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小説『虹の振り子』15

第1話から読む。
前話(14)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀はが啓志けいし:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
 鳥越玲人:翔子の従兄

* * * * *

第3章:帰宅――<ホーム> 07

 竹林の小径こみちの入り口でタクシーを降りた。
 まだわずかにそぼ降る雨が残っていた。
 小柴垣に囲われまっすぐ天に伸びる竹が、高い先をしならせ両側からなびき、小径を天蓋のように覆う。このくらいの雨なら傘は要らない。笹が微小な雨粒のヴェールをまとい、下から見あげる緑はいっそうあでやかで清冽だった。
 映画やドラマの撮影でなじみの竹林の小径は、野宮ののみや神社からはじまり大河内山荘へと抜ける。嵯峨野の風情を描く小径だ。
 雨の午前中だというのに、すでにけっこうな人出だった。
 バックパックを背負った外国人観光客が多い。いつからこんなに増えたのだろう。帰国するたびに驚かされる。
 まあ、嵯峨野は昔から人気が高いし、彼らが日本に求めるイメージがこれほど整っているところもないだろう。小径の辻々からあがる感嘆の言語も多彩で、それらが打ち重なり響き合い、さわさわと竹の隙を縫う風に乗ってふしぎなハーモニーを奏でていた。

 ジャンにとっては、確か二度目の嵯峨野だ。
 二十数年前、結婚してはじめて帰国した折、どこに行きたいかと尋ねると、「アラシヤマ、サガノ!」と興奮していた。
 そのリクエストに翔子はちょっとがっかりした。ジャンでも京都といえば嵐山なんだと。定番の場所を真っ先に挙げられたのを、残念に思ったのだ。
 でも、そうね。私だって、ロンドンに降りたった日、まず向かったのはタワーブリッジとビッグベンだったもの。同じね。
 あの日は、今日とはちがって秋晴れの空がどこまでも高く穏やかだった。
 紅葉の季節には早かったのと、インバウンドという単語が姿を現す前で、京福電鉄の車内はそこそこ混んではいても、窓外の景色を楽しめるくらいだった。終点の嵐山で降りてレンタサイクルで周った。嵯峨野は竹林と渡月橋だけではないのだと、教えたくて。
 落柿舎らくししゃあたりまで行くと、人影もまばらで、畦道ですすき黄金こがね色に透けて風になびいていた。

 ジャンが野宮神社の石段前で立ち止まっていると、父が追いついた。
「このあたりは、古くは野宮ののみやといってね、とても清らかで神聖な場所とされたんだよ」
 父が語りはじめる声をせなで聞きながら、翔子は母と「はじまったわね」と視線を交わす。
 それほど声量があるわけではないのだが、父の声はよく通る。そして、さまざまなことに精通している。翔子は幼いころ話が聞きたくて、父が家に居るとたいてい、その息づかいが聞こえる距離にいた。
 今は、ジャンがそうだ。日本を訪れると、啓志から離れない。
 翔子は後ろを振り返って、くすりと微笑む。
 ジャンは高い背を少しかがめながら耳を傾けている。熱心な生徒だ。

「日本には古来、斎王というしきたりがあってね」
 父の低い声が竹林の風に乗る。
「サイオー?」
 ジャンの少し高い声がアルペジオで追いかける。
「そう。神に仕える女性を巫女みこというのは知っているね。斎王は、日本の巫女のトップだ。未婚の内親王つまりプリンセスが、最高神の天照大神アマテラスオオミカミに仕えるために伊勢神宮につかわされたんだが、彼女たちを斎王と呼んだ」
「清らかであることが必須条件でね。斎王に選ばれたプリンセスは、宮中で一年間、みそぎをする。それから、洛外の清らかな場所に『野宮ののみや』を建てて、そこでさらに一年禊をしてから、伊勢に向けて旅立つ」
「はじめのころは、野宮の場所は定まってはおらず、占いで決めていたが、どうも嵐山のあたりが多かったそうだよ。平安時代のこのあたりは、美しい草原と竹林がどこまでも広がる人里離れた清々しい野だったんだろうね」
「ジャンは『源氏物語』は知っているだろう?」
「プレイボーイの物語、ですね」
「そう。平安時代はプレイボーイものが好まれたようだ。『伊勢物語』もそうだしね。『源氏物語』に「賢木さかき」という巻がある。六条御息所ろくじょうのみやすんどころという『源氏物語』のなかでも断トツに個性の強い女性がいてね。身分も高くて、気位も高い。それゆえに生霊にまでなってしまう激しい女人にょにんだ。彼女の娘が斎王に選ばれた。幼い娘をひとり伊勢に行かすには忍びないと、六条御息所もこの野宮で娘といっしょに禊をしているところへ光源氏が訪ねて来る。この場面は能にもなっているんだよ」
「今では平安時代の静けさや寂しさとは無縁の人気スポットになっているけれどね」

 雨はあがったのだろうか。
 鳥が梢を揺らしたひょうしにぱらぱらと滴が落ちてくるくらいで、樹々に深く抱かれた宮にあっては、霧雨はミストとなって空気を清らかにしていた。
 背後から切れ切れに聞こえる父の解説に耳を澄ましていると、並んだ隣から不意に、細い声がかかった。
「お義母様かあさま、なかなか子が授からなくて、えらいすみません」
 母が翔子を見あげている。翔子は足を止める。
 ――また私をおばあちゃまとまちがえている。
 でも、もうとまどうことはない。父が手本を見せてくれたのだから。
「お母さん、私は翔子よ。おばあちゃまじゃないわ」
「あらあら。また、まちがえてしもうて、かんにん」
「お義母様とね、お参りに来た日も小雨が降ってて、今日みたいやったの。それで‥‥」
「まちがえちゃったのね」
「かんにんぇ。それにしても、ほんまにお義母様によう似てる。凛としたところも。お義母様が立ってはるみたいやわ」
「じゃあ、おばあちゃまに、なりきろうか?」
「いいや、それは、ええよ。翔子は翔子、だからね」
 母はにっこりと笑う。浅葱あさぎ色のきものの肩に雨がひと粒はねる。

「結婚して二年経っても子どもができなくてね。心配したおばあちゃまが、あっちこっちの神社に連れていってくれはって」
 母と並んで黒木の鳥居をくぐる。石畳が雨に洗われ、朱塗りの社殿もいっそうあざやかだ。
「いろんなお宮さんにお参りしたのよ。わら天神さんとか、えーっと何て言ったかしら、兎がお守りしてる……」
「岡崎神社?」
「そうそう。あそこは兎の神使しんしが愛らしくて。ついついお守りをいくつも買うてね」
「お参りの後には、ぜんざいやらあんみつやら、甘いものをいただいて。それも楽しみやったの」
「室町の母は、お店があるから忙しくて。いっしょにお参りとか行ったことがなかったのよ」
 母の実家は西陣の織元だ。昔ながらの老舗で、とうに有限会社化してはいたが、祖父は名ばかりの社長で、表の暖簾を守っているのは女将である祖母だった。
 つくづく京は女の町だと思う。舞妓や芸妓を預かる置屋を守っているのも女将。料亭や料理旅館でも、店の顔として挨拶するのは女将だ。
 『匠洛』の暖簾を守っていた祖母は忙しく、娘と出かける暇などなかった。
「だから、嫁いできて、お義母様とあちこちご一緒できるのが、嬉しくて」
 時を手繰りよせ、遠い日々を思い出したのだろう。
 母は、ふふ、と微笑む。

 妊娠がわかるまで祖母からキツく当たられていたと、手伝いの和さんから聞いたことがある。「奥様は、歯にきぬ着せはらへんでっしゃろ。若奥様は、よう耐えはりました」
 和さんの言葉を翔子は思い出した。
「私ができるまで、おばあちゃまにキツイこと言われてたんとちゃうの?」
 あら、と母が驚いた顔を向ける。
「そんなこと、誰から聞いたのかしらね。おばあちゃまは、思ったことを思ったようにしか言わはらへんお人やった。翔子もわかると思うけど、京都では珍しいでしょ」
 そうだ。京都人は、歯にきぬを幾重にも着せる。本音をはばかる。
 そんな土地で育ったというのに、祖母の登美子は感情がまっすぐに言葉に乗る人だった。機嫌が良いか悪いか、何を望んでいるのかが、幼かった翔子でもわかるほどに。

「芳賀の家に嫁ぐまで、お義母様みたいな女性に会ったことがなかったの。しっかりしたお姉様のようなのに、でも、ときどき子どものようにわがままで。言いたいことをはきはきとおっしゃり、くるくると表情やご機嫌が変わる。お義母様の言葉には、「裏」というものが微塵みじんもなくて。そのまま受けとめたら、いいでしょ。嫁として、こんなに気持ちの楽なことはなかったから。私は果報者だったのよ」
 手水ちょうずを使いながら、遠い日に目を細める母を翔子は眺めていた。
 父は母のことをよく「春の海のようにすべてを受け入れ穏やかだ」という。それがわかるような気がした。

 ふたりして参拝を待つ列の後ろにつく。そのあいだも母は祖母のことを語り続けた。
「何より、私じしんが子どもを産みたかった。お義母様とおんなじ気持ちやったの」
「そやしね。芳賀は医者の家で、辰郎たつろう大叔父様は産婦人科医でいらしたんやから、今ほどでのうても不妊治療については、お義母様も知ってはったと思うのよ。でも、不妊治療をしなさいと、言わはったことはなかった。私の体のことを思ってくれはったんやろね。それがわかってたから、何をいわれても平気やった」
「せやけどね」と、母はちらっと後ろを伺い、声をひそめる。
「啓志さんは、お義母さんが私にきっついこと言わはるたびに怒ってくれはった。私のせいで、啓志さんとお義母様の仲が悪うなるのが、辛くてね。それだけが、こたえた」
「啓志さんがかばってくれはるのも、それはそれで嬉しかった。せやから、どう伝えればええんかわからへんかったの。だめね、私って」
「お父さんは、私のことを『春の海のようだ』とほめてくれはるけど。そんなことはないんよ。うまく言葉にできへんから、にこにこして聞いているだけ。それだけやの」
 朋子はため息をつきながら、朱のあでやかな宮を見つめる。

 本殿の前で、ふたり並んで鈴を鳴らし柏手を打つ。
 母は何かを熱心に祈っていた。
 社殿に向かって深く一礼をすると、振りかえり、こんどは翔子とジャンに深々と頭をさげる。

「翔子ちゃん、あなたに謝らなければ、とずっと思ってたの。ジャンにもね」
 えっ? と翔子が驚いたそのとき、傍らを通り過ぎたブロンドの青年のバックパックが、背を曲げた母の帯に当たった。うつむいたままの朋子はバランスを崩しよろける。それをジャンがさっと抱き留めた。
「あら、かんにん。ありがとう」
 母は両手でジャンにしがみつく。ジャンが母の脇に手を添えて、少し持ち上げ、そっと石畳の上に降ろす。

「朋子、混んできたようだから、続きは昼を食べながらにしよう。タクシーも待たせているし。『吉藤』はどうかな」
「まあ、嬉しい。あなたとお見合いした場所ですね」
 母が少女のように頬を染めて顔をあげた。


(to be continued)

第16話(16)に続く→

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