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小説『虹の振り子』12

第1話から読む。
前話(11)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀はが啓志けいし:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
 鳥越玲人れいと:翔子の従兄

* * * * *

第3章:帰宅――<ホーム> 04

「暑くなってきたね」
 陽は射しこまずとも、ぬるく居座る熱気はすべりこむ。
 父は立ち上がると、書斎机の前の窓を閉め、エアコンのスイッチを入れる。モーターが眠りから覚める鈍い音がする。書斎にクーラーが付いたのはいつだったかしら。もう、機械も年代物だわ。翔子はぼんやりとそんなことを思った。何もかもが昨日のことのように思えるけれど、いつのまにか時間は確実に経っていたのだ。

 『野生の思考』を握る手をつっかえ棒にして、ようやく言葉を絞り出す。
「いつ‥から」
「はっきりと気づいたのは、去年の秋だ。玲人君の診療所に来た女の子を幼い翔子とまちがえてね。『れい兄ちゃんの邪魔をしちゃだめですよ』と言って、手を引いて母屋に連れていこうとして、ちょっとした騒ぎになった。今から思えば、それ以前も河原町の高島屋でトイレに行ったきりなかなか戻らなかったりもしていたから。いつからかは、わからないんだよ」
 翔子は昨年の春に一時帰国していた。
 だが、ひと月後に控えた『古書フェア』の準備もあり、二週間滞在しただけでイギリスに戻った。慌ただしい滞在だったこともあって、母の変化に気づく余裕がなかった。その迂闊さにみぞおちがぎゅっと痙攣けいれんする。
 だけど。去年の春に気づいていたとして、私に何ができたのだろうか。

「お母さんは‥‥、自分の病気のことを知っているの?」
「ああ。それを病気と呼ぶかどうかは別にして。玲人君と相談して、診断結果を伝えたよ。認知症の初期であること。記憶と理解にときどき齟齬そごが起きていること。それは人が老いていくふつうの過程であるということをね」
 父の話は年老いて尚、理路整然としている。いつもと変わらぬ淡々とした整然さが、今は翔子の胸を掻きむしる。書物で埋め尽くされた書斎の棚をぐるりと見渡す。ここには祖父をはじめ代々の蔵書であった医学書も多数並んでいる。けれども、それらを紐解いたところで、母をもとに戻すことはできないのだ。


 ずっと逃げてきた。
 老いていく両親をどうするかということから。
 芳賀家をどうするかということから。
 日本に帰って来ることもできたのだ。ジャンなら「それも、いいね」と言ってくれるだろうことは、容易に想像できた。
 それを。
 また後で考えようと一年、二年と先延ばし、ずるずると時間が過ぎていくほどに、ギャラリーのお得意様もでき、顔なじみも増え、日本語よりも英語の方がしぜんになったあたりから、日本へ帰るタイミングが潮の引くように遠のいていった。
 まだ、大丈夫よね。
 根拠もなくそう言い聞かせ、イギリスの暮らしを楽しんだ。
 時が解決してくれると、よく言うけれど。時が難しくする問題もあるということを、若かった翔子は考えもせず、ずっと目を逸らし続けてきた。
 だって、お祖父様の希望でもあるのだからと。

 
 イギリスに留学する前日、翔子は書斎に呼ばれた。
「いつ渡そうかと、長い間、悩んで来たのだがね」
 父は袖机の一番上の抽斗ひきだしを引いて、丹塗にぬりの漆の文箱を取り出した。蓋の中央には、長方形の枠内に蔦が絡まる植物文様がデザインされた金箔がめ込まれている。翔子はその模様に見覚えがある気がして、そっと指先で金箔をなぞる。
「おや、気づいたのか」
 いたずらがばれた少年のような顔で父が笑っている。
「翔子のお気に入りの赤い讃美歌集があるだろ。あの本の留め具の透かし模様に似せて、知りあいの京漆職人にこしらえてもらったものだ」
 確かに似ている。ビロードの讃美歌集は深みのある真紅のため、漆の丹色とは色合いと風合いが異なり印象が違ってみえたが、あの讃美歌集をイメージしているのだとわかる。
 父が両手で蓋を持ち上げる。
 うっすらと黄ばんで、明らかに歳月を経たとわかる紙が一枚だけ収められていた。
 他には何も入っていない。
 たった一枚の紙を収納するには器が立派すぎ、翔子は怪訝な顔で父に視線を移す。啓志はその紙をそっと取り出すと、翔子に手渡した。
「お祖父様から、翔子への手紙だよ」
 祖父は翔子が生まれる一年前に亡くなっていた。
 万年筆のブルーインクが滲み、所どころみが浮いている。翔子が母のお腹に宿る前に、すでにしたためられていたものだという。
「これはね、あの赤いビロードの讃美歌集に挟まれていた。翔子が生まれてくることを願って、予言した奇跡のような手紙なんだよ」
 翔子という名は、祖父がつけてくれたと教えられてきた。ごく幼いころは、「ふーん、そうなの」ぐらいの関心しかなかった。長ずるにつれ論理的な思考が身につくと、じぶんの誕生よりも前に亡くなった祖父が、どうして名前を付けることができたのか疑問だった。

もしも新しく芳賀家に生まれてくる子が女児であれば、『翔子』という名はどうであろうか。自らの信じるところに向かって自由に羽ばたく子であることを願う。この走り書きが誰かの目に触れることがあれば、一考の末尾にでも加えてもらえれば幸いである。

 こんな手紙があったの?
 翔子は息をのむ。生きて会うことの叶わなかった祖父の筆跡をそっと指でなぞり、手紙から顔をあげ父を見つめる。
「もっと早くに渡そうと、思っていたんだがね」
「小さかったお前が赤いビロードの讃美歌集を持って駆け寄って来たときには、ほんとうに心臓が飛び跳ねそうになった。まさか、手紙が挟まれていた本を見つけてくるとは思いも寄らなかったからね。信じ難い奇跡に、目をみはったよ。この手紙はあの時に渡そうと思った。でもまだ、お前は小学校入学前で、読めない漢字もたくさんあった。だから、読めるようになったらと。初めは、そう考えた」
 父はそこでひと息つくと、サイドテーブルに置いていたアイスペールの氷を2杯のグラスにたっぷり盛ると、ティーポットの熱い紅茶を注いだ。グラスの中の氷山がたちまち崩れ、アールグレイの薫りがただよう。翔子はイギリスへは七夕の朝に出発すると決めていた。梅雨があけてから京の町は日に日に暑さをつのらせている。父の淹れてくれたアイスティーが、喉に清涼な流れとなる。
「中学の入学祝いに渡すつもりだった」
「だが、お前が成長するにつれて、言葉の持つ力を考えるようになってね。言霊ことだま信仰は、翔子も知っているだろ。日本は『言霊の幸ふさきわう国』と万葉集に柿本人麻呂が詠んでいるように、言葉には力があると考えられてきた。だからというんじゃないが。お祖父様の願いが、かえって翔子を縛ってしまってはいけないと思うようになって、渡すことをためらった」
 カラン、カラン。
 父がグラスを揺らす。氷がぶつかる音が響く。
「でも、お前はこうして今、飛び立とうとしている。名前に込められたお祖父様の想いを知らずとも」
「やっと翔子に渡すことができて、良かったよ。心のおもむくままに自由に羽ばたきなさい」
 父が乾杯するようにグラスを目の前に掲げる。
 
 祖父の手紙は、明日、まさに飛び立つ翔子に大きな勇気となり、その後、翔子にとって、自らの生き方を肯定するお守りとなった。
 以来ずっと、手紙を心の免罪符にしてきた。


(to be continued)

第13話(13)に続く

全文は、こちらから、どうぞ。



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