「愛の対象としての個人:愛と個性に関するヘーゲル的視点」サンダース&スターン
私たちは、愛する人に「私のどこが好き?」と聞かれて考え込む。
あなたのここが好きだから好きなのだ。と答えることはできる。けれど、それでは言い足りない。もうすこしましに、あなたがあなたであるから、と言いたいけれど、内容がない。「あなた性」のようなものを私が愛している、と言うことはできない。あなたがあなたであるためには、あなたは特定の性質を持っていなければならない。だがもちろん、あなたが特定の性質を持っているから愛しているわけでもない。循環がはじまる。
あなたが持つ性質だけを愛しているわけではない。
あなたそのものを愛していると言いたくても、それは見当たらない。
これから紹介する「愛の対象としての個人 - 愛と個性に関するヘーゲル的視点」では、ヘーゲルの具体的普遍の概念を通して、誰かをその性質ゆえに愛することと、その人そのものとして愛することの、一見相反する側面を調和させることを目指している。非常におもしろい愛の哲学の論文である。以下紹介していく。
https://journals.publishing.umich.edu/ergo/article/id/4642/
ちなみに、愛の哲学と聞くとびっくりするかもしれないが、現代の哲学ではまじめに(きまじめすぎるほどに)愛の理由や愛の対象や愛の価値が様々な人々によって論じられている。その入門としては源河の次の『愛とラブソングの哲学』がうってつけである(ただ、私は源河の立場(愛の無合理説、症候群説)にはかなり賛同していないが)。
人を愛すること、その人そのものを愛すること、その性質を愛すること
この論文はまず、その人のユニークな性質のために誰かを愛するとすると起こる問題を提起する。例えばある人の「ユーモラスさ」を愛するとしよう。しかし、「ユーモラスさ」の性質は一般的なものであり、個人に固有のものではない。
この緊張関係は、普遍性、乱婚性、上位互換といった問題を生み出す。
これをAグループの問題と筆者らは言う。この問題は、性質は抽象的であり、それゆえどのような場合にも同じように例化されるという考えによって引き起こされる。
さらに別のグループBの問題も生じる。この問題は、個人を愛するか、その性質を愛するかの間の潜在的な緊張によって引き起こされる。すなわち、
個性の形而上学
著者らはこの緊張を解決するために、ヘーゲルの枠組みを導入する。ヘーゲルの視点は、個体性(individuality)、特定性(particularity)、普遍性(universality)は相互に依存していることを示唆している。この見解では、個人は単なる特性の束ではなく、これらのあり方を体現する独自の方法によって定義される。
まず重要なのは、ヘーゲルによる普遍の区別である。今風に言い換えると、ヘーゲルは、実体的普遍(substance universals)と性質的普遍(property universals)を区別したとされる。実体的普遍は「ネコ性(cathood)」とか「人性(personhood)」とかといったモノの基盤になるようなもの。
性質的普遍は2種類に分けられる。一つ目は「30cm」だとか「30kg」だとか。これらは、抽象的普遍とも呼ばれ、それぞれの対象の個体性には関わらない。ネコのティブルスと定規はともに「30cm」という抽象的普遍を共有しているが、それぞれの個体性に「30cm」であることは無関係である。
対して、性質的普遍のなかでも「情緒豊かである」「怒りっぽい」「クレバーである」といった性質は、ある個体を特定化し、ある個体ならではのあり方と切っても切り離せない。
まとめなおすと、「ネコ性」「人間性」といった実体的普遍と「情緒豊かである」「怒りっぽい」という、実体を特定化する性質的普遍は両者ともに具体的普遍と呼ばれる。なぜなら、両者は、ある個体が他でもないその個体であることを支えるからだ。
前者の実体的普遍は、その個体が「ネコ性」でも「イヌ性」、「机性」を持っているわけではなく「人性」を持っている「人」であることを支え、その「人」が「情緒豊かである」「怒りっぽい」「クレバーである」といった性質を持つ「情緒豊かで怒りっぽく、でもクレバーである人」であると特定化するからだ。
愛する対象は、実体的普遍でも、性質的普遍でも、個体だけでもない
さて、では、道具は揃った。個体性(ベアトリーチェ)、実体的普遍性(人性)、特定的な性質的普遍性(華やかさ、美しさ)。ヘーゲル的にこれらは不思議な関係をつくっている。それを示したのが下図だ。
不思議な図である。この図は、個体性(I)と特定的性質的普遍(P)と実体的普遍性(U)がどれも切り離せないということを示している。どういうことか。それぞれ見ていこう。
まずは、一番上の「普遍性(U)」の棒を見てほしい。棒の先端から、根元に視線を移してみよう。そうするとどうなるだろうか。普遍性が消えてしまう。たどり着いたのは個体性である。その個体性をつくるもう一つの棒をたどってみると、個体性は消え、特定的性質的普遍(P)にいたりつく。つまり、
どういうことか。言い換えると、私たちは、たとえばカント的に「人性(personhood)」そのものを愛することはできない。「一般的な人」は存在しない。私たちは「一般的な人」を愛することはできない。そうではなく、つねに具体的な「愛情深いあの人」や「飄々としたあの人」という個体を愛する。
では、個体そのもの、つまり「ベアトリーチェ性」や「マイケル性」「太郎性」「あなた性」を愛することはできるのだろうか? できない。なんの性質も実体的普遍性ももたない「個体そのもの」といえるような「裸の個体」は存在しない。図の真ん中の「Individuality」の棒を見てみよう。先端から根元に辿っていくと、棒は消えてしまいUniversalityとParticularityの棒の根元にたどり着く。「個体そのもの」を愛そうとしても、それは実体的普遍性と特定的性質的普遍の支えなしでは存在しえない。
すると、私たちは、「性質そのもの」を愛していることになるのだろうか。「飄々」「優しさ」それ自体を愛しているのだろうか?「Particularity」の先端からたどると、「Individuality」にたどりつく。そして特定性の棒は消えてしまう。
私たちがある具体的な人を愛するとき、愛の対象はその人が「人であること」という「普遍性」にも還元できないし、その人が「ユーモラスである」といった「性質」にも還元できないし、「その人である」という「その人性そのもの」にも還元できない。
この流れをより詳しくみてみるために、ソクラテスとその恋人の架空の会話を想像してみよう(以下は引用ではなく試みにつくってみたものだ)。
私たちは誰かを、その人が「人」であるために愛しており、その意味で普遍的なものを愛している。同時に、その人が「特定の仕方で人である」ことで、現実化している、その人ならではの性質を愛している。そして、その人を「その人として」愛するとき、普遍的なものと性質の支えが必要になる。
愛の哲学的課題への応答は割愛
この論文は、愛の対象や理由に関するさまざまな反論に答えている。ある個人に対する愛は、その個人固有の性質の体現に固定されているため、性質が変化しても堅固であり、持続しうることを強調する。詳しくは論文を見てほしい。
結論
本稿では、ヘーゲルの具体的普遍の概念が、個人への愛を理解するための説得力のある方法を提供すると結論づけた。ヘーゲルの具体的普遍の概念は、個人への愛を理解するための説得力のある方法であり、個人を単なる特性の集合に還元することなく、その性質のためにどのように誰かを愛することができるかを理解するための枠組みを提供する。
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