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小説『虹の振り子』11

第1話から読む。
前話(10)から読む。

<登場人物>
 翔子:主人公
芳賀啓志:翔子の父
     芳賀朋子:翔子の母     
     芳賀登美子:啓志の母、翔子の祖母
      芳賀仁志:啓志の父、翔子の祖父
        ジャン:翔子の夫(イギリス人)
 鳥越玲人:翔子の従兄
    鳥越貴美子:玲人の母、啓志の姉

* * * * *

第3章:帰宅――<ホーム> 03

 盆に茶菓子をのせ居間に戻ると、父の講義は途切れることなく続いていた。
 庭の築山の裾で鞠の花をゆらす白紫陽花に翔子は足をとめる。周囲の緑に点を打つ白が、ぬるくまとわりつく空気を忘れさせ、ひとひらの清涼を添えていた。高校生のころに母と植えた一株も、もう何代目だろう。

 父が語りだすと、母はアールグレイの茶葉をいれたティーポットとしゅんしゅんと湧いたケトルを用意するのが常だったが、日本好きのジャンへの心遣いだろう、人肌に冷ました湯で白磁の器に丁寧に玉露を淹れ、流水をかたどった干菓子を盆にのせた。涼やかに透ける水の流れをデザインした飴干菓子に、きっとジャンは感嘆の声をあげる。やっぱりお母さんは、ジャンの喜ぶことをよくわかっているじゃない。翔子は安堵の吐息を細く漏らす。
 それに。あれは『一保堂いっぽどう』さんの炒り番茶の香りだ。
 玉露用とは別のヤカンで沸かしていた湯に今しがた母が茶葉を入れたのだろう。盆をさげた翔子の背を独特のスモーキーな香が追いかける。
 炒り番茶は京番茶ともいう。
 かなり癖のある番茶で、京都特有のものだ。大きく育ちすぎた玉露用の茶葉を揉まずに開いたまま炒っているので、いぶした煙がくゆらす強い香りがする。好みのわかれるきつい匂いのため店頭には並んでおらず、注文すると店奥から錫色の缶にしまわれたそれを出してくれる。缶の蓋を開けただけで煙草のような濃い香りが辺りに漂う。観光客だろうか。その匂いに顔をしかめる人もいるため、たいていは「えらい申し訳おへんが、こちらで」とカウンターの端でそっと用意される。茶色い筒形の紙袋に口をしっかり閉じて詰められているにもかかわらず、袋の外にまで個性的な香が漏れる。翔子はこの匂いが好きだ。母から頼まれて大学の帰りに寺町の本店で求めるといつも、袋に顔を寄せてスモーキーな香を胸いっぱいに吸い込んでいた。
 夏になると翔子は冷やした炒り番茶を好んだ。それを母は覚えている。
 うん、大丈夫。と翔子はじぶんに言い聞かせ、庭から視線を戻して居間へと盆を運んだ。


「日本のスイーツは食べるのがもったいないね」
 案の定、ジャンは水色の干菓子をつまみ、陽に透かして目を細めている。
「それは流水文様といってね、日本の絵画によく用いられる記号だよ」
 すぐに父は日本の文様について解説をはじめた。
「ジャンは浮世絵や狩野派の日本画が好きなようだが、江戸小紋は知っているかね」
「歌舞伎の人気もあって、『かまわぬ』とか『斧琴菊よきこときく』とか、役者紋という洒落っ気のある文様も流行してね‥‥」
 いつしか父の話は江戸の文様へと変遷していく。水の流れのごとく自然によどむことなく、その見事さが耳に心地よく、泡立ちかけていた翔子の気持ちを落ち着かせた。

 しばらくすると、濃く煮だした炒り番茶を氷の浮かんだピッチャーに入れ、母が盆にグラスを添えて運んで来た。翔子はさっと立って、母の手から盆を受け取る。
「あら、翔子ちゃんはどこに行ったのかしら」
 母がソファに腰かけた面々に順に視線を走らせながらつぶやく。膝をついてグラスをテーブルに配っていた翔子の手が空中で静止する。
「朋子。翔子は、お前の隣に居るよ」
 父が静かにいう。
「あら、いやだ。気づかなかったわ。翔子ちゃん、かんにん」
 母は何もなかったように謝り、ジャンに視線を移して
「そうそう、お風呂も沸かしてありますよ」という。
 翔子は息をとめて父を見つめる。

「お父さん、確か書斎にレヴィ=ストロースの『野生の思考』があったと思うの。いっしょに探してもらえない?」
 ジャンと母が風呂場に向かったのを見計らって、翔子は湯呑や皿を盆に片付けながら父をうながす。
「ああ、それなら確か‥‥」
 父はテーブルに手をついて腰をあげると、すたすたと書斎に向かった。

 翔子は洗いものを済ませてから書斎の扉をノックした。
「お入り」
 書斎机の椅子をくるりと回して振り返った父の背に、孟宗竹の隙を縫って光量を削がれた陽がやわらかに影を投げる。どんなに陽射しのきつい夏でも、この部屋だけは森閑としている。
 翔子はこの書斎が子どものころから好きだった。赤いビロードの讃美歌集を見つけたのも、ここ。物語の世界へと旅したのも、ここだった。書斎の扉を開けてはじめて、わが家に帰って来たことを実感する。そうだ、ジャンもはじめて書斎に足を踏み入れると、「アメイジング」とつぶやき無言で壁から壁へと眺めて回っていた。

 レヴィ=ストロースの『野生の思考』は、すでに本棚から抜き出され、オークの木目が美しい書斎机の上に置かれていた。白地にパンジーの絵が配された表紙に、窓から射し込む光が陰翳いんえいを重ねている。翔子はスミレの絵をそっと指の腹で撫で、手に取る。表紙のスミレは、フランス語の「思考」と「パンジー」が同じ「パンセ(pensée)」という単語であることの隠喩だよ、と高校生になったばかりの翔子に教えてくれたのは父だった。
「お父さん、もう、見つけてくれたのね。そう、これこれ」
 翔子は書斎机の角にもたれてページをめくる。啓志は娘の姿を椅子に腰かけたまま静かに見つめ、おもむろに口を開いた。
「その本は口実だろ。まあ、掛けなさい」
 啓志は傍らの安楽椅子をすすめる。翔子はページを閉じて、革張りのアームチェアに浅く腰かけ、前のめりで父を見据えた。
「お前も気づいたんだね、朋子の変化に」
 翔子は膝に置いた『野生の思考』をぐっと握る。喉が渇いて、言葉が出ない。
 ああ、お父さん、その先を言わないで。
 10時12分で止まっていた診察室の柱時計を不意に思い出した。止められるものなら、時間を止めたいと思った。いや、止めるのではなく巻き戻したいと願った。でも、いったい、いつに?
 それはほんの数分の、おそらくは瞬きするほどの時間だった。時の流れがぐにゃりと歪められ、翔子はプールの底を水の圧力に抗しながら歩いているような感覚にとらわれた。目の前が白く透けるように揺らぐ。意識と視点が肉体を離れ、視界一面が白く霞んだ空間に居るような錯覚にとらわれた。手も硬直し、動かない。呼吸すらできているのか、怪しかった。
 二重写しになって彷徨さまよっていた視点がようやく戻ってみると、視界を占拠していた白は、『野生の思考』の白い表紙だったのだとわかった。視線をずらすと濃い紫と黄色のパンジーがあり、瞳はうっすらと薄いもやにかすんでいた。

 うつむいて固まっている翔子の頭上から、父の言葉が降って来た。
「玲人君に診てもらったんだがね、認知症の初期だそうだ」
 大きな滴がひとつ、パンジーの絵の上に落ちて崩れた。


(to be continued)

第12話(12)に続く→

全文は、こちらから、どうぞ。



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