「障害とフェラリティの間のADHD:解体の政治的な美倫理学に向けて」イヴ・シットン

ADHDは「治療」すべきなのだろうか? 障害とされているものを欠陥や機能不全としてではなく、「能力の生産的な歪み」として捉えることはできないだろうか? そうすることで、私たちは、ADHDを含めた発達傾向が当たり前だとされている社会のインフラと衝突するときに起こる現象を「フェラリティ」として捉えることができる。フェラリティとは、人間以外の存在が人間のインフラ・プロジェクトと絡み合ったときに生まれるある種の有毒であったり、破壊的であったりする生態学的世界の現象、状態のことだ。インフラと発達傾向の破壊的な遭遇をフェラリティとして役立てることから、私たちは、次の未来の世界の新しいあり方を見つけることができるかもしれない。

ADHDを生きるものが、銃を向けた目標から、目の前を通り過ぎる蝶に目を奪われるとき、彼女は社会の規律をうっかり踏み抜くことができる。「ADとは決して単なる注意力の欠如ではなく、むしろ支配権力によって規定された対象以外への注意力の偏向であることを私たちに思い起こさせる」。


Citton, Y. (2023). Attention Disorders between Impairment and Ferality. Nordic Journal of Aesthetics.

I. 注意の概念的危機への序論

現代における注意欠陥、特に注意欠陥多動性障害(ADHD)という現象は、精神衛生と社会規範をめぐる言説の重大な分岐点を示している。本論は、心理学的・社会学的パラダイムのより広範な対話の中に位置づけられ、「障害」と「フェラリティ」という革新的な二重の枠組みを通して、注意欠陥の一般的解釈を問い直す。

II. 歴史的・社会文化的背景

注意に関連する課題の発生は、工業化とそれに続くデジタル化時代の到来によってもたらされた激動と密接に結びついている。この歴史的分析は、人間の感覚体験と認知プロセスの変容を強調し、注意の危機を社会技術進化の大きな物語の中に位置づけるものである。この議論は、現代社会の集合意識と注意の様式を形成する上で、産業主義が残した遺産の重要性を呼び起こす。

III. ADHDの再文脈化 病理学を超えて

ADHDの文脈で批判的に検討すると、過剰診断と誤った解釈のパターンが明らかになり、複雑な社会現象を病理化する、より広範な社会的傾向の徴候がみえてくる。ADHD診断のインフレは、多くの場合、迅速かつ非厳密な臨床実践から生じるものだが、より深い不調、すなわち社会基盤の不備が個人の心理的病理と混同されていることを示している。「精神障害」の同定は19世紀末にまでさかのぼるが、現在の臨床的カテゴリーは、『精神障害の診断と統計マニュアル』の1980年版(TDA)と1994年版(TDAH)で正式に発表された。

IV. 理論的介入 障害とフェラリティ

ジョナサン・スターンの障害理論に基づき、障害を欠陥や機能不全としてではなく、「能力の生産的な歪み」として捉える方向へと言説はシフトしている。この理論は、障害に対する伝統的な概念に挑戦し、障害を社会的規範や期待との関係をフレーミングする。

障害とは、単なる欠陥や故障ではない。能力の生産的な歪みとして理解するのが適切である。能力そのものは現実のものかもしれないし、想像上のものかもしれない。その歪みは快いものかもしれないし、苦痛を伴うものかもしれない。[障害]は、能力や行動の外的規範、記憶された体現や影響、あるいは、実現されていないか変質した意図など、何らかのものとの関係において存在する。[……]社会的プロセス、知覚、解釈、技術的な操作について説明するとき、多くの学者が、そして多くの制度化されたプロトコルが、パングロッサ的な「可能な限りの最善の世界」という態度をとっている。障害など存在しないと思い込んでいるのだ。しかし、テクノロジーは常に維持され、修理されなければならない。人々は病気になり、身体は壊れ、システムは故障する。世界は障害に満ちている

Jonathan Sterne, Diminished Faculties.
A Political Phenomenology of Impairment (Durham: Duke University Press, 2021) 194 & 197.

筆者は「ADとは決して単なる注意力の欠如ではなく、むしろ支配権力によって規定された対象以外への注意力の偏向であることを私たちに思い起こさせる」と述べる。

同時に、フェラル・アトラス(Feral Atlas)プロジェクトで探求されている「フェラリティ」という概念は、生態系や社会環境に対する人間のインフラストラクチャーの試みが、意図しない、しばしば有害な結果をもたらすことを明らかにするものである。「人間以外の存在が人間のインフラ・プロジェクトと絡み合ったときに生まれる生態学的世界を探求する」。この枠組みは、注意障害も同様に、人間が作り出した環境内での複雑な相互作用から生じる可能性があることを仮定している。

V. 解体の政治的美-倫理観

交差的アプローチを提案するこの議論は、注意と障害の問題に取り組み、それを是正するための政治的美-倫理を提唱している。これは、社会的・政治的なプラクティスに情報を与え、変革する美的探求の可能性を強調しながら、創造的にシステム的な課題に関与するパラダイムシフトを必要とする。

VI. 抽出主義的注意: 現代の感覚経済への批判

現代のアテンション(注意)の概念化に関して、その抽出主義的な性質について批判されている。それは、環境や社会基盤への全体的な影響を無視する一方で、目先の利益を優先させるものである。この批判は、持続可能で倫理的な配慮の枠組みの中で、注意の実践を再認識するための明確な呼びかけとなる。

VII. ナビゲーション・フレームワーク: フェラリティとコ・ハビタビリティ

注意の危機の複雑さをナビゲートするために、2つの概念的な羅針盤を提示する。これらのナビゲーション・ツールは、私たちの現在の社会的課題を理解し、より持続可能で包括的な未来への道筋を描くための洞察を提供するものとされている。

論文より引用

フェラリティの羅針盤

「フェラリティの羅針盤」とは、現代社会が直面している環境や社会の問題にどのように立ち向かうべきかを示すための道具だ。具体的には、私たちがどのような状況にいるのかを理解する手助けをしてくれる。この羅針盤は、特に工業化による影響を受けた先進国の人々が直面する問題に焦点を当てている。

この羅針盤を使うことで、私たちは自分たちの生活様式がどのように環境に影響を与えているのか、またその逆も理解することができる。つまり、私たちがどこにいるか、どのような問題に直面しているかを明確にするための道具なのだ。

フェラリティ (Ferality)

フェラリティは、人間のインフラストラクチャーが自然環境や社会に意図せず及ぼす影響を指す。これは、工業化や都市化などの人間活動が生態系や社会のバランスに不意の変化を引き起こすことを意味する。例えば、道路や建物の建設が野生動物の生息域を変えることや、工業排出物が環境汚染を引き起こすことなどがフェラリティの一例だ。それぞれの要素を紹介しよう。

飽和 (Saturation)

サチュレーションは、情報や刺激の過剰な状態を指し、特に現代社会における情報過多の状況を表す。メディアやデジタルデバイスからの絶え間ない情報流入により、人々の注意力が分散し、集中力が低下することを指す。この状態は、人々が重要な情報を見逃したり、ストレスや疲労を感じる原因となる。

引き算 (Subtraction)

サブトラクションは、不必要または有害な要素を取り除く行為を指す。これは、過剰な情報や刺激、環境への負荷などを減らすことを目指す。例えば、デジタルデバイスの使用を制限することや、環境に配慮した生活様式を採用することがサブトラクションの一環となる。サブトラクションは、持続可能な社会や環境を実現するための重要なステップだ。

インペアメント (Impairment)

インペアメントは、能力の減少や機能の障害を指すが、単なる欠陥としてではなく、能力の「生産的な歪み」として捉えるべきだ。これは、個人の能力が外部の規範や期待と異なる場合に生じると考えられる。例えば、ADHD(注意欠陥・多動性障害)がこれに該当する。インペアメントは、障害を単なる不足と見なすのではなく、個々のユニークな状況や能力に対する新しい理解と受容の必要性を示唆している。

つまり、フェラリティではなくインペアメントに、飽和ではなく引き算に技術や関心を向けるべきなのだ。

コ・ハビタビリティの羅針盤

一方、「同居性(コ・ハビタビリティ)の羅針盤」は、私たちが目指すべき方向を示す。これは、地球上で異なる文化や種が共存するためにどのようなアプローチを取るべきかを考える際に役立つ。具体的には、私たちの生活様式やインフラストラクチャーが、より持続可能で、多様性を尊重するものになるように導く役割を果たう。

この羅針盤は、私たちがどこへ行くべきか(目指すべき未来)、そしてそこにたどり着くためにはどのようなステップを踏むべきかを示す。それは、文化的な感受性や注意力の変革など、さまざまな要素を含んでいる。例えば、美学や物語を通じて、私たちの視野を広げ、地球上の他の生物や文化との共存に向けて意識を高めるようなアプローチだ。

同居性 (Co-habitability)

同居性は、異なる生物、文化、コミュニティが共存し、互いに支え合うことができる状態を指す。これは、人間だけでなく、動植物や自然環境との調和を目指す概念だ。同居性の実現には、生態系の保護、資源の持続可能な利用、文化的多様性の尊重などが含まれる。この考え方は、地球上のすべての生命が互いに依存し合っているという認識に基づいている。

インペアメント (Impairment)

インペアメントは、一般に能力の減少や機能の障害を指しすが、同居性の文脈では、個々のユニークな状況や能力に対する理解と受容の重要性に焦点を当てる。障害や限界を、共存のための障壁としてではなく、多様な生命体やコミュニティが共に生きるための多様性として受け入れることが含まれる。

(脱)感化 (De-sensitization)

(脱)感化は、私たちが周囲の環境や情報に対してどのように反応するかに関連する概念だ。脱感化は、過剰な刺激や情報からの適切な距離を保つことを意味するが、感化は、私たちの感受性や認識を再調整し、自然環境や他者に対してより敏感になることを意味する。このプロセスは、持続可能な共存を目指す上で重要な役割を果たす。

ディスインクリネーション (Disinclination)

ディスインクリネーションは、特定の行動や傾向に対する意志の欠如または反対の傾向を指す。同居性の文脈では、持続不可能な慣行や環境に対する無関心な態度に対する反対の傾向、つまり、より持続可能で共生的な慣行への傾向を育むことが重要だとされる。この概念は、私たちが日常的に行う選択が環境や他者にどのような影響を与えるかを意識することを促す。

これら二つの羅針盤は、現代社会が直面している複雑な問題に対処するためのガイドラインを提供する。「フェラリティの羅針盤」は現状の理解を、「同居性の羅針盤」は未来への道筋を示す。これらを通じて、私たちはより持続可能で平和的な共存に向けた行動を考え、実行に移すことができるとされる。

VIII. 結論としての考察

結論として、注意障害に関する言説は、障害とフェラリティというレンズを通してフレーミングされ、メンタルヘルスと社会規範に対する私たちの集団的アプローチの全体的再評価を提唱している。より広範な社会経済的・インフラ的背景の中に注意力の課題を位置づけ、これらの問題への取り組みにおいて持続可能で倫理的な実践を促進するような、ニュアンスのある理解を求めている。この包括的な分析は、注意と障害に関する言説に内在する複雑性を解明するだけでなく、この領域における今後の調査や介入のための基礎となる。

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