻の破片を透かして読み取った。どうやら子どもたちが、何かのゲ―ムに夢中になって、戯れに転写したらしい。
遥かな時空をすっ飛ばして。もっともその点については、言うまでもないが、何の手掛かりもない)
――いつかどこかの、あの黄昏の浜辺へ行け。それはやがて、すぐそこにやってくる
――でも一体なにが? なにに出逢うの?
―― もちろん、お前が逢いたい……
――私、あの落書きに返事書いたの。私なんだか、あの落書きを書いたのが誰だか、知ってるような気がする。でも、どうして……
――眼を閉じて、静かに、何もかも忘れて、甦ってくるものは何だろう?

……ふと気づくと
砂浜の上を横切っていく俺の影はいつしか黄昏の光と溶け合う波に洗われ始めていた
確かにそこに新たな時が今にも刻まれようとしている
俺は立ち止まるあの街は今でもそこにあるのだろうか?
あの壁に浮かび上がって消えた落書きを刻んだのは
この俺でなければ
一体誰だったのか? 

だがそこがどこなのか
俺にはもはや分からない
いつか
そしてどこかに書かれたはずのその文字は
遠い残響となって俺の脳裡をかすめていくだけで
それがどこからやってくるのか
確かめる術はない
俺の身体を
既にそこにあった沈黙と
没落していく黄昏の光と
生まれ出る闇が包み込んでいく
俺は静かに眼を閉じる――

この体を繰り返し洗う波間から
俺は立ち去ることが出来なかった
そこには
潤いと恵みにみちた無数の震えが生まれる

 あらゆる生き物たちが、どこまでも屈曲し、分岐するはるかな時空の流れを貫いて、この波間で自らの誕生と死を反復してきた。生き物たちは、この無限に微細な反復の過程で、あらゆる触発を誘発する波の動きをそれぞれの仕方で自らの内側(皮膚の裏側)へと包み込んでいった。というよりむしろ、この内側の生成としての波動の包み込みこそが、その都度の生き物たちの誕生だったのだ。生き物たちの内側へと包み込まれ、新たに生まれたさまざまな波の動き(内的律動)は、さらにその内側/波間に、再びあらゆる生き物たちを誘発する触発の場を用意した。つまり、それら触発の場が新たに内側へと包み込まれることによって、あらゆる生き物たちの内側で、再びあらゆる生き物たちが新たに誕生していったのだ。包み込まれるこの体が、様々な他の体を再び包み込む。

 こうして、一つの皮膚に包み込まれた無数の体のそれぞれが、それ自身の内側に再び無数の包み込む皮膚=体を包み込んでいく。そこは、〈他者〉としてあらゆる誕生と死の狭間に生まれでる。
 ――すなわち
〈出来事〉として生成する 
あの  
別のある者


以上の作品のオリジナルは90年代半ば頃に書かれた散文草稿『ゼロ-アルファ』のごく一断片である。本作品はその草稿を散文詩作品に変換したものである。


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