見出し画像

小説『虹の振り子』13

第1話から読む。
前話(12)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀はが啓志けいし:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
 鳥越玲人れいと:翔子の従兄

* * * * *

第3章:帰宅――<ホーム> 05

「いいかい、翔子。人は揺れながら生きているんだよ。現代と過去、未来との間を、振り子のように」
 ――えっ? 
 翔子は膝に抱えた『野生の思考』のパンジーの表紙から顔を上げる。
 窓からうすく射しこむ陽に、机上の顕微鏡が鈍く光るのが目の端に映る。

 母の変化へのとまどいと自責の念。その間をふらふらと行きつ戻りつしながら、気がつけば、留学前日に祖父の手紙を受け取った光景を思い出していた。丹色の漆の文箱は袖机の抽斗ひきだしに、今も収められているのだろうか。
 クーラーのモーター音が、翔子の思考の邪魔をする。あれからもう三十年も経ったけれど、エアコンが取り付けられた以外、この書斎は変わらない。だからかもしれない。無意識にあの日のじぶんに還ってしまっていた。

 父の声は、凪いだ水面に起きた波紋のように翔子の耳膜に広がる。小石による大きな波紋ではなく、池畔でそよぐ一枚の葉がはらりと落ちて起こした静かな波紋だった。
 「いいかい、翔子」で始まる話に、これまで幾度耳を傾けてきたことだろう。それは、翔子をいつも未知の世界へといざない、知識の扉が開くことを告げる鐘だった。
 でも。今日はまったく意味がわからない。
 肌にまとわりついて離れないこのぬるい空気のせい? いや、母が崩れていくかもしれない不安のせいだ、たぶん。脳内回路が接続不良を起こし、霞がかかったように頭がうまく回らない。
 お父さんは、いったい何を言いたいのだろう。
 目の前の父は、顔に茶色い斑が飛び石のように浮かび、皺が深い渓谷を刻む。豊かだった髪もずいぶん薄く銀にしずまる。それでもすくっと背は伸び、姿勢は美しい。滑舌もはっきりとして、かつて講義で鍛えた腹式呼吸の腹から深く響くバリトンの声。そして、相も変わらず冗舌だ。

「これは私の持論だから、科学や医学の根拠はまったくないよ」
 そう断ってから、父は語りはじめた。
 
「過去を振り返ると言うだろう。振り返るというのとは違ってね。人は『今』という時間だけを生きているわけではない。今と過去、そして未来のあいだを振り子のように振れながら等時性で生きていると思うのだよ」
 父はおもむろに足を組み替え、黒革の回転チェアのアームレストに肘を乗せ、手を胸の前で合わせると、そうそう、とでもいうように、三角に組んだ両手をゆらして、少し前のめりになる。
「たとえば、だがね」
 ひとつ短く息を継ぎ、そうだ、あの話がわかりやすいだろう、と独白をはじめた。

「このあいだ市役所に行こうと河原町通りを歩いていて。そういえば、以前はこのあたりに『丸善』があったと思い出した。今は通りの向かいのビルに入っているが、閉店したときは本当に残念だった、ということも一緒に。それが引き金だったんだね。不意に学生時代のことがさーっとよみがえった。もう六十年以上は経っている。大学生だった私は木村と森という悪友とよくつるんで、議論したりバカなことばかりやっていた。その日も、森だったかな、『丸善』の店先でニヤリとしながら、コートのポケットからレモンを取り出したんだよ」
「梶井基次郎の『檸檬』‥‥」翔子がつぶやく。
「そう」
「丸善とレモンとなれば、それしかない。梶井の小説に描かれた丸善は、三条麩屋町ふやちょうにあった初代だから、河原町の丸善とは場所も店構えもちがうんだがね。そんなことは問題じゃない。小説と同じいたずらがしたかったのさ。入り口近くに平積みされた雑誌の上にレモンを置いて‥‥」
「どうしたの?」
「そりゃ、もちろん、逃げたさ。てんでばらばらに走り出して。『敵は本能寺にあり!』ってわめきながら、本能寺の境内で合流してね。大笑いしたよ」
 父のあざやかな青春時代。写真はセピアに退色しようとも、記憶はいつまでも色褪せない。肩で息をしながら笑いこける青年たちに会ってみたかったと、翔子は思う。
「そんなことを映画でも観るように思い出しながら、現実の私は河原町通をまっすぐに北上していた。かつて丸善があった場所はとっくに通り過ぎても、ずっと頭の中で、あの日の映像を追い続け、ニタニタと思い出し笑いをしながら、気づくと、御池おいけ通りの交差点に着いていた」

 そこでひと息入れると、父は立ち上がって書斎机の隣に置かれている腰高の小さなサイドボードからティーポットとカップを取り出す。
「お父さん、私が淹れるわ」
 翔子があわてて立ち上がる。
「そうか。じゃあ、お願いするよ」
 サイドボードの上には電気ポットが置かれている。
 父がケトルを使って紅茶を淹れなくなったのは、いつからだっただろう。ケトルの先からひと筋の滝となって湯の糸が斜め上にするすると伸び、ティーポットに向かって落ちていく、あの手品のような美しい所作は、もう披露されることはない。「手もとがおぼつかなくなってね。電気ポットでも、ちゃんと茶葉はジャンピングしているよ」そう言って笑う。

「さて、どこまで話したかな」
 ティーカップを揺らしてベルガモットの香りに満足そうな笑みをもらすと、翔子の淹れたアールグレイをひと口すすった。
河原町御池かわらまちおいけの交差点よ」
「ああ、そうだったね」
 啓志はカップをソーサーの上に置いて、椅子に深く腰掛け直し、答えを探すように天井へと視線を走らせる。
「物理的な私の肉体は、現実の『今』という時間に在って、すたすたと河原町通りを歩いていた。けれども、頭のほうは六十年昔の『過去』の時間をなぞっていて、私の視覚は現実の河原町通りの光景を見ているようで、そこに二重写しで過去の映像を見ていた」
「あの数十分、私は今と、六十年前と、どちらの時間にいたことになるんだろうね」
 啓志は問いかけるように翔子を見つめる。
「人は、たった今、目の前で起きている事象だけを見て生きているのではないと思うのだよ」
「肉体は時空を超えることはできないけれど、意識や心は、わりと自由に今と過去、未来の間を無意識ともいえるくらい自然に行き来している」
「うまく説明できないけれど、わかるかい?」
 ああ、それならばわかる。
 だって、ほんの今しがた翔子は、三十年前の留学前夜、祖父からの手紙をこの書斎で渡されたシーンをありありと思い浮かべていたのだもの。思い出そうとして思い出したのではない。気がつけば、あの日のことが胸に去来していた。
 そんなことは、日々、いくらでもある。

「だからね、朋子が昔の時間や思い出にぱっと行ってしまうのも、きわめて自然なことで、幸せなことだと思うんだ。現実と過去との境目がときどきわからなくなって混乱するけれど。昔の時間を楽しんでいることには違いないだろ」
「朋子はね。昔から、どんなことも、あるがままに静かに受け入れてきた。私にはかなわないくらい大きな器をもった春の海のような人だよ、君のお母さんは」
「だからね。こんどは私が、静かに朋子の変化を受けとめ、ありのまま見守ってやろうと思っている」
「それにね。また、昔の朋子に出会えて、ともに懐かしい時間を過ごせるんだよ。こんなに素敵なことはないじゃないか」

 父は穏やかな笑みを浮かべながら、アールグレイを飲みほした。


(to be continued)

第14話(14)に続く→

全文は、こちらから、どうぞ。



#連載小説 #短編小説 #中編小説 #創作 #みんなの文藝春秋


この記事が参加している募集

眠れない夜に

この街がすき

サポートをいただけたら、勇気と元気がわいて、 これほどウレシイことはありません♡