Lichtung Magazines

美学者・批評家の難波優輝が運営しています。SF美学ラジオやエッセイなどを掲載中。

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最近の記事

TAL YEHEZKELY.「AIRING LITERATURE: READING WITH THE SENSE OF SMELL」まとめ

イェヘズケリーは冒頭で、西洋思想の系譜において嗅覚がいかに疎外されてきたかを指摘する。プラトン、アリストテレス、カントらの哲学者たちが、この捉えどころのない感覚を定義し分類することに苦心したことを強調する。しかし著者は、嗅覚の定義不可能性と一過性を逆手に取り、文学テクストの曖昧で変容し続ける様相を捉える手段として嗅覚的なアプローチが活用できるという。 本論考の中核をなすのが、「雰囲気読解(atmospheric reading)」の概念である。これは作品に満ちる様々な物質的

    • 人生の遊び方は1つか?:人生の意味の哲学のプレイ的転回を提案する

      私たちはどんなときに、自分が生きていることに意味を感じるだろうか。 たとえば、難しい仕事を達成したとき、成長を感じた時、という人もいるだろうし、お気に入りのアーティストのライブで歌い踊る姿を見ている時や、おいしいものを食べている時、という人もいるだろう。 人生の意味の哲学においては、「個人の人生を有意味なものにするのはいったい何なのか?」という問いが、人生における意味、として議論されている(森岡 2023)。 人生における意味の候補として、三つのモデルをよく見かける。一

      • 「愛の対象としての個人:愛と個性に関するヘーゲル的視点」サンダース&スターン

        私たちは、愛する人に「私のどこが好き?」と聞かれて考え込む。 あなたのここが好きだから好きなのだ。と答えることはできる。けれど、それでは言い足りない。もうすこしましに、あなたがあなたであるから、と言いたいけれど、内容がない。「あなた性」のようなものを私が愛している、と言うことはできない。あなたがあなたであるためには、あなたは特定の性質を持っていなければならない。だがもちろん、あなたが特定の性質を持っているから愛しているわけでもない。循環がはじまる。 あなたが持つ性質

        • サハル・ヘイダリ・ファルド「社会運動の変革力」

          著者のサハル・ヘイダリ・ファルドは、方法論的個人主義、集団主義、複雑性理論の3つの説明的枠組みのレンズを通して、社会運動の変革の可能性を批判的に評価している。本稿の狙いは、特に進歩的な社会変革という観点から、社会運動のダイナミクスとインパクトを明らかにすることである。 結論として、社会運動を成功させるためのガイドも書かれており、社会を変えたい人の参考になる。 https://compass.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/phc3.

        TAL YEHEZKELY.「AIRING LITERATURE: READING WITH THE SENSE OF SMELL」まとめ

          エネア・ビアンキ「アーチェリーの美学に向けて」

          アーチェリーの美学についての論文。 この記事では、アーチェリーと美学の複雑な関係を探索し、2つの主要な主張を提示している。第一に、射手が美的体験に関与することは、効率、技術、および機器よりもいっそう、成功のために重要である。第二に、アーチェリーの方法は私たちの世界との相互作用についての深遠な表現になりうる異なるアーチェリー スタイルの明確な哲学的、審美的なニュアンスを強調している。 歴史的背景と哲学的基礎 スポーツと美学の関係は1970年代から議論の対象となっており、ス

          エネア・ビアンキ「アーチェリーの美学に向けて」

          『匂いの文化読本(The Smell Culture Reader)』ごく短い全解説

          『匂いの文化読本(The Smell Culture Reader)』を読んだので、かんたんにコメントを付す。匂い・香りの文化論に関心のある人には広く勧められるいいリーダーだった(ちなみにリーダーとは、たいてい他の雑誌論文や著作の一部を編集してひとまとめにした参考書籍のようなもので、英語圏ではよく発刊されている便利な本のかたちである)。 第一部は香りの都市社会論、第二部は香りの場所論(トポスミア)、第三部は香りの遊歩者(Flatreurs)、第四部は香水、第五部は匂いの感性

          『匂いの文化読本(The Smell Culture Reader)』ごく短い全解説

          「自閉美学」ミカエル・ベリュベ

          自閉症を生きる人々には、しばしば修辞学的無能の烙印が押されてしまう。皮肉やダブルミーニングを介さない。定型発達のような共感ができない。ゆえに、文学的とされるレトリカルな能力がない、と。 けれど、それはほんとうだろうか? レトリックとは定型発達のものだけだろうか? そんな問いを投げかける「自閉美学(Autistic Aesthetics)」を論じる、ペンシルベニア州立大学エドウィン・アール・スパークス文学教授のミカエル・ベリュベによる自閉症の文学研究の書評を紹介する。 Bé

          「自閉美学」ミカエル・ベリュベ

          「障害とフェラリティの間のADHD:解体の政治的な美倫理学に向けて」イヴ・シットン

          ADHDは「治療」すべきなのだろうか? 障害とされているものを欠陥や機能不全としてではなく、「能力の生産的な歪み」として捉えることはできないだろうか? そうすることで、私たちは、ADHDを含めた発達傾向が当たり前だとされている社会のインフラと衝突するときに起こる現象を「フェラリティ」として捉えることができる。フェラリティとは、人間以外の存在が人間のインフラ・プロジェクトと絡み合ったときに生まれるある種の有毒であったり、破壊的であったりする生態学的世界の現象、状態のことだ。イン

          「障害とフェラリティの間のADHD:解体の政治的な美倫理学に向けて」イヴ・シットン

          「ADHDにおける好奇心と探求スタイル」ステグリッヒ=ペーテルセン&ヴァルガ

          ADHDの認識論を論じた非常に興味深い哲学と発達研究のクロスオーヴァーな論文を見つけたので、ここにまとめを共有しておく。ADHD当事者やその周囲の友人や同僚にも益するところ多いだろう。 Asbjørn Steglich-Petersen & Somogy Varga (2023) Curiosity and zetetic style in ADHD, Philosophical Psychology, DOI: 10.1080/09515089.2023.2227217

          「ADHDにおける好奇心と探求スタイル」ステグリッヒ=ペーテルセン&ヴァルガ

          マデリーン・マーティン・シーバー「人間の美しさと人間の主体性」サマリー

          序章:個人と美の関係性について私たちの日常において、自己の主体性と美しさとの間には複雑な関係が存在する。私たちの外見に対する選択は、個々の好みや価値観を反映するものであり、同時に社会的な規範や基準の影響も受けている。こうした基準が人々にとって、自分らしさを表現する手段となる一方で、抑圧的に働くこともある。外見と個人のあり方にフォーカスすると、個人の選択と社会的期待、美の基準を巡る複雑な関係が浮かび上がってくる。 美に関する三つの哲学的アプローチ:擁護、懐疑、修正主義 美と個

          マデリーン・マーティン・シーバー「人間の美しさと人間の主体性」サマリー

          程度問題としての芸術定義論:A℃としてのアート

          美学者の銭清弘は、芸術作品かどうかは程度問題ではないか? と記している。 銭は「これは「芸術である」の記述的用法であって評価的用法ではない」と言う。つまり、より芸術作品であるか、より芸術ではないか、という価値に関わりのない記述についての議論であって、より芸術作品だから「より芸術的だ」という訳ではない。 どういうことか。私たちは、精密に描かれたラテアートを見ると「芸術的だ!」と褒める。雄大なグランドキャニオンを見ると「芸術的だ!」と褒める。これは、ラテアートやグランドキャニ

          程度問題としての芸術定義論:A℃としてのアート

          バーチャルYouTuberとはどんな労働か?:疲労するペルソナのおもちゃ的労働

          ただ遊んでいるだけ?バーチャルYouTuberはどのような種類の労働をしているのだろうか? 彼らはいっけんただ遊んでいるだけのようにみえる。YouTuberであれば、ふつうの人ができないようなふざけた企画を実行してみたり、バーチャルYouTuberであればもっぱらゲーム実況配信をしていたりしている。 しかし、彼らはしばしば疲れている。そのペルソナは疲れを隠しきれない。もし遊んでいるだけなら、疲れるということはない、疲れる前にやめられる。でも彼らは疲れても配信を止められない。

          バーチャルYouTuberとはどんな労働か?:疲労するペルソナのおもちゃ的労働

          バナナはおやつに入るのか:自炊至上主義と食のイデオロギーについて

          「バナナはおやつに入りますか?」。 小中学校の遠足あるいは修学旅行といった課外活動では、ふだんは認められていないおやつを持参できる。そのとき、持参できるおやつの料金に限度額が設けられることがある。そこで児童が教員に向かって冗談のようにして、おそらくは教員を困らせるためだけに発せられるのが「バナナはおやつに入りますか?」という問いである。 教員はすぐさま答えることはできる「入りません」。 しかし、なぜ入らないのかと考えはじめた途端、わたしたちは困惑し始める。例えば、りんご

          バナナはおやつに入るのか:自炊至上主義と食のイデオロギーについて

          難波優輝_2022年_アニュアルレポート

          美学者の難波です。2022年の活動をリストアップしています。 執筆[アニメーション]What Do Children Find in the End?[3月] ループの観点からエヴァンゲリオンシリーズの主題を考察しました。初めての英語論考でした。ポイントは、エヴァンゲリオンシリーズは、「作品の再制作」という観点から物語内容の外からも批評するとおもしろい発見がある、という点です。 😊うれしかったポイント:英語で頑張ってまとまった論文を書けるんだという気づき。 [感情を作

          難波優輝_2022年_アニュアルレポート

          『ビラヴド』を84ページまで読んだ感想

          外部化された苦しみとして、家に憑いているビラヴドを理解した。こうした外部化された苦しみはファンタジー・ホラー作品によく出てくるように思う。同時に、セサに生えている木も、そうした外部化された苦しみだと思う。こうした外部化された苦しみは、他者にケアを求める声のない叫び声だ(ビラヴドは叫んでそうだが)。他人からの差別的な抑圧と暴力の結果であるセサの背中の傷は見ていて苦しくなる。 私にとっては、神戸出身ということもあり、1994年の阪神淡路大震災の傷というものが、あらゆる場所に潜

          『ビラヴド』を84ページまで読んだ感想

          「人生は生きるに値しない」と思っている人と付き合うのは難しい

          人生に何も期待していない人の隣にいるのはすごく苦しくて悲しい。 彼らは急に何かを始めたりやめたりする。たいていうまくいかない。「やめちゃったの?」と聞いても「他にやりたいこともないからやってみた。けど違った」を繰り返す。やりたいからやりたいのではなく、やりたくないことしかないからやってみるのだ。 自分や周囲が傷つくことを平気でやってみる。性的な遊びや賭け事や危ないくすり。人によって違う。けれど動機はぞっとするほど同じである。 「飽き飽きしてたから」。自分と、世界に。

          「人生は生きるに値しない」と思っている人と付き合うのは難しい