小説『虹の振り子』14
<登場人物>
翔子:主人公
芳賀啓志:翔子の父
芳賀朋子:翔子の母
芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
ジャン:翔子の夫(イギリス人)
鳥越玲人:翔子の従兄
* * * * *
第3章:帰宅――<ホーム> 06
翌日は、朝から細い雨が降っていた。
軒を跳ねる規則的な雨音で翔子は目を覚ました。
朝食の準備を手伝うつもりでいたのだが、時差の影響が抜けず、起きるのが遅れた。あわててキッチンに駆け込むと、割烹着をつけた母が最後のひと品の塩鮭を焼きあげ皿に盛りつけているところだった。
「お母さん、おはよう。手伝おうと思ってたんだけど」
「ほな、これ運んでちょうだい」
テーブルに並べられた膳には、すでにジュンサイの酢の物に小松菜の煮びたし、それに茄子と胡瓜と茗荷の漬け物、生麩の吸い物が調えられていた。
翔子が鮭の塩焼きを膳に配っていると、藍の縮の作務衣姿でジャンが「オハヨウゴザイマース」と鴨居に額をぶつけぬよう、高い背を少しかがめてキッチンに入ってきた。すばやく膳に目を走らせると顔をほころばせ「サンクス、マーム!」と感嘆の声をあげる。馴れたもので、素足でぺたぺたと歩いている。
ジャンはこの家ではスリッパを履かない。畳の感触をぞんぶんに足の裏で堪能したいらしい。板の間は冷えるでしょ、と翔子が気遣うと、ノープロブレムと返す。廊下も縁側もよく磨かれているから、素足に心地いいらしい。
結婚前にはじめてジャンを実家に伴った日、彼は畳を目にすると興奮し感動をあらわにした。ちょっと大げさ過ぎない?と、翔子はジャンの昂ぶりに驚いた。畳など古くさいものと思っていたから。
「何をいうんだ翔子。すばらしいじゃないか!写真で見たことはあったけど、さわったことがなかったんだ」
スリッパを脱いで玄関からすぐの広間を歩き回ると、翔子の傍らで声を落として「靴下も脱いでいいかな」とささやき尋ねる。いいわよと答えると、とたんに目を輝かせ、両足から靴下をはぎ取ってポケットに丸めて突っ込み、子どものようにはしゃぎまわった。
ヨーロッパでは干し草をベッドにしても、積み上げるだけで、こんなふうに草をきちんと編んだりしない。板とちがって体を横たえても固くないし、冷たくもない。絨毯のように毛羽だってないから夏でもさらっと心地よくて、しかも清潔だ。なんてすばらしい、とジャンは早口でまくしたてる。それをにこにこしながら聞いていた父が、「畳は平安時代、つまり今から千年以上も昔からあったんだよ」と教えると、「オーマイゴッド」と絶句していた。
翔子はそれをくすっと思い出す。ふふ。ジャンのおかげで日本の良いところに、たくさん気づかせてもらったわ。ジャンの素足が、きゅきゅっと音を立てる。
「季節は過ぎてますけど。好きでしょ?」
母はそう言って、ジャンの前に、目覚めの一杯にと桜昆布茶をそっと出す。湯にほどかされて、薄紅の花びらが透けてたゆたう。中国の工芸茶もすばらしいが、ぼくは桜昆布茶のほうが好きだね、とジャンはいう。工芸茶はパフォーマンス的にも華やかだけど、桜昆布茶の儚い可憐さがいい。それにソルティーだしね。
お茶がソルティーだというのは、ジャンにとって衝撃だったそうだ。
そういえば、紅茶にもコーヒーにも砂糖は入れても塩は入れない。ひるがえって緑茶に砂糖なんて考えられない。紅茶と緑茶は、もとは同じ茶葉なのに。不思議だと翔子は思う。そんなことも、ジャンが気づかせてくれた。視点が異なると見えてくることの、なんと多いことだろう。
ジャンは隣で淡く開いた桜の花にしばし見惚れ、ゆっくりとすする。
昨夜、母が認知症の初期だということを伝えた。そして、父の考えも。
「さすが、お父さんだね。すてきな考えだと思うよ」
ジャンが好きな桜昆布茶を、そっと出してくれる母の心遣いが、二重の意味で今朝の翔子にはうれしかった。
「お義母様、えらいお待たせして、すみません」
淡い浅葱色が涼やかな絽の着物に着替えた朋子が、縁側からぱたぱたと翔子のもとへ駆け寄る。軒が深いので、これくらいの雨ならガラス戸をしめることはない。庭の築山の裾で白紫陽花が揺れている。
朝食のあと、庭に面した和室でくつろいでいた翔子は、はっと父に目を走らす。
――お母さんは、私をおばあちゃまと勘違いしている。
祖母のふりをすればいいのか、まちがいを訂正すればいいのか、翔子にはとっさに判断がつかなかった。
芳賀家の一人娘という立場だけでなく、黒目がちの大きな瞳にすっと通った鼻梁、翔子は祖母の登美子の若い頃に容貌も似ているとよく言われた。母が嫁いできた頃、祖母はちょうど今の翔子くらいの年代だったから、まちがえるのも無理からぬことだ。
「今日は、野宮神社に行くのでしたね」
母が帯揚げを整えながら小首をかしげる。そのしぐさに、翔子は祖母のふりをしようと心に決め、「ええ」と応えかけたそのとき
「朋子、そこに居るのは翔子だよ」と、父の声が重なった。
「あら、ごめんなさい。翔子ちゃん、ますますお義母様によく似てきて」
母がてらいもなく微笑む。そのやわらかな笑顔に、翔子はそっと吐息をもらす。
「お母さん、野宮さんに行くつもりなの? 雨なのに」
あいにくの雨に今日はどうしようかと、ジャンと話していたところだった。
「嵐山の野宮神社か。いいね」父が相槌を打つ。
「ええ。昔、お義母様に連れていっていただいて。ちょうど、今日みたいに出がけは小雨まじりでしたけど、着くころには雨があがって、竹林の笹に滴が光って。それはそれはきれいで」
母がうっとりと思い出すように語る。
何かを思いついたのだろう、父は向かいであぐらをかいているジャンに視線を移す。
「ジャンは、加山又造画伯、マタゾウ・カヤマを知っているかね?」
「猫の絵の‥‥」
「そう、サファイアブルーの目が印象的なシャム猫の絵。あれは有名だね。猫ではなくて、彼の描いた龍を見たくはないかい? 猫の絵とはまったくタッチがちがってね」
「龍!それは、見たい。どこの美術館にあるのですか」
「美術館ではなくて、天龍寺の天井に居るよ」
「天井画。オー、ジーザス!」
ジャンが目を輝かせる。
「あれ? でも、天井画の龍は、カノウタンユウでは?」
「お、さすがによく知っているな。狩野探幽の雲龍図は妙心寺だね。あれも迫力があるが、天龍寺の加山又造の龍もなかなかのものだよ」
「それは、ぜひ、見たいです」
ジャンが啓志ににじり寄る。
「よし、じゃあ決まりだ。みんなで嵐山に行こう」
「翔子、タクシーを呼んでくれないか」
(to be continued)
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