程度問題としての芸術定義論:A℃としてのアート
美学者の銭清弘は、芸術作品かどうかは程度問題ではないか? と記している。
銭は「これは「芸術である」の記述的用法であって評価的用法ではない」と言う。つまり、より芸術作品であるか、より芸術ではないか、という価値に関わりのない記述についての議論であって、より芸術作品だから「より芸術的だ」という訳ではない。
どういうことか。私たちは、精密に描かれたラテアートを見ると「芸術的だ!」と褒める。雄大なグランドキャニオンを見ると「芸術的だ!」と褒める。これは、ラテアートやグランドキャニオンが芸術作品っぽい、と記述しているというよりも、「芸術的=美的に優れている」くらいの褒め言葉として「芸術的」という言葉を用いているに過ぎない。
いま私たちが考えているのは、よい芸術作品かどうか、ではなく、芸術作品かどうか、の話である。
芸術作品かどうかは程度問題である、という主張は非常に興味をそそられる。優れた論文や美しい数式やパズルやピカピカ光るキーボードや美しく切りそろえられた毛並みの犬はみなそれぞれの程度に芸術作品である。
こうした、芸術作品度数を「A℃」=「アー度(Artistic Degree)」と呼ぼう。
論文、数式、パズル、キーボード、犬。その中でどれが美術館に収蔵されたり、その作り方や保存の仕方が芸術大学で教えられるのかは、A℃によったり、他の社会的・政治的な理由によるだろう。
銭も言うように程度問題としての芸術作品の考え方は分析美学においてしばしば取り上げられる芸術の定義であるクラスタ説と相性がよい。
どういう特性を満たせばある事物が芸術作品であるのか? この問いに対して、ベリズ・ゴードは、いくつかの特性を満たせば、と答える。ゴートは例として、以下の規準を書いている。
ゴートの規準を流用すれば、これらの性質を満たせば満たすほど、A℃が上がるといえる。
しかし、A℃はまともな度数なのか?
とはいえ、論文はそれぞれの学問分野においてより論文かどうかが測られたり、パズルはよりパズルかどうかが測られたりできるなかで、「より芸術」である、というA℃はあまりにも抽象的で領域横断的すぎるのではなかろうか。A℃の中身としてリストアップできる性質は、あまりにも雑多ではなかろうか。
一つの答えは、そもそも芸術作品かどうか、という私たちの判断がそもそもぐにゃぐにゃにできているから、A℃はその実態を反映したものに過ぎない、というものだろう。
この答えは人の神経を逆撫でするところがある。A℃という考え方は、様々な領域で「これがアートである/これはアートではない」「これが芸術である/これは芸術ではない」と指定し、それぞれの領域での守りたい文化がある人々にとっては苛立ちを引きおこすかもしれない。「いや、芸術作品かどうかは、私たちの文化においては明白だ」と。それは正しい。特定の文化において特定の芸術概念はかなり明白のはずだ。なぜなら、特定のA℃判断の特性のセットがおそらくは明確化されているからである。
しかし、文化横断的に見たときには、芸術概念はつねに係争中であり、それぞれの領域のプレイヤーたちが、その概念の決定権を巡って争っているように思われる。A℃をめぐる争いが日々、美術館で、ステートメントで、批評文で起こっている。A℃のどの要素がより重要であり、より重要でないのか。ある事物を褒めるときにA℃を考慮すべきか、すべきでないか。
程度問題としての芸術、という考え方は、遊び心に満ちた概念だ。それは芸術概念の一貫性を破壊するたぐいの概念である。
しかし、芸術実践を行い、批評する人々にとってはなかなか役立つ概念ではなかろうか。いま、自分がどのタイプの芸術文化Xに参入して作品を作り、批評するのか。どのタイプの聴衆に訴えかけるのかを考えるときに、いま自分が参加している芸術文化Xが重視するA℃の規準とは何か、どういう特性の組に基づいてA℃が測られているのか、を考えることができるだろう。
大文字のアートから、程度のアー度へ。芸術をめぐる語りはまだまだ続く。
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