人生の遊び方は1つか?:人生の意味の哲学のプレイ的転回を提案する

私たちはどんなときに、自分が生きていることに意味を感じるだろうか。

たとえば、難しい仕事を達成したとき、成長を感じた時、という人もいるだろうし、お気に入りのアーティストのライブで歌い踊る姿を見ている時や、おいしいものを食べている時、という人もいるだろう。

人生の意味の哲学においては、「個人の人生を有意味なものにするのはいったい何なのか?」という問いが、人生における意味、として議論されている(森岡 2023)。

人生における意味の候補として、三つのモデルをよく見かける。一つ目は、成果主義、二つ目は、達成主義、そして、三つ目は、人生の意味の物語説だ。

成果主義

一つ目の成果主義は分かりやすい。偉大なことを成せば、人生は有意味なものになる、という考え方だ。「より多くの他者に影響を与えるほど、より長く続く足跡を残すほど、人生はより重要である」といったふうなものだ(鈴木 2023)。こういう人はよくいるだろう。エリート街道まっしぐらな人やお仕事が大好きでお仕事の才能がおありの方がよくおっしゃっている。

達成主義

二つ目の達成主義は、ひねりが効いている。成果ではなく「なんらかの目的を達成するという過程それ自体に価値がある」とする立場だ(長門 2023)。たとえば、100mを9秒台で走るために一生懸命努力を重ねる人がいるとする。彼女はいろいろなケガや故郷の戦禍を乗り越えて、見事9秒台で走り切った。ところで、チーターは100mを3秒台で走れる。100mをいかに早く走るほど意味があるとしたら、彼女はチーターに負けてはいる。しかし、彼女にとって、彼女が大切にする「100mを9秒台で走る」というプロジェクトの意味は、チーターが何秒で走れようが色褪せない。彼女がさまざまん困難のなかで、成長しながら彼女のプロジェクトを達成するとき、それは彼女にとってとても意味のあることなのだ。こういう考え方の人もよくいるだろう。身一つで起業したり、さまざまな障害を乗り越えた人々を讃えるドラマだったりは、達成を寿いでいるし、当人も満足そうである。

物語説

三つ目の物語説は、もうすこしおしゃれである。人生を評価する時、私たちは、成果だけでも達成だけでもなく、「その人生の物語に備わる、その人生に固有の生き様の美しさ」と考えるのがこの立場だ(鈴木 2023)。若いうちに挫折し、たとえ偉大な才能を持ち合わせることにはならなかったとしても、音楽を愛し、定年後にバンドをしてみたり、合唱仲間と一緒にコーラスをしてみたりする人生は、その物語の軌跡によって意味があるといえるだろう。

どれもしっくりこない

さて、いま見てきた三つの人生における意味についての説のどれにあなたは共感するだろうか。私はどれもよくわからない。もちろん、これらのいずれかが向いている人はすぐに分かる。人に思いやりを持てないが、ひたすら仕事に邁進したい人は、成果主義で頑張ってくれればいいし、何か目的を定めて自分なりのプロジェクトを追求したい人や悲劇的な香りのする人には達成主義をおすすめするし、過去を振り返りながら、しみじみするのが好きな人には物語説がぴったりだ。

しかし、私はこれらのいずれのモデルも私の人生を真に有意味にしてくれる事柄を言い当てているようには思えない。

おもちゃ説

私にとっての人生の意味とは、私が周りの世界や人と遊んでいるとき、つまり、自分や世界や人をおもちゃとして遊んでいる時に生じる。これを「おもちゃ的な人生の意味」と呼ぼう。

私にとって、人生における意味の源泉は、何かの成果、でもなく、何かの達成、でもなく、何かの物語、でもなく、私が遊べているときに感じられるものなのである。たとえば、友人と議論していて、意味のわからないアイデアを二人で展開させてどこにいくかを試している時、道端の猫に対して威嚇をして、怒られる時、いつもとは違う材料でカレーを作る時、私は人生の有意味さを感じる。

様々なプレイスタイルが人生の意味をつくる

おもちゃ説では、人生の意味というにはあまりにも頼りない、と心配になる人もいるだろう。もちろん、そういう人のために、他の人生の意味のモデルも用意している(以下は、難波 forthcoming の議論も参照)。

物語的な人生の意味:自分に起こる出来事をこれまでの出来事を含めて一貫したかたちで物語的に理解することで、その都度編集される人生の意味を見出す。 

ゲーム的な人生の意味:自分で決めたプロジェクトを、一定のルールにしたがって達成するプロセスそのものに人生の意味を見出す。達成主義にほぼ同じ。成果主義も含む。

おもちゃ的な人生の意味:自分と世界を遊ぶことで互いにおもちゃになったりおもちゃにされたりするなかで、遊動する状態そのものに人生の意味を見出す。

ギャンブル的な人生の意味:自分を何かに賭けることで、強烈な自己変容を行うことに人生の意味を見出す。

以上の4つは人生のプレイスタイルの違いである。物語というプレイが好きなのか、ゲームプレイが好きなのか、おもちゃのプレイが好きなのか、ギャンブルのプレイが好きなのか。それぞれのプレイヤーのプレイスタイルによって、どんなプレイが人生の意味をもたらすかが違う、と私は考えている。もちろん、一人の人に複数のプレイスタイルは共存しうるが、その共存のしかたがバランスを欠いていたりしうる。

たとえば、おもちゃ的に生きている人がゲーム的に生きろと言われてもたいへん困る。達成や成果になんらの関心がないからだ。それよりも、いまの遊動状態がいかに興味深いかが重要なのである。

あるいは、ギャンブル的に生きている人が物語的に生きろと言われると、物語の一貫性を破壊し、次の自己に遭遇したくなって耐えられなくなるだろう。

人生の意味の哲学のプレイ的転回

というわけで、私は人生の意味の哲学に「プレイ的転回(play turn)」を提案したい。人生の意味の哲学に関心のある哲学者の多くは、ゲーム的なプレイヤーと物語的なプレイヤーであり、人生の意味のモデルがゲームと物語に不均衡に固まっているように思えるのだ。

そうではなく、人生の有意味さを感じるプレイスタイルとして、あまりまじめに取り上げられていなさそうな、おもちゃ的なプレイもあるし、ギャンブル的なプレイもある、ということを主張したい。

プレイスタイル論の実践的意義

人生の意味のプレイスタイル論は、実践的な意義がある。人々が人生の意味に悩む時、人々は自分に合っていないプレイを環境や社会から強要されている、と私は考える。ゲーム的な生き方が好きなのに競争できなかったり、物語的な生き方が好きなのに競争させられたり……。人生の意味を再び見つけるために、人生に悩む人に対して「適切なプレイスタイルを見つけよう」という提案ができることが私のプレイスタイル論の大きな実践的美点である。

さらに、これからプレイスタイル論を発展させていけば、それぞれのプレイスタイル別の人生の意味の見失いがちなポイントや、他のプレイスタイルの人とのうまい共存のやり方、さらには、行政、企業が複数のプレイスタイルをバランスよく調和させる施策や労働のあり方の見直しのヒントを見つけることもできるだろう。

そうすることで、人類が人生の意味をもっとかんたんに見つけることもできるし、互いに共存していくことがたのしくできるようになるに違いない。

そういうわけで、人生の意味の哲学のこれまでの素晴らしい蓄積と並行して、人生の意味のあり方を、様々なプレイスタイルから考えていくことを提案したい。

参考文献

森岡正博(2023)「人生の意味の哲学はどのような議論をしているのか」

鈴木生郎(2023)「広大な宇宙の中でちっぽけな人生に何の意味があるのか」

長門裕介(2023)「人生の意味と自己実現」

以上は『人生の意味の哲学入門』(森岡正博、蔵田伸雄編、2023、春秋社)所収。

難波優輝(forthcoming)「 おもちゃ的自己:存在のモードの美学」『REPLAYING JAPAN』 Vol. 4

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