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【書評】 李 琴峰『独り舞』

我を忘れるほど気持ちと物語にのめり込むのが小説を読む楽しみならば、今回は難しいだろうと考えていた。著者と主人公はともに外国を出自とする若い女性で、同性愛の物語を、純ジャパニーズでヘテロセクシュアルの中年男が読むのだ。

死ぬ。
死ぬこと。

主人公を語り手はずっと「彼女」と呼び三人称で書いているが、そんな死への執着を独白するように物語ははじまる。死ぬことにとらわれ、なぜ自分が生きているのか分からない。幼いころからそう考え続けてきた台湾人の主人公・迎梅インメー。小学4年生のときに惹かれた丹辰によって同性しか好きになれないことを自覚するものの、その少女が事故死してしまったことで、迎梅はさらに自分の内に籠もる。

親元から離れて通っていた女子高時代に、迎梅は同級生の小雪と深い恋に落ちる。日本文学を学ぶため大学へ進む直前、二人の逢瀬からの帰り道で迎梅は不審者に暴行される。それから迎梅は小雪との間に溝をつくり、心を病んでしまう。虚ろな大学生活を送った後に、紀恵と改名し、日本の大学院へ留学することで、過去と決別しようとする。

大学院を終えてそのまま日本で就職し、しばらくして薫という恋人ができる。しかし過去に暴行され、心を病んだことを紀恵が告白した途端、それを隠していたことは不誠実だと一方的に責めて薫は去っていく。さらに、友人の事件をきっかけに逆恨みを買い、紀恵の性的嗜好と暴行歴、精神病歴が職場で暴露されてしまう。失意の紀恵はオーストラリアのリンカーンズ・ロックを死に場所と定め、日本をも発つ。

日本語の書き言葉は、意識して修飾しない限り、どこか暗さを抱え、死も想起させる。著者は冒頭で「死生観」と書いているが、物語を貫くのは死生観ではなく希死念慮である。「生」の先に「死」があるとか、「死」があるから「生」を照らし出すという「観」は一切ない。あるのは死に対する「観」念であり、これでもかと繰り返されるのは「生」きづらさである。

また、物語の全体を通じて、迎梅=紀恵の表情が解らない。読者は自分に身近な人や俳優、または理想の人物像を作中人物に仮想して投影するものだが、本作品では、どうしても紀恵の顔を思い浮かべられない。高校時代の恋人である小雪、日本で恋に落ちた薫、台湾出身の友人である小書も、表情が見えてこない。唯一、読んでいて顔が思い浮かぶのが、紀恵の同僚である絵梨香である。

紀恵、小雪、薫、小書など、みな同性愛者であり、同質性の高い枠組みの中で結びついている。たしかに迎梅と小雪、紀恵と薫は分かり合えずに離れてしまうけれど、それは性的嗜好を問わず恋愛関係におけるすれ違いである。

それに対して絵梨香はヘテロセクシュアルであり、異性の岡部と恋愛し、結婚に至る。紀恵からすると異質な存在だ。ぶつかり合えば違いが際立つ。一方の存在で他方の存在が浮かび上がるのだ。絵梨香が障碍を抱えているとか、岡部が理屈っぽいとか、描写の巧みさではない。

読者が共感できる作中人物こそ魅力的であり、共感できない人物には魅力がないというのではない。むしろ、異質なものとぶつかり合ったときの描き方が、作中人物を魅力的に映し出しもするし、読後に何の印象も残さない人物にもさせる。作中人物に魅力があるかどうかも、小説の印象を左右する。

紀恵が物語を通じてひたすら語り続ける生きづらさも、たしかにジェンダーや性的嗜好の多様性に理解を示さない閉塞した社会に原因がある。しかし、

人に好意を抱く度に恐怖を感じるし、好意が両想いに発展すればより一層恐怖が増す。いざ勇気を振り絞って恐怖を乗り越えようと行動すると、結局は拒絶と喪失に打ちのめされる。人前ではよく強がっているけれど、彼女だって痛みを感じるし、傷付くことを恐れる。傷付くことを避けるために、今後は容易に行動に移すことも無いだろう。そうして彼女はいつまでも、微かな光も見えない茫漠たる暗闇の中で、独り舞いを続けなければならないのだろう。

とあるように、徹頭徹尾、観念的な独り舞いの物語なのである。

また、文章については、ひたすら熟語、漢語が多く、硬い印象を受けた。漢字の国で生まれ育ち、漢詩に対する素養というのも、日本人が考える以上に生活と知性に密着している。それを表した彼女らしい文体というのなら納得ができる。他方、来日してたった4年で日本語の名文を書くのは見事だという評価は、決して褒め言葉とはならない。出自や性別も伏せて、この著者の文章と、別の芥川賞受賞作家の文章を並べて、どちらがより好みか、優れた文章かを選べとなれば、同じ評価になるだろうか。

読書の楽しみは、我を忘れて感情移入し物語に没入することにある。だが、我を忘れることなく、作中人物や著者と対話しながら、人生や暮らし、人間関係、心の傷や痛みなどを、ともに考えていくのも読書の楽しみである。著者の創った物語を受けとめるだけでなく、著者が物語を創るのに協力していく。紀恵が独り舞うのではなく、読者がともに舞うように彼女が身も心も開いてくれたら、本作は紀恵の物語にとどまらず、「わたしたち」の物語になり得るだろう。

今回の書評は、ミラン・ヨンデラさんの書評を読み、本書の読書会があったならば、どんな読み方、感じ方ができるのだろうと考えて、書いたものだ。正解はない。さまざまな読み方ができるのも、読書の楽しみだ。ヨンデラさん、ありがとう。

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