『ビラヴド』を84ページまで読んだ感想

外部化された苦しみとして、家に憑いているビラヴドを理解した。こうした外部化された苦しみはファンタジー・ホラー作品によく出てくるように思う。同時に、セサに生えている木も、そうした外部化された苦しみだと思う。こうした外部化された苦しみは、他者にケアを求める声のない叫び声だ(ビラヴドは叫んでそうだが)。他人からの差別的な抑圧と暴力の結果であるセサの背中の傷は見ていて苦しくなる。

私にとっては、神戸出身ということもあり、1994年の阪神淡路大震災の傷というものが、あらゆる場所に潜んでいる気がする。日本では、様々な差別があるのだが、震災の傷の方が、明確な加害者がいないために、言葉にしやすいということもあるのかもしれないが、語りやすく、また土地の傷として明確化されているので、触れやすいのだろうけれども。

心的な傷が外部化されるルートは、身体的な傷に移されるか(自傷や病気・自殺)あるいは他人への傷害に変換されるか(虐待)、言葉にされるか、この3つがあるだろう。きっと言葉にするのが一番いいのかもしれないが、それがもっとも難しくもある。

『ビラヴド』でも、84ページまで読んでいて、どこか言葉につまっている気がする。そのつまり具合が、84ページまでしか読めなかった読みづらさにつながっているように思った。 あらゆる事物が口ごもっている作品に思えた。言葉はもとより、身体の傷も、他人への傷害も、土地の傷も、(何より途中で彫り止められた墓石も)何もかもがうまく傷について語れないような物語に思えた。 語れなさ、というか、表現にさえできなさ、口ごもりがこの物語の最後に解消されるとしたら幸福だろうと思った。

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